日本では、できあいの契約書が使われることが頻繁にある。
典型的なのはアパートやマンションの賃貸借契約書で、不動産業者が予め作成してある契約書をそのまま使用することが多い。
しかも、契約条項はそれほど多くなく、最期に「本契約書の条項に記載がないことで争いがある場合には、甲、乙、双方が誠意を持って協議するものとする」という協議条項が入っている。
それに対し、米国の(とりわけ)ビジネスシーンでは、想定されるあらゆるケースについて規定されていることが多い。
契約条項も多く、契約書も大部になる。
数枚のみの日本の契約書とは大違いだ。
なぜ、米国の契約書は条項が多くて大部なのだろうか?
想うに、米国は他民族国家なので、ある民族にとっての常識が他の民族の非常識ということがあるからではないだろうか?
日本の(特に)個人間の契約書と違って、文化も慣習も違う民族間で揉めることのないよう配慮しているのかもしれない。
また、契約書に不備があると訴訟で敗訴する恐れが高くなるという理由もあるだろう。
日本の契約書ができあいのもので条項も少ないのは、単一民族であるということもあるが、日本人が訴訟で白黒付けるのを嫌う傾向があるということが大きな原因だ。
松本清張の「父系の指」では、「父が法律を持ち出したところ、法律を持ち出されちゃおしまいだ!」と怒って帰って行った人物が描かれている。
川島武宜著「日本人の法思想」には、「ある農村で村八分のような扱いを受けている家があったのでその理由を訊ねると、その家の先々代が境界訴訟を起こしたからだ」という記述がある。
宮沢賢治も「北に訴訟があれば・・・つまらないから止めろといい」と書いている。
このように、日本では訴訟で白黒付けるのが御法度という文化があった。
その理由は、白黒付けると、農村共同体でのその後の生活に支障が生じるからだろう。
農村共同体では、共同体の構成員が協力しあって行う作業が多い(これが漁村との違いだ)。
白黒付けてしまうと、勝った方も負けた方も後々気まずい思いをする。
気まずい思いをしなくて済むよう、白黒はっきり付けるのではなく穏便に事を収める方が好まれる。
典型的なのは、調停という制度だ。
調停は、「権利義務はさておいて互譲の精神で丸く収める」ことが目的だ。
離婚事件などは「調停前置主義」が採用されているので、原則としていきなり訴訟を提起することができない。
白黒付けるのを嫌い互譲の精神で丸く収めることに慣れ親しんだ日本人。
米国企業相手に「契約違反だ!」と叫ぶのではなく「説明不足だ!」と叫ぶ大企業トップの姿を見ると、つくづく精神構造が変わっていないと感じる。
編集部より:この記事は弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2022年11月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。