実質賃金低下の謎

Andrii Yalanskyi/iStock

1. 私たちの実質賃金は下がっている?

前回は、家計支出の長期データを眺めてみました。

非消費支出や生活必須の支出が増えたり、減らせない中、切り詰められるものはできるだけ切り詰めているような家計の姿が窺えました。世帯主の所得低下を含め、家計収入の減少が大きな要因として考えられそうですね。

以前、平均給与の名目値と実質値について取り上げました。(参考記事: GDPと給与、名目と実質

OECDのデータでは、平均給与の実質値は停滞が続いています。一方で、実質賃金は下がり続けているという指摘もなされているようです。

実質賃金は下がっているのでしょうか?停滞が続いているだけなのでしょうか?

今回は実質賃金低下の謎について明らかにしてみたいと思います。

実質賃金低下が指摘されているのは「毎月勤労統計調査」です。まずはこのデータから眺めてみましょう。

図1 実質賃金指数 年平均 調査産業計・製造業
毎月勤労統計調査 第42表 より

図1は、毎月勤労統計調査にて公表されている実質賃金指数のグラフです。

2015年を基準(100)とした指数として表現されています。

事業所規模が「5人以上」と「30人以上」、産業区分は「調査産業計」と「製造業」のデータが集計されています。2015年基準の指数ですので、2015年の数値に対して何倍かという数値ですね。

製造業の方が調査産業計よりも下に位置しているので、製造業の方が賃金が安いように見えるのですが、そういったグラフではありません。2015年で両者が100となる指数で表現されているので注意が必要です。

製造業は右肩上がりで実質賃金が上昇していて、調査産業計が1997年を境に実質賃金が下がり続けているという事を意味しています。

図2 実質賃金指数 年平均 調査産業計・製造業 1990年基準
毎月勤労統計調査 より

図2は図1の基準年を1990年に変更したものです。

基準年としたい年の数値で各年の数値を除すと、新しい基準年による指数に再計算できます。こちらの方が、2015年基準よりも見やすいかもしれませんね。

図2を見て明らかなように、1997年をピークにして製造業は上昇傾向が続き、調査産業計は減少傾向が続いています。

日本の製造業は小規模事業者の淘汰が進み、経済規模を縮小しながらも「生産性」が高まっている状況です。(参考記事: 日本の製造業で起こっている事

実質賃金のこの上昇も、そういった製造業内部の変化を伴っていると見た方が良いかもしれません。

気になるのは、「調査産業計」の推移です。「毎月勤労統計調査における記号の見方」によれば、この調査で対象としている産業はOECDと同様の「ISIC REV4」のうち農林水産業を除くすべての産業が含まれているようです。

OECDのデータとほぼ変わらないようですね。

2. OECDのデータでは実質給与は横ばい

OECDで公表されている平均給与の実質値はどのような状況だったでしょうか。

以前ご紹介したグラフを振り返ってみましょう。

図3 日本 1人あたりGDP、平均給与 名目・実質 成長率
OECD統計データ より

図3はOECDのデータのうち、1人あたりGDPと平均給与について、名目値と実質値を1991年を基準とした成長率としたものです。(参考記事: GDPと給与、名目と実質

OECDの平均給与のデータは、Average annual wagesの数値です。名目値はCurrent prices、実質値はConstant pricesとなります。

OECDのデータでは、平均給与の実質値(緑)は多少のアップダウンがありながらも横ばい傾向が続いているようです。

日本の実質賃金は1997年から下がり続け、OECDのデータでは停滞が続いているだけに見えます。
なぜこの2つのデータは食い違うのでしょうか?

経済停滞と物価停滞が続く日本の指標について、「実質化」というのがいかにあやふやなものなのかを示す典型的な例だと思いますので、少し検証してみましょう。

3. 日本のデータを検証してみよう!

日本で労働者の給与水準を集計している統計はたくさんあり、それぞれで対象や定義などが異なります。当ブログで良く取り上げているのは、「民間給与実態統計調査」です。

図4 平均給与 男女合計 年齢階層別 1年勤続者
民間給与実態統計調査 より

図4が民間給与実態統計調査の平均給与の推移です。

各世代で1997年をピークにして、いったん減少し2009年を底にしてやや増加傾向です。ただし、1997年の水準すら回復できていない状況ですね。

日本は高齢労働者や女性労働者が増えて平均値が下がっている側面もありますが、男性労働者自体も各世代で低所得化しています。(参考記事: 豊かになれない日本の労働者

図4は、各年の平均給与を計算しただけですので、いわゆる「名目値」となりますね。

今回は、平均給与の名目値として、この民間給与実態統計調査の各世代合計値(黒線)のデータを用いてみます。

「毎月勤労統計調査」では、対象産業の平均賃金を「消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)」で実質化しているという事です。

実際に、平均給与を実質化し、基準年で100となる指数にして重ね合わせてみましょう。

実質値は、下記の通り簡単に計算できます。

実質値 = 名目値 ÷ 物価指数

図5 実質賃金指数 平均給与との比較

図5が、民間給与実態統計調査の平均給与を消費者物価指数で実質化した指数(赤)を、図1の実質賃金指数に重ね合わせたグラフです。平均給与 名目(黒)も併記してあります。

平均給与の実質指数は、実質賃金指数と見事に一致するという事がわかります。

毎月勤労統計調査の実質賃金指数は、この計算方法からすれば特に問題ないように見えますね。
平均給与との整合性も確認できました。

それでは、OECDのデータの方がおかしいのでしょうか?

