日本における最大の宗教はSNSである

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国葬儀を終えて

そもそも、宗教とは何か?と言う問いに答えはあるのだろうか。

9月27日に行われた安倍元総理の国葬儀は、無宗教の形で行われた。参列した方々は一輪の花を祭壇に添えて、故人を偲んだ。葬儀委員長を務めた岸田総理は、内閣の長として、内閣府が行う行事の責任者としての任を務めた。友人代表の菅前総理は、安倍晋三元総理の近くで総理を支えた身として、また第二次安倍政権誕生の秘話を開陳し故人との関係性を弔辞に織り込み多くの人に感銘を与えた。

銃弾に倒れた故人に対し、弔砲と弔銃を行うことは大いなるパロディではないか?と、クズのような例えをする、最低の人間もいるようだが、自衛隊の元最高司令官に対する儀礼として弔砲と弔銃を行うという「常識」すら知らない無知っぷりを披歴していて、それは彼らのピント外れな考え方を表している。

実は賛否の両面から話題が広がることは、故人の評価という点で大きな意味を持つ。

現在の野党が未だ安倍政治批判を繰り返すのも、寄る辺なき、頼る者を失った魂の叫びのようにも聞こえる。安倍政治批判を繰り返す人々は、自分の存在意義を安倍批判によって確認しているに過ぎない。曰く「とにかく安倍が嫌い」を繰り返す。それは恋愛と同じで、安倍晋三の強さ、自身に対する影響力を大きく実感しているからこそ、反作用でアレコレと理屈をつけては自分の中にある安倍晋三を否定しているのだ。つまり、「安倍ガー!」の内心は「安倍好きー!」の裏返しでしかないと、邪推してみたりする。

そして、国葬儀に合わせて大いに騒ぎの中心になったのが、犯人山上徹也の背景だ。以前から自民党所属議員との関わりが深かったと語る、それまでメディアでは見たこともない評論家然とした人物が現れてきたりして、マスコミは話題性だけを追いかけている。野党議員に至っては、旧統一協会の被害実態を暴き出すと息巻いて、調査委員会のようなものを作っているみたいだが、そうなるとほぼ全ての新興宗教が調査対象になり、行き着くところは個人の内心を規制する憲法違反の愚行となると知ってのことだろうか?

野党議員の多くは、自分達が行っている矛盾に気づかぬまま、違憲行為を行おうとしているのだ。

その好例が、辻元清美議員だ。辻元氏は常に盛大なブーメランを投じることで存在感を示しているが、今回もどうやらそうなりそうだ。

辻元清美議員、旧統一教会との接点報道されて言い訳三昧…SNSで大ブーメラン「なんで辞職しないの?」

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私個人としては、このニュースを聞いても、辻元清美ならさもありなんという評価しかない。ブーメランを投げるのは、彼女のお家芸というかそもそも立憲民主党議員の伝統芸能のようなものなので、そこは驚くには当たらない。

日本人と新興宗教

そこで、日本人と新興宗教団体について、考えてみる。

日本国内の新興宗教団体は、国内から勃興していようが、海外から輸入されていようが、日本国民独自の多文化と共生し融和して独自文化として醸成させる面に働きかけるのか、時代と共に隆盛と衰退を繰り返してきた。

現在、安倍元総理の死をきっかけに注目が集まっている旧統一協会にしても、韓国のKCIAがアメリカ進出を画策しその足がかりとして日本国民を利用したことは、すでにアメリカ議会でも公にされている。コリアンゲートとして有名になったフレイザー委員会の詳細なレポートも、またこのコリアンゲートを暴いた記録も閲覧が可能だ。

Investigation of Korean-American relations: report of the Subcommittee on International Organizations of the Committee on International Relations, U.S. House of Representatives

Gifts of deceit : Sun Myung Moon, Tongsun Park, and the Korean scandal

これら一連のKCIAが画策した動きに対し、当時の岸信介元総理をはじめ自民党議員が統一協会が日本国内において活動をする上での手引きをしたような意見もあるが、必ずしもそうとも言い切れない。

この統一協会問題については、改めて書かせていただきたいが、一つ時代背景を明確にしておかなければならないのは、戦中から戦後にかけて日本国内には数々の新興宗教が勃興してきた過渡期であったことを忘れてはいけない。あの時代、日本全体が新興宗教に対する免疫不全を起こしていたのだ。我も我もと立ち上がる新宗教全盛の時代で、それらを発端とする諸問題は、社会が新興宗教を受け入れたが故に起きてきたとも言える。

一つには、戦前、戦中を通じ、日清日露戦争の勝利に沸いた日本に台頭してきた軍部が当時の日本に天皇制復古と国家神道を利用したのは間違いなく、その為、反作用として共産主義思想が日本の知識人の中で練り上げられ中国共産党誕生の布石となった。これらの時代背景も書き始めればキリが無いほどにその範疇は膨大で緻密なものとなってしまう。

