犯罪とは「構成要件に該当する違法有責な行為」だと一般的に定義されている。つまり、犯罪が成立するためには、3つの関所をクリアする必要がある。
第1の関所が「構成要件」、第2の関所が「違法性」、第3の関所が「有責性」であり、すべてをクリアしないと犯罪は成立しない。
事例から考えよう。
「Aが自分の恋人であったCを奪った憎き恋敵のBを殺そうとしているとする。Aとしては、BがいなければCとの恋愛関係が続いていずれは結婚できるはずだった。ところが、Bが現れたことによって自分の人生がメチャメチャになってしまった。かくなる上はBを殺してCを取り返そうと考えた。
そこで、BとCが一緒に楽しそうにしているところに、遠方からライフルでBを狙って弾丸を発射したところ、弾は恋しきCに当たってCが死んでしまった。
Cとの復縁を願っていたAとしては大変な悲劇であり、Aは号泣した」
このケースで A に殺人罪が成立するか?
それとも謝って B を殺してしまったので、過失致死罪になるか?
(本ケースで殺人未遂は考慮に入れないこととする)
刑法199条は「人を殺した者は、死刑、無期、もしくは5年以上の懲役に処する」と規定している。
この条文の「人を殺した」というのが殺人罪の構成要件だ。
刑法210条は「過失により人を死亡させた者は、50万円以下の罰金に処する」と規定しており、「過失により人を死亡させた」というのが過失致死罪の構成要件だ。
構成要件というのは刑法の条文に書かれた「罪となる行為」のことを指し、「人を殺した」「過失により人を死亡させた」が、これに当たる。
殺人罪になるのと過失致死罪になるのとでは、刑罰に大きな差が生じる。
殺人罪だと最悪の場合死刑になるが、過失致死罪だとせいぜい50万円の罰金。
まさにAとしては運命の分かれ道だ。
結論から述べると、本ケースではAに殺人罪が成立する。
199条の構成要件は「人を殺した者」と書かれており、「Cを殺した者」とは書かれていない。
「およそ人を殺そうとして」「人が死んだ」のだから殺人罪が成立する。
詭弁のように思われるかもしれないが、AはBを脅すために近くにおいてあった狸の置物を狙ってライフルを撃ったと考えてみよう。
弾が逸れてCが死んだのは同じとする。
人を殺そうとしてライフル銃を撃つのと、狸の置物を壊そうとしてライフル銃を撃つのとは大きな違いがある。
人を殺そうとしてライフル銃を撃つときは、「捕まったら死刑になるかもしれない」とうくらいの覚悟で引き金を引く。
一方、狸の置物を壊そうとしてライフル銃を撃つときは、「せいぜい器物損壊になるくらいだ。弁償すればたいしたことない」という程度の気持ちで、人を殺そうとしてライフル銃を撃つときとでは覚悟も精神状態もプレッシャーも大違いだ。
「人を殺そう」という重いプレッシャーに晒されながらも敢えてそれを実行し、(他人であれ)「人の死」という結果を招いてしまった。
「人を殺すなかれ」という重い規範に直面しつつ敢えてそれを破った場合と、「物を壊すなかれ」という比較的軽い規範に直面しつつ破った場合では大違いだ。
よって、本ケースでは殺人罪が成立する。
このように、犯罪を構成する要件である「構成要件」に当たるかどうかが、第一関門だ。
第二関門は「違法性」だ。
違法性を論じるに当たり「正当防衛」を例に挙げる。
刑法36条1項は、「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するために、やむを得ずにした行為は、罰しない」と規定している。
例えば、あなたに対して包丁を持った人間が突進してきたとしよう。このままだと刺されて死んでしまうかもしれない。幸い、あなたは柔道の達人で相手を一本背負いで投げ飛ばした。投げ飛ばされる先に鋭利な石があったので、相手は石に体を打ち付けて死んでしまった。
あなたとしては、相手が死んでも構わないと思っていたし、現実に相手は死んでしまった。
このケースだとあなたの行為は、「人を殺した」という199条の殺人罪の構成要件に該当する。
つまり、第一関門は通過してしまう。
しかし、正当防衛のようなケースでは「違法性がない」ということで第二関門は通過させない。
違法性という第二関門には、他にも緊急避難とか正当業務行為がある。
刑法35条で規定された「正当業務行為」は、構成要件に該当しても違法性が阻却される。
正当業務行為の典型例は、医師の手術だ。
医師の手術はメスで患者の体を切るので、傷害罪の構成要件に該当する。
しかし、医療行為である手術として行った場合は、正当業務行為として「違法性」が阻却される。
さもないと、手術をする医師たちは傷害罪になってしまう。
「手術するたびに傷害罪だぜ。俺なんていったい何回逮捕されたことか」なんて医師がぼやかなきゃいけないことになったら大変だ。
「違法性」の関門は、刑法の条文だと35条、36条、37条に規定されているので、興味があれば条文を見ておこう。
最期の第三の関所は「責任」だ。
「責任」というと「これはお前に責任がある」というふうに一般的に用いられることが多いが、刑法上の「責任」は意味合いが異なる。
「責任がない」とは「非難可能性がない」と刑法では言われている。
構成要件に該当し違法な行為を行っても、その人を批難することができない場合のことだ。
典型例が心神喪失だ。
刑法39条は「心神喪失者の行為は罰しない。心神耗弱者の行為はその刑を減軽する」と規定している。
心神喪失者というのは、自分が何をやっているか全くわからないