ロシアのウクライナ侵略は、国際秩序を1世紀も2世紀も後戻りさせる許し難い蛮行であるが、そのロシアに西側のリーダーとして対峙するアメリカ国内で、歴史に逆行するようなことが起きようとしている。1973年に人工妊娠中絶を合法とした合衆国最高裁判所の判例を覆す動きである。
73年の裁判は、テキサス州の中絶禁止を違憲だと訴えるジェーン・ロー(本名はノーマ・マコービー)と同州ダラス郡の地方検事ヘンリー・ウェイドの間で争われ、最高裁は「女性の妊娠中絶の権利は憲法で保障され、州に禁止する権限はない」との裁定を下した。これにより、妊娠3ヶ月目までは無条件に、妊娠中期(〜6ヶ月目)の場合は規定の条件下での中絶が可能になった。
また、胎児が体外でも生存可能な妊娠後期の中絶は各州の判断に委ねられる一方、女性の生命を救うために必要だとする医師の診断はいかなる州の定めにも優先される(BBC NEWS “Roe v Wade: What is US Supreme Court ruling on abortion?” May 3, 2022)。
アメリカの中絶禁止法は、19世紀半ば、それまで広く流布していた民間療法による中絶の禁止を求める医師たちのキャンペーンに端を発して導入された。ところが、1960年代、サイドマイド禍や麻疹の大流行で障がいのある新生児の誕生が相次いだため、中絶容認の声が高まり、コロラド(1967年)、カリフォルニア(1967年)、ニューヨーク(1970年)など複数の州が中絶を認めるようになった。
だが、大半の州は禁止のままであった(Jennifer Holland “Abolishing Abortion: The History of the Pro-Life Movement in America”)。当事者の名前をとってロー、もしくはローとウェイドと呼ばれるこの判例は、望まぬ出産を強いられ、非合法の危険な堕胎処置で命を落としたり、不妊や重大な障害を負ったりなど、生涯に及ぶ苦痛からアメリカ全州の女性を解放した。
ロー判例は中絶反対派の激しい反発を招き、以来判例を無効にする試みが繰り返され、いくつか見過ごせない修正も行われてきたものの、大筋で維持されてきた。そして、無効が現実味を帯びてきたのが、今回の騒動であるミシシッピ州が妊娠16週以降の中絶を禁じた法の審議を通して、個別の州が禁止規定を定めることの合憲性を問う案件だ。
今夏に結審予定のところ、5月2日政治メディアサイト「ポリティコ」が、9人の判事のうち5人が合憲と判断をする内容の判決草案をリークした。草案通りであれば、中絶の可否が再び各州の判断に委ねられる。その場合、ロー判決以前に中絶禁止または厳しく制限する法を制定していた9州では自動的に法が実施され、またロー判決ののちに禁止/制限法を導入した13州でもトリガー条項によって直ちに執行が開始される。
これら22州のうち、5州が禁止、4州がほぼ禁止、残りは妊娠6ないし8週以降の中絶が禁止される。6〜8週目は妊娠に気づかない場合も少なくなく、女性にとっては禁止と同じように非常に厳しい内容だ。さらに4州において制限を課す法が検討されている(Guttmacher Institute “26 States Are Certain or Likely to Ban Abortion Without Roe: Here’s Which Ones and Why”, April 19, 2022)。
今日、人工妊娠中絶は女性の権利(生殖における自己決定権)として広く認められている。下図は世界各国の状況(2022年)を示したもので、赤く塗られた国が中絶禁止、緑が制限のない容認、そのほかの色は容認も母体の健康や経済などの条件を課す国である。
禁止の22カ国は、ヨーロッパのミニ国家サンマリノとアンドラを除いてアフリカ、アジア、ラテンアメリカの後進国に集中している。ロー判例の転覆によって、現在緑色のアメリカの地図の半分が赤に変わり、後進国の仲間入りをすることになる。
アメリカにおいて反中絶派は「プロライフ(pro-life)」、擁護派は「プロチョイス(pro-choice)と呼ばれる。
プロライフは、1960年代の中絶容認への動きが生じる中で登場し、当初はカトリックの教会関係者や医療従事者の運動であったが、1970年代後半より福音派が主導権を握るようになった。福音派主導のもとで、プロライフは共和党に接近し、憲法判断を握る最高裁判事に反中絶派の指名を働きかけた(NPR “The movement against abortion rights is nearing its apex. But it began way before Roe”, May 4, 2022)。
現時点で判事9人中6人が共和党大統領が指名した保守派で、上述のようにうち5人がロー判例を覆す判断をすると暴露されており、目論見は実現された格好だ。
プロライフは、胎児の生存権(right-to-life)を女性の生殖の権利よりも優先する。これは、私には女性の身体を子どもを宿すための装置、例えて言えば「(女性の)腹は借り物」という日本の封建的観念を想起させる、前近代的な考え方に思えてならないが、穿ち過ぎであろうか。