戦後、軍国主義から民主主義へと大きな舵を切った日本が、昭和20年の宗教法人法改正により垣根が取り払われたことで一気に宗教新時代に突入し、1950年代以降に隆盛を極めた新興宗教を受け入れる時代へと変遷したことを確認できればいいだろう。

旧統一協会もそんな新興宗教の一つに過ぎない。ただ、自民党議員が多く関わっていたというだけのことだ。

そんな新興宗教を受け入れた日本国民は、終戦を経て戦後復興と共に日本を再び世界のトップに押し上げるだけの経済発展を遂げることになるのだが、その裏側に新興宗教の働きがあったのも事実で、豊かさを享受する日本国民の精神的なよすがとしてそれら新興宗教が存在していた。

宗教がもたらすもの

では、古神道でも仏教諸派でもキリスト教でもイスラム教でも何でもいいのだが、それら宗教がもたらした働きとは一体、何だったのだろう?

日本人は昔から、日本には数多くの神々が存在しているとされ、仏教伝来以後、神仏が混在する不思議な宗教観が定着し、新宗教時代に入ってからも、それぞれがそれぞれの正義に立脚した信仰対象を求めてきた。

宗教それ自体を否定することはないし、信教の自由は憲法によって保障されている。山川草木を見て神を感ずるもよし、仏像に手を合わせるのも、キリストの磔刑像に祈るのも、メッカに向かって一日5回礼拝するのも個人の自由だ。そもそも、人は見えざるものに救いや心の安寧を求めるのが、自然の摂理だからだ。人間とはそういう風に出来ているのだ。何故なら、人間社会には善も悪も混在しており、人間の知識ごときでこの地獄と極楽がひしめく世界を統治することは叶わないからだ。昔から言われている世界政府が実現不可能なのは、人類史が証明している。

キリストや仏陀やアッラーが超越的存在であればとっくにこの世界は戦争や差別の無い世界が実現していなければいけない。にも関わらず、各宗教ですら内紛を繰り返している。中東ではいまだに殺し合いを続け、プーチンはウクライナ国民を虫ケラのように殺し、習近平は台湾に攻め込もうとしている。宗教も世界の指導者も「自分が一番正しい」と主張し信者がそれに追随するのだから、喧嘩になるのは当たり前だ。何を言いたいかと言うと、宗教や世界の指導者とは所詮、それだけのものなのだ。

旧統一協会が霊感商法を行いけしからんと今の野党は息巻いているが、そもそも、宗教とは須くけしからん存在なのだ。私はそれを3点に集約して考える。

① 霊的存在
② 来世は存在する
③ 輪廻転生はある

①の霊的存在は、人間だろうと神だろうと仏だろうと、見えざるものは存在するという観念論のこと。人間は超越的なものに心を委ねたがる。見えざるものが、もしかしたら自分の人生に光明を照らしてくれるのでは?と信じたい。21世紀の今の時代にあっても、時折、そのようなことが話題にのぼったりニュースになったりするのは人間の欲求の根源的なものに、見えざるものは存在すると信じたいという欲求があるからだ。

次に②は、仮に今の世に不幸であったり不遇であっても、死して別の世界に行けば自分はそれらの「苦」から解放され幸福になれるのではないか?と言う人間の欲求だ。いまだかつて、霊界や極楽浄土、地獄や天国を科学的に証明した人は誰もいない。時折、「私は死後の世界を見た」と言う人が現れるが、それを科学的に誰の目にも見せ、誰にでも理解できる形で証明した人類は誰もいない。それは何故か?そんなもの、存在してないからだ。

そして③は、そんな死後の世界から人は再びこの世に生まれ変われると言う幻想だ。これも、いまだかつて人類の誰もそれを証明していない。何故なら、存在しないものを証明しようが無いからだ。ブラックホールの中は10次元の世界らしいから、その世界ならもしかしたら人は別の世界から別の世界に移動することは可能かもしれない。しかし、人類の誰もブラックホールの中を見たことが無いし、またそこから戻ってきた人もいない。

何を言いたいかと言うと、客観論で見た時、これらをいかなる宗教も証明してみせたことはただの一度も無いのだ。いわんや、超能力なども怪しい限りで、人間にそれらの能力が潜在的に備わっているなら、科学も文明ももっと進化していたろう。ところが、人類はようやく電波の力で手のひらに乗る形で遠方の人と会話できるようになった程度の文明しか有していない。それでも江戸時代から見れば驚天動地の文明の進化だが、電気や電磁波や電波を発見してから200年以上を要している。

そんな中にあって、有史以来語り継がれる「神」や「仏」やあの世や来世なども、伝承として語り継がれてはきてもそれが科学的には証明されていない。

先ほど宗教とは須くけしからん存在だと言ったが、私は宗教それ自体を否定するものではない。各宗教の教えや経典は煎じ詰めれば人間はいかにあるべきか?が記されていると思っている。それは否定しない。より良い人生、より良い社会を建設するには宗教の働きは大きいだろう。問題は上記の3点なのだ。この考え方がベースにあると、自爆テロを起こし、地下鉄サリン事件を起こすことが容易くなってしまうと言いたのだ。

