菅義偉前首相の弔辞の山縣有朋の部分について、わけのわからん誹謗をする人たちがいる。1995年に安倍元首相は、葛西JR東海元会長のすすめで岡義武「山縣有朋」を一度読んだが、亡くなる直前に葛西さんの弔辞につかうためにもう一度ひもといてそのままになったというだけだということで説明がつく話だと思う。
それでなにか矛盾があるのだろうか?すでに書いたように、この二度の読書の中間の2018年12月に、私は安倍元首相と山縣有朋について話をして、山縣有朋がもっと評価されるべきと説明している。(「山縣有朋はAランクの政治家だと安倍首相に申し上げた話」参照)
ところで、菅義偉前首相の愛読書が堺屋太一さんの「豊臣秀長」だということはよく知られている。ナンバーツーの重要性を論じた本だと言われている。
ただ、本当に秀吉にとってナンバーツーが秀長だったかというと、それほど明白なわけではない。たしかに、本能寺の変のころからは、そういう感じではあるが、それまでは、蜂須正勝(小六)のほうがそれに相応しかった気もする。
そこで、ちょっと、「令和太閤記 寧々の戦国日記」を材料に、蜂須賀小六についてのお話。もちろん、歴史の話だから、矢作川の橋の上でといったフィクションは扱わない。
このうち江南市の小折にあった生駒家の娘で、土田家に嫁入りしたものの、夫が戦死してしまった女性がいて、これが信長の愛人であって、信長、信雄、五徳(徳川信康夫人)の三人の子をなしている。現代の人たちには吉乃という名前で知られている。
『武功夜話』にだけ出てくるのでなく、江戸幕府が丹波柏原藩や出羽天童藩の織田家から書類を提出させて、まとめた『寛政重修諸家譜』に載っているし、蜂須賀小六の嫡男で徳島藩祖の家政の正室は、吉乃の兄である生駒家長の娘だ。
但馬出石の城主だった前野家が、関白秀次失脚事件に巻き込まれて取り潰されたあと、娘婿の忠康(舞兵庫)は石田三成の家老となり、その娘婿は高松藩生駒家の家老になっているので、彼らが互いに近しい関係にあったことも間違いない。
『武功夜話』には偽書説もあって、どこまで真実を含んでいるかはわからないが、底に書いているから嘘ではない。
藤吉郎がどうして信長に仕官したかについて、「話の相手によって誰にお世話になったか違うことをいっておりましたので、私もどれが本当なのか確かなことは分かりません。ただ、人の伝を頼って、その川並衆とやらと付き合いを始め、まず、蜂須賀小六さまと親しくなって居候になり、連れられて生駒家などにも出入りするようになって、信長さまに近づいたようなことだったのでないかと思うのですが、小六さまも主君になった藤吉郎が自分の手下だったころの話をするのを控えられておられたのか、私にもあまりお話になりませんでした(拙著より)」。
「藤吉郎の出世のきっかけになったのは、信長さまの「美濃攻め」での活躍で、なかでも、有名なお話が「墨俣一夜城」です」が、これは真実とは思えない。
江戸初期に成立した『甫庵太閤記』に藤吉郎が、蜂須賀小六(正勝。子孫は徳島藩主)、稲田貞祐(子孫は徳島筆頭家老)、加治田直繁(福島正則の家老。子孫は尾張藩士)など「夜討ち強盗を営みとしている者」を使って敵地に砦をつくったという話は出てくるので、それを脚色したのだろう。
美濃攻めでの活躍で、藤吉郎の家老格になる、上洛時の近江箕作城攻めでは、何百もの松明に火をつけ、常識外れの夜襲をかけたところ、守備兵たちは大混乱に陥り、その夜のうちには落城させた。
こののち、秀吉は信長から播磨の大部分(西部の赤穂・佐用郡以外)と但馬を領国として扱うことを認められ、検地をしたり、家臣や国衆に知行を与えたりした。長浜時代には、知行は、湖北では秀吉が自由にできる土地が限られていたので、主だった者たちにも、百石単位でしか与えられなかったが、播磨では千石を超える領地を分け与えて、これまでの苦労に報いることができ、蜂須賀小六にも竜野城が与えられた。
そして、四国攻めが成功してから、秀吉は阿波一国を蜂須賀小六に与えようとしたが、小六のたっての願いで、嫡男の家政に与えられた。
この時点では、ほかの譜代といえる家臣たちと比べると破格の待遇だった。それに次ぐ序列の黒田官兵衛は、しばらく遅れて、豊前で10万石あまりをもらってのだから、小六への待遇の重さは注目される。
家政は徳島市西方の一条城に入ったが、海に近い渭山の城を改築して本格的な城下町を建設することにした。このころは、吉野川はもっと北を流れていたが、家政は城下の繁栄を図って別宮川に水路を結びつけ、それが紆余曲折を経て現在は吉野川本流となっている。
秀吉の死後まもなく家政は嫡子の至鎮と小笠原秀政の娘(母は徳川信康の娘)と結婚させ、家康の会津遠征に当たって至鎮に18騎をつけて同行させた。三成の挙兵に当たって、家政は領国を秀頼に返還し高野山に入った。家政は毛利輝元に自制を求めたりする一方、輝元が阿波を接収したり、家臣の一部が西軍の北国攻めに参加することを認めてもいる。
家政は武断派の一人であったが、西軍の大名にまわりを囲まれているし、家康が勝利したあとの豊臣家の運命について会津遠征に同行していた諸大名のようには楽観的に見ることはできなかったのであろう。
家政の子の至鎮は関ヶ原で奮戦し、戦後、改めて阿波一国を与えられ、さらに、大坂の陣の功で淡路を加増され、土佐藩をしのぐ四国一の大名として江戸300年を過ごした。淡路を加増されたのは、豊臣恩顧の大名の筆頭である蜂須賀氏が豊臣攻撃に加わるならほかの大名の踏ん切りもつくだろうと、まず、蜂須賀に戦端を開かせた代償だった。
ただし、小六の血脈は早々に絶えて、幕末は将軍家斉の子や孫が藩主をつとめた。一方、蜂須賀小六のDNAは、鳥取藩池田氏、勧修寺家を通じて仁孝天皇につながり、現在の陛下も小六の子孫である。