【宗教 religion】は【社会 society】のみならず【政治 politics】にも大きな影響を与える思想であり、その本質を論理的に理解することは、重要なメディア・リテラシーの一つです。以下、重要な概念を交えて説明していきます。
規範命題
論理的な判断を【命題 proposition】と言います。命題のうち「である (is)」「でない (is not)」を述語として使う真偽の判断を【事実命題 factual proposition】と言い、「すべきである (ought)」「すべきでない (ought not)」を述語として使う善悪の判断を【規範命題 norm proposition】と言います。
<例>
- 事実命題:人間は生きる。人間は殺生をする。
- 規範命題:人間は生きるべきである。人間は殺生をすべきでない。
このうち、宗教の本質を理解する上で極めて重要となるのが、規範命題に関する知識です。規範命題で定めるルールを【規範 norm】といいます。また、「すべきである」「すべきでない」という述語を「しなければならない (must)」「してはならない (must not)」に換えて規範を強制するのが【義務 duty】です。
規範命題を大前提、事実命題を小前提とすれば、新たな規範命題を結論として導くことができます。この論証を【べき論 deontic logic】と言います。
【べき論】
- 大前提:AならばBをすべきである
- 小前提:Aである
- 結 論:Bをすべきである
ここで極めて重要なことですが、有名な【ヒュームの法則 Hume’s law】によって示されているように、事実命題から規範命題を導くことはできません。規範命題を導くには大前提となる規範命題が必ず必要なのです。これは【is–ought problem】と呼ばれています。
それでは、大前提となる規範命題を求めるにはどうすればよいのでしょうか。実は、この【先験的 a priori】な(先立つ根拠がない)規範命題となるのが【倫理 ethics】【道徳 morality】であり、【宗教 religion】なのです。
- 道徳:社会における善悪の規範(社会に依存する)
- 倫理:普遍性をもつ善悪の規範(社会に依存しない)
- 宗教:特定の個人が教える善悪の規範
政治
国家における【法 law】とは、国家を支配する主権者の倫理や社会の道徳に基づいて得られた【憲法 constitution】という規範命題を大前提とした上で、社会に存在する事実命題を小前提として導く規範命題のことです。
<例>
- 大前提:集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する(憲法二十一条)
- 小前提:選挙演説(選挙人の意思表明)は表現である
- 結 論:この法律は、日本国憲法の精神に則り、衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長を公選する選挙制度を確立し、その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われることを確保し、もつて民主政治の健全な発達を期することを目的とする(公職選挙法一条)
つまり、国家における法は、いずれも憲法を制定の根拠としているのです。国家における「政治」とは、憲法を最高の規範命題として法律を運用する公的な【意思決定 decision making】システムのことであり、【政府 government】の立法機関が法を作り、行政が法を行い、司法が法を司ります。ちなみに「政府」と言えば、日本では行政を指しますが、世界では立法・行政・司法の三機関を指すのが標準的です。民主主義社会であれ、専制社会であれ、国内に居住する【住民 resident】には法を遵守する義務が課されます。
宗教
宗教における法である【宗教法 religious law】とは、【教祖 founder】が先験的に得た【教義 dogma】という独自の規範命題を大前提とした上で、事実命題を小前提として導く規範命題のことです。
<例>
- 大前提:主なる神は土の塵から人間を造り、命の息を鼻に吹き入れ、人間は命を持つ存在となった(『聖書』創世記 2:7)
- 小前提:人間の命を絶つ「中絶」は神の意思に反する行為である。
- 結 論:人間の命は、受胎の瞬間から絶対に保護(中絶禁止)されなければならない。『カトリック教会カテキズム』2270)
宗教法は教義を制定の根拠としています。「宗教」とは、教義を最高の規範命題として法律を運用する私的な意思決定システムのことであり、【教会(宗教団体) church】が法を作り、【信者 believer】が個人の意志でこれに従います。
政治も宗教も規範命題をもつ意思決定システムであることに変わりはありません。政治を行う政党も宗教を説く教会も、【イデオロギー ideology】として、独自の規範命題をもってその実現を目的にしています。
例えば、日本の自民党は「自衛隊を憲法に明記すべき」という規範命題をもっていますし、日本の護憲政党がもつ規範命題は現行憲法です。キリスト教は聖書、イスラム教はコーランという規範命題をもっています。
政治の倫理規範と宗教の倫理規範は、一致することもあれば、一致しないこともあります。
<事例>モーセの十戒「私はあなたの神だ」
第1戒:あなたには私以外の神があってはならない
第2戒:あなたはあなたの偶像を作ってはならない
第3戒:あなたはあなたの神の名をみだりに唱えてはならない
第4戒:安息日を覚えて、聖なる日としなさい
第5戒:あなたの父とあなたの母を敬わなければならない
第6戒:あなたは姦淫してはならない
第7戒:あなたは殺してはならない
第8戒:あなたは盗んではならない
第9戒:あなたはあなたの隣人に嘘をついてはならない
第10戒:あなたはあなたの隣人の妻を欲しがってはならない
例えば、モーセの十戒における「殺してはならない」「盗んではならない」は、日本国憲法における人権保持の義務(第十二条)と財産権(第二十九条)と一致します。しかしながら、モーセの十戒における「私以外の神があってはならない」は日本国憲法における信教の自由(第二十条)とは一致しません。
過去の世界において、しばしば教会は政治の実権を握ってきましたが、彼らは教会の教義を実質上の憲法として転用してきました。現在の世界においても、教義を国教に指定している【宗教国家 religious nation】が多数存在しています。規範命題を実生活に利用するという点で政治と宗教は同一のシステムなのです。