これらは2000年頃から、オウム真理教事件に関わった苫米地英人氏が指摘している通りで、宗教学で三大宗教をはじめ新興宗教を学んできた私には、膝を叩いて頷ける内容だった。こう書くと、マッドサイエンティストに影響されていると揶揄する○ホが湧いてくるだろうが、苫米地氏の洗脳に関わる研究や認知科学、脳科学の研究は世界トップクラスだと知らない故だろう。

話を戻すと、今回の国葬儀論争を見ていて、私が痛切に感じているのが、本稿の題名となっている点なのだ。

名もなき伝道師「SNS」の問題

ここ10年で、それまで一方向だった情報の発信がSNSによって双方向に情報交換が可能になり、また、まことしやかに伝播しやすくなった。SNSは使い方を誤らなければこれほど便利なツールは無いが、使い方を間違えるとこれほど危険なものもない。意味じくも、坂口恭平氏は「SNSは本来、プロが使うもの」と言ったが、宜なるかな。私も完全に同意する。個人の情報発信ツールは時に間違った情報を拡散する危険性を孕む。

そして、ここには見えざるものへの信奉と言う人間が本来持つ根源的な心の働きがある。リアルな世界ではない人の繋がりが存在し、リアルな人間関係とは別の人との信頼関係が内在している。それは、共感を呼ぶものでもあろうし、また影響を受けたり与えたり双方向のやりとりが可能だ。これって、煎じ詰めれば宗教の世界と同じなのだ。そして、そこにある危険性が「盲信」だ。一歩引いて客観的に見るとか分析するとか裏付けをとることを拒絶する世界がある。何故なら、人は信じたいものだけを信じるからだ。

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安倍元総理銃撃の犯人も、究極はそれらの犠牲者とも言えるだろう。彼は財産を根こそぎ教団に届けた母を憎み、そんな母を勧誘した教団を憎んだ。その恩讐は20年以上の長きにわたり、彼の心を蝕んだ。何にその吐口を求めていいか分からない犯人は、直接的に復讐が叶わないと見るや、安倍元総理を攻撃対象に選んだ。それすらも、SNS上に流布されている真偽不明の情報に基づいている。

国葬儀反対論争もそうだ。賛否両方がより尖鋭化し、特に反対派は少数派であるが故により反安倍、反自民思想が原理主義化している。表現の自由の範囲とは言え、国葬儀反対の声をSNSでぶち上げ、法的側面から見ても一切の齟齬が無い国葬儀を批判している。いくら法律や法制定過程、閣議決定の過程に問題が無いと言っても取り合おうとしない。つまり聞く耳を持たない。感情論が優先する韓国世論のような状態になっている。

ところが、国葬儀当日、反対派のデモに集まったのは、中核派や共産党関係者や社会主義者のようなごく少数の左派思想の人たちだけで、それも明らかに高齢者を中心としていた。そして、思想が原理主義化するとその現実すら受け入れ難いものとなってしまっているように思う。何故なら、現実を見せられているいも関わらず、愛も変わらず、それらの補完勢力としてSNS上で自称若者で自称リベラルのアカウントが左派メディアの言論や野党議員の言論を利用して布教活動を行なっている。

リアルな現実世界の出来事を認めず、また確たる裏付けも無いままに、反安倍、反自民のカルト化した小さな枠で政治や経済を語っている。それこそがSNSで原理主義化した思想ごっこ遊びなのだ。

①反安倍、反自民の絶対的な思想信条がこの世に存在すると盲信し、②いつしかそれら見えざる存在が、不遇な今の自分の境遇を改善してくれる世界が来ると信じて、③その時が来たら自分は幸福になれる、と確信している。

以前、私は拙稿で安倍晋三は国葬儀で見送られたとしても、神にも仏にもならないと書いた。それは全くその通りで、むしろ、北朝鮮や中国の方が、独裁者であり殺戮を繰り返した人物であっても、あちこちに写真を掲げ、信仰対象としている様は、唯物思想である筈の共産主義が実は下手な宗教より遥かに宗教然としていることを表している。

それは日本の自称リベラルも、いわんや保守層も同じで、どちらも偏向を繰り返し尖鋭化しているのだ。

そして、その影響を拡散しているのがSNSだ。そこには、裏付けや根拠といった事実を無視したおよそリアリストではない仮想現実を信じる人たちが存在している。右でも左でもどっちでもいいのだが、その自説に固執する考え方の先にあるのは、他者を拒絶した不毛な世界が広がるだけだ。

リベラリストであり同時にリアリストであった安倍晋三が生きていたら、その様を見て、嘆息を漏らしているだろう。

今、この日本において最も危険なのは、旧統一協会でもなければ、創価学会でも、他の新興宗教でもない。名も無き教祖や名も無き教えの伝道師が人々を導く、SNSという存在だ。

我々は、安倍晋三なき喪失感の中にある日本にいるからこそ、肝に銘じなければならないことがあるように思う。