4. OECDのデータを検証してみよう!

今まで多くの経済統計データを扱う中で、日本の場合「実質値」を見る場合は特に注意が必要だと思います。

日本は、名目の経済指標が停滞しているうえ、物価指数も停滞しなおかつ指数同士の乖離が大きいからです。

実質化する場合の物価は、主にGDPデフレータと消費者物価指数が用いられます。そして、それぞれの物価指数は、もう一段細分化された指数の総合値となります。

例えばGDPデフレータでは、家計最終消費支出、政府最終消費支出、総資本形成などのデフレータの総合値として表現されるわけです。(参考記事: GDPデフレータにみる安い日本  参考記事: 「良いものを安く」は正しいのか?

毎月勤労統計調査の実質化に用いられる物価指数は「消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)」です。

一方で、OECDの平均給与の実質化に用いられる物価指数は「デフレータ(家計最終消費支出)」となるようです。

図6 日本 物価指数の比較

図6は、消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)と、デフレータ(国内総生産)、デフレータ(家計最終消費支出)の比較です。1994年を基準としています。あえて日本の統計データを参照してみました。

デフレータ(国内総生産)が、これまでの表現でいうGDPデフレータに相当します。デフレータ(家計最終消費支出)が、GDPデフレータの支出面総合値を構成する1つという事ですね。

同じ物価を示す指数でも、デフレータ(国内総生産)は、消費者物価指数に対してかなり下振れしていますね。しかもマイナス方向で落ち込んでいて基準年より小さい数値です。

この3つの物価指数を用いて、改めて平均給与を実質化し、日本のデータ、OECDのデータと重ねてみましょう。

図7 平均給与 実質成長率 実質化による比較

図7が平均給与の実質値を1994年を基準とした成長率として表現したグラフです。

各実質値は、平均給与の名目値を下記物価指数で割る事で実質化したものです。

A(赤):消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)
B(青):デフレータ(家計最終消費支出)
C(黄):デフレータ(国内総生産)

毎月勤労統計調査の実質賃金指数(緑)は、ほぼA(赤)と一致する事がわかりますね。平均給与を消費者物価指数で実質化した数値です。先ほどの図5で見た通りです。

一方、OECDの平均給与実質値(紫)は、ほぼB(青)と一致して横ばいです。こちらも、OECDの定義通りデフレータ(家計最終消費支出)で実質化したものです。

AとBは、元となる平均給与 名目値のデータは同じで、実質化の計算に使う物価指数が異なるだけですね。

それぞれの公表データともほぼ一致し、整合性がある事が確認できました。つまり、日本の実質賃金指数と、OECDの平均給与実質値は、実質化する際の物価指数が異なるだけで、矛盾しないという事が言えそうです。

逆に言えば、実質化する際の物価指数を何にするかで、これだけ数値が乖離するわけですね。デフレータ(国内総生産)を用いたC(黄)は上昇傾向ですらあるわけです。

5. 実質化の意味とは?

本来、「実質化」とは、名目値の成長度合いに対して、物価の上昇分を割り引き、「数量的な」変化を確認するために行われるものだと思います。そのために、様々な取引から観測される価格の変動を「物価指数」に総合していき、名目値を物価指数で割る事で計算されるのが実質値ですね。

それでは、賃金を実質化するというのは、どういう意味なのでしょうか?

同じお給料だったとしても、物価が上がればそれだけ買えるものが少なくなります。賃金を受け取るのは、消費者でもある労働者です。

したがって、消費に関する物価指数で実質化する事で実質賃金を評価するという事が行われていると推測できますね。

もっともらしい物価指数として毎月勤労統計調査では「消費者物価指数」が、OECDでは「デフレータ(家計最終消費支出)」が用いられるのだと思います。

しかし、日本は名目値自体が停滞しているのに加え、物価も停滞し、更に物価指数間での乖離があります。このため、実質化に用いる指数によっては、実質値が下がっているようにも停滞しているようにも、上がっているようにすら見えるわけですね。

1人あたりGDPと平均給与についても、名目値では両者は停滞していますが、実質値は1人あたりGDPが成長していて、平均給与は停滞しています。これも、実質化の際の物価指数の違いによる影響も大きいですね。

1人あたりGDPはもちろんデフレータ(国内総生産)で実質化しているため、日本の場合は図7で見た通り消費者物価指数で実質化するよりも上振れする結果となります。

「実質値」の意味をよく理解したうえで、「基準年」に気を付ける事はもちろんですが、「どのような物価指数を用いているか」という事にも留意して統計データを眺めた方が良いように思います。

皆さんはどのように考えますか?


編集部より:この記事は株式会社小川製作所 小川製作所ブログ 2022年8月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は「小川製作所ブログ:日本の経済統計と転換点」をご覧ください。