なお、宗教法人法において、宗教団体(教会)とは、「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、および信者を教化育成することを主な目的とする礼拝の施設を備える団体」と定義されています。宗教の教義は規範命題なので、政治団体である政党と宗教団体である教会の実質的な違いは、礼拝の施設の有無です。ただし、両者が規範命題の実現を目的とする集団であることを考えれば、礼拝の施設の有無は本質的な違いではありません。
宗教の社会的問題点
政治が住民に対して強制力をもつ公的システムであるのに対し、宗教は信者に対して強制力をもたない私的システムですが、憲法によって政府に対する住民の権利が明示的に守られているのに対し、私的存在である教会に対する信者の権利はむしろ無防備な状況にあると言えます。そもそも宗教の信者は教会の教義を信じる立場にあるため、教会の【マインド・コントロール mind control】に陥りやすく、教会が悪徳な場合には高額の寄付や霊感商品の購入といった形で財産を奪われるケースも少なくありません。
また、教会は、神仏や超自然現象といった【反証不可能 unfalsifiable】な概念的存在を教義の説明に利用しています。このことは反証不可能な概念的存在を【権威 authority】として利用する【権威に訴える論証 appeal to authority】に他なりません。
宗教の本質である先験的な規範命題には根拠がないため、教会にとって信者を正攻法でリクルートするのは簡単ではありません。例えば、根拠がないことを根拠にする先験的な倫理規範であるカントの【定言命法 categorical imperative】は、根拠がある後験的な倫理規範よりも純粋な【義務論 deontology】ですが、「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的立法の原理として妥当であるように行為しなさい」という難解な言説を正攻法で説明しても、あまねく一般の人々の理解を得るのは困難です。そんな中、反証不可能な存在を権威として利用することは、あくまでもテクニカルな意味で論理的なマーケティング手法であると言えます。
いずれにしても、神仏や超自然現象を教義のアバターとして布教に利用することは、宗教の本質である先験的な規範命題の存在を矮小化する危険性があると同時に、反社会的な教会である【カルト cult】の勧誘に悪用される危険性を孕んでいます。布教において、教会が先験的な規範命題への信仰を求める行為は、宗教の本質である一方で、カルトへの無分別な帰依を可能にする最も深刻な問題でもあるのです。教会がこの構造的問題を克服するにためには義務論に対する平易な説明が必要不可欠であり、同時に市民がカルトに騙されないためには義務論の正しい理解が重要です。
政教分離
日本国憲法二十条には、国民が特定の宗教を信じる/信じない自由である【信教の自由 freedom of religion】が保証されている同時に、特定の教会(宗教団体)に対する政府(国家権力)の関与を禁じる【政教分離 separation of church and state】の原則が定められています。
日本国憲法二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
政教分離の原則に関して、教会が政治活動を行うことや特定の政党を支持することには何の問題もありません。教会は倫理規範をもつ私的団体であり、当然のことながら、言論の自由を有しています。憲法が禁じているのは、国家権力の側が教会を優遇あるいは弾圧する行為です。つまり、特定の教会が法的に優遇あるいは弾圧されない限りにおいて、政教は分離されていると言えるのです。
憲法の規範と特定の宗教の教義の規範が一致するのが宗教国家です。例えば、サウジアラビアは統治基本法を実質上の憲法としていますが、その統治基本法の第一条には「憲法はコーランおよびスンナとする」と明記されています。つまり、名目上は政教分離の形をとった上で、憲法と教義が一致する宗教国家を宣言しているのです。なお、サウジアラビアでは、イスラム教ワッハーブ派を国教とし、それ以外の宗教が法律で禁止されているので、もちろん政教は分離されていません。
さて、国会議員が特定の教会の規範の一部に賛同を示すことは言論の自由の範囲内であり、その言論の「内容」ではなく「行為」を批判するのは公正ではありません。自民党の安倍晋三議員が、宗教法人世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の韓鶴子総裁が創設した国際NGOの天宙平和連合(UPF)のオンライン集会に平和を希求するビデオメッセージを送った行為には何の違法性も道義的な落ち度もありません。
母親が高額献金で破産する元凶となったとする旧統一教会に恨みを持つ山上徹也容疑者は、安倍晋三議員の当該行為を問題視して殺害するに至ったと供述しています。事件をめぐっては、一部のSNS・マスメディア・政治家・活動家が安倍晋三議員の行為を政治と宗教の問題として批判しましたが、このことは殺人者の殺害の動機を正当化する不当な批判に他なりません。
この件で問題があるとすれば、それは20年前の母親の高額献金をめぐる状況であり、世界平和を希求するビデオメッセージをNGOに送っただけで一面識もない人物に突然殺害された安倍晋三議員には何の落ち度もありません。宗教に対するあまりにも浅はかな理解に基づき偏狭な似非道徳を振りかざして死者に鞭打つ非常識極まりない日本社会の議論の展開には絶望するしかありません。
そもそも規範命題をもたない【アニミズム animism】を底流に持ち、最も穏健な【大乗仏教 Mahayana】を信仰してきた日本社会は、宗教の本質が規範命題であることを十分に理解していません。このことは日本社会から物理的な争いごとを減らし、安全な環境をもたらしてきた一方で、意思決定ができず、責任を他人に押し付け、重箱の隅をつつき合うという発展性のない歪んだ言論空間を形成してきました。まさに日本の国会はその縮図と言えます。
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公式サイト:藤原かずえのメディア・リテラシー