琉球国の「中国化」の歴史

新田 英之

現在の沖縄県とほぼ同じ領域に存在した琉球国(通称「琉球王国」)は、現在の日本国領土内で唯一主権、外交権をもった異国であった。一方で、民族的には11世紀頃から九州から南下してきた大和民族(和人)が母体となっていることが言語学および考古学からは推定されている

琉球国は大陸の明・清朝と日本や南方文化の影響を受けた独自の文化を築き上げたが、とりわけ現在沖縄県の観光資源となっている首里城に代表される建造物や宮廷料理、上流階級の華やかな装束、清明祭などの伝統行事などから、文化的には中国大陸の影響を最も強く受けたと認識されている。

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しかし、現在我々が認識するこれらの琉球文化は、1609年薩摩藩から侵攻を受けたことを宗主国であった明・清朝に隠すため、あえて表面的な中国化を進める中で、17世紀以降、特に尚敬王の治世(1713~1751年)に発展した経緯はあまり知られていない。

琉球国はその最盛期(14世紀~16世紀頃と言われることが多い)には、日本や明・清朝、朝鮮王朝はもとよりルソン、マラッカ、バタニ、安南(ベトナム)、シャム(タイ)等との東アジア・東南アジアの広範囲に及ぶ交易で栄え、ヨーロッパにも知られた国家であった。現在の日本国の領域内で唯一、ローマ帝国とイスラム帝国の硬貨も出土している。

これらの貿易や外交を行うため、また国内での国王及び王府(政府)の地位をより確固たるものにするためにも、明・清朝の皇帝から国王として承認を受けることが国家の存続と繁栄にとって必要不可欠であった。

1609年、貿易の利権を狙っていた薩摩藩が徳川政権の許可を得、琉球国に約3千人の戦力で侵攻した。尚真王代(1477~1527年)に全盛を迎えた後、外国と交戦のない平和が続いていた一方、ポルトガルのマラッカ進出等の国際情勢で経済力・国力が弱体化していた琉球国は、奄美群島で数千人規模、沖縄本島で約4千人の国軍で応戦したが、日本本土で戦国の世を経験して間もない薩摩軍にあっけなく降伏した。

この時、与論島以北の領土を薩摩藩に割譲されたが、形式上は19世紀末明治新政府により琉球国が日本に併合されるまで琉球国領とされていた。

他国に侵攻を受けたことが明・清朝に知られれば、国王の承認とそれに伴う朝貢貿易による経済的利益を享受できなくなり、国家の存続自体が危ぶまれる。そのため、緩やかであっても薩摩藩を通じて日本の幕藩体制に組み込まれたことを察知されないことが、国家存続の至上命題となり、そのカモフラージュともいえる「表向きの中国化」が国策として行われることになった。

薩摩藩の侵攻以前は、公式文書から石碑の碑文まで、ほぼ全ての公的文書に仮名(ひらがな)が用いられていたが、それらが全て漢文に置き換わり、1879年の明治新政府による琉球処分まで続いた。

17世紀後半には王族・士族階級の一族の歴史、家系図と歴代当主の事績などを記載した家譜(漢文で記載)を管理する系図座が設けられ、一族の出自と来歴の王府による承認・保管が義務づけられた。また、王族・士族はそれまでの「領地名+称号」での呼称(例:名護 親方)の他に、唐名とよばれる「姓+諱」からなる、漢民族に倣った呼称(例:程 順則)をもつようになった。

芸能面では、1718年踊奉行に任命された玉城朝薫により、京劇、能や歌舞伎の影響を受けた「組踊り」が創造された。学問分野では、東アジアにその名が知られていた儒教学者であった程順則(名護親方寵文)が18世紀初頭に清国から民衆向けの道徳解説書である『六諭衍義』を持ち帰り、薩摩藩を通じ将軍徳川吉宗に献上したことにより、日本全国に寺子屋の教科書として広まった。

このように、今日我々が中国大陸の影響を最も強く受けたと見られる琉球国の国家体制や文化として認識しているものの大半は、薩摩藩の侵攻を受けて日本本土からの影響力が強まった近世に形成されたものである。

それは、侵攻を受けたことを宗主国であった明・清朝に隠すための表面上の中国化が国策として行われた結果であったとも言える。

新田 英之
東京大学工学部卒、工学博士。日仏米の研究機関・大学でマイクロ工学・ナノバイオ科学の研究に従事した後、民間企業等に在籍。科学技術分野の文部科学大臣表彰等多数受賞。