海部俊樹元首相が亡くなった。「神輿は軽くてぱーがいい」と小沢一郎から言われたというのが有名だが、海部内閣の支持率は一貫して高く、平均的にみて小泉内閣に匹敵するものだった。
ある意味で日本人好みのリーダーで知事などによくいるタイプだ。しかし、肝心な踏ん張りどころでメリハリがつけられなかった。そのことが、私は岸田政権が海部政権に似てないか不安になっている。
支持率が高くても歴史的評価が低くては満足できるはずなかろう。
私がゆっくりお話ししたのは、退任後しばらくして、首都機能移転問題で話を聞きたいといわれてお伺いし、二人でお話ししたことがあった時だが、バランスの取れた、まっとうな見識をもった立派な政治家だと思った。
初当選のときのキャッチフレーズは「サイフは落としてもカイフは落とすな」だったが、演説の名手として知られ、演説には定評があった。前任者の宇野宗佑のような美辞麗句を並べるのでなく、よどみなく流れ、出席者に対する気配りの名手でもあった。
国際舞台でもまずいことをいうわけでないが、印象稀薄だった。私はたまたまドイツのヘルムート・コール首相が少人数を相手に話す勉強会に出たことがあるが、ヒューストン・サミットの模様を語るなかで名前も思い出さず、「日本の首相はいつものように微笑んでいただけ」といったのを聞いた。
この海部政権のときにバブルは絶頂に達し、そして崩壊した。バブルについては、中曽根・竹下政権に責めを問うべきだが、その後始末を付けるには荷が重すぎた。また、湾岸戦争では、三木派的なハト派体質に拘って機敏に動けなかった。
外交については、そもそもあまり関心事項であるようにみえなかった。
しかし、支持率は高かった。日本人好みのリーダーだったからだが、逆に岸田政権の高支持率をみると、ちょっと海部政権に似てないか不安になることがある。
以下は、1月27日発売予定の「日本の総理大臣大全 伊藤博文から岸田文雄まで101代で学ぶ近現代史」(プレジデント社)の一部だ。
宇野内閣が退陣した後、竹下派の橋本龍太郎に期待があったが、女性にもてすぎるのが心配だった。三木派では河本敏夫にとってラスト・チャンスとみられたが、高齢の上に自身がオーナーだった三光汽船破綻によるイメージダウンもあった。
そこで、河本派の番頭格だった海部俊樹に竹下や金丸、小沢が目を付けて、河本を抑え込んだ。海部が当選回数は多いが年齢は若く、イメージ的にも若々しいということ、国民が三角大福の総裁選で敗北した三木武夫の傍らで号泣した海部にクリーンなイメージを持っていたことも幸いした。
しかし、この経緯から、海部は竹下派の傀儡といわれ、第1次内閣の閣僚人事も、小沢一郎幹事長を中心に進められ、海部は決まってから名簿を渡さされる始末だった。リクルートと少しでも関係があった政治家は避けられたので、軽量内閣であった。
しかし、総選挙で、自民党は20議席ほど減らしたものの安定多数を確保した。
1989年の大納会において東証平均は38915円を記録し、これはいまだ破られていない史上最高値である。世界ではベルリンの壁が崩壊し、ルーマニアではチャウシェック独裁体制が倒れるなど激動の時期だった。
第2次海部内閣はそれまでの内閣より深刻な政策判断を求められた。冷戦の終了に伴う国際情勢の変化と湾岸戦争、北朝鮮や天安門事件後の中国への対応、日米構造協議、バブルの崩壊、政治改革などである。
穏健なリベラルである海部は良くも悪くも常識的な対応をして、世論もそれを支持していたが、まったく不十分で、歴史的評価は本人に気の毒なほど低い。
当時の政局は政治改革を中心に動いていたが、いまとなっては、優先順位を間違っていた。
湾岸戦争で掃海艇の派遣くらいしか人的貢献ができずに、そのかわりに130億ドルの拠出をしたが、発信力不足もあって評価は低かった。
天安門事件の処理については、制裁を緩やかにすることに動いた。これを非難する人も多いが、当時は鄧小平を助けて改革開放路線を維持させることが最優先だった。
政権が倒れたのは、小選挙区制の導入を含む政治改革関連三法案を竹下派の意向で国会に提出したが難航したので、海部は「重大な決意」といって解散しようとしたが金丸が同意しなかったので、総裁選挙での再選をあきらめて辞意表明した。