物事に正解はあるのか?

ロッテの佐々木朗希投手が前回の完全試合後の登板で8回まで再び完全試合を演じ、観戦しているファンをはじめ、ネットでもテキスト同時配信するなど日曜日の午後を沸かせました。ところが井口監督は8回が終わったところで交代を告げます。観客としては「なぜ?」「世界記録ものなのに」という声が聞かれる中、監督は「あれが限界」という判断を下しました。

Willard/iStock

これに対する世間の声は当然、割れています。批判の声も多いのですが、これに正解はないのです。監督の判断が正解だったかもしれないし、そのまま続投すればあと3人と思うでしょう。しかし、8回の時点で試合は0対0、つまり9回投げても試合は終わらないかもしれないし、勝ちになるかも当然わからないところでした。その判断は極めて重要だと思いますが、報道はその部分は淡泊です。

世の中、残念ながら分かれ道があった際に両方「お試し」することは不可能です。そしてどちらかへの「英断」の結果、それが判断者の期待に背かなければ正解だったというでしょう。いや、仮に失敗しても「あの時はどちらの判断をしても同じだった」ということもあるかもしれません。

昨日のブログ「ロシアが目指すこと」のコメントは実に興味深いものでした。なぜなら多くのコメントに強い自己主張が散りばめられており、無数の「戦争専門家」がいらっしゃることが改めてわかりました。今回の戦争に関しては非常に強い意見が増えてきたのは戦局よりも個人の信条がはっきりしてきたことが読み取れます。

今回のことで、あるいは以前からロシアが嫌いの方には何を言ってもロシアが悪い、プーチンは消えろ、になってしまいます。そうなると何を言っても「正解」「不正解」が先にきて議論をするステージに上がれなくなります。

世論というのは概ね主流の考えです。ところがこの主流の考えは時として必ずしも「正解」ではなかったのではないか、と論じられることはしばしばあります。バブル崩壊後、失われた〇年はなぜ起きたのか、という議論をすれば私も含めて、世間一般に語られる事実に対して断言調の意見が5つも10も出てきます。が、残念ながらそれを検証することは困難で、まったく同じ状況、環境での再現はできません。それゆえ、教訓だけが残ります。

日本的発想の特徴に世論に対して新たな切り口の「事実」を突き付けて「ほれ、今までの考え方は違っているじゃないか?」とするケースはよくあります。この10年ぐらい、ネット記事や書籍の見出しに過激なものが多く見られるのは「新事実」と称する部分に焦点宛て、それが人々の興味をひくからです。

日経ビジネスに作家の安部龍太郎氏が連載で様々な歴史の見識を披露しています。最新号には織田信長と豊臣秀吉の話が出てきます。

安部氏はいくつかの証拠(文献)を提示しながら明への出兵を拒否していた信長に対してスペイン、イエズズ会は明を制圧するためには信長を倒し、理解力のある秀吉に天下を取らせることが重要であると考えます。そこに明智光秀が信長攻めをする計画を知り、イエズス会が様々な後押しをします。そして秀吉天下の際には朝鮮出兵(実際には明を相手にする出兵)を「約束通り」行うのである、という考えを披露しています。

なるほど、これは面白い説だと思います。しかもよく調べているし、安部氏の知見からすれば思わずそうだったのか、と信じてしまいそうになります。ところがそれは現時点では氏の考えであり、学術的に認知されたわけではないので世の判断基準を変えることにはならないのでしょう。

では、学術的に認知されるとはどういうことか、といえばそれは学会でどう扱うかであります。ところが派閥がこれまた主流と反主流に分かれるわけで政治的議論と判断が繰り広げられます。そこでも絶対的な正解は生まず、妥協の産物となることもしばしばです。

私は株式市場と日々向かい合っています。そこには無数の情報が流れていますが、いちいちそれに付き合っていると自己判断はできません。それらの情報の多くは嘘ではないのですが、その「事実」が大勢を動かすほどのものか、という観点で見ます。そうすれば聞き流す、無視をしても問題はまずありません。

本当の正解は残念ながら誰もわかりません。北米は訴訟社会です。訴訟があるのは双方に疑義があるためで、その為に法律家はより長く詳細にわたる法律図書を作り出します。それでも訴訟は絶えないということは世の中に絶対的なルールすらまだ完成していないとも言えます。

私が時々述べるのはブログは書き手の考えに留まるという点です。もしも皆さんがこれを読むのに何某かのお金を払っているとすれば文句はいくらでも言われます。そうではない点において社会的に無責任な発信をしているような場合を別として世の中には様々な見方、考え方があること、それを知ることはむしろ悦びであるという発想転換も必要です。

なるほど、そういう見方、判断もあったのか、でよいのです。それ以上をコントロールできるのはその問題の当事者だけなのです。そしてその判断も正解か、不正解か答えはないのです。

最後に、名将と呼ばれる人たちはその判断力は極めて優れており、成果を連続してあげていきます。これは時の判断だけではなく、判断者と従事者の信頼関係の構築がもっと重要だったりするのでしょう。青学の原監督はその代表的人物だと思います。これを政治や企業の指導者に当てはめるとこれまた面白い世界が見えてきませんか?

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2022年4月18日の記事より転載させていただきました。

会社経営者
ブルーツリーマネージメント社 社長 
カナダで不動産ビジネスをして25年、不動産や起業実務を踏まえた上で世界の中の日本を考え、書き綴っています。ブログは365日切れ目なく経済、マネー、社会、政治など様々なトピックをズバッと斬っています。分かりやすいブログを目指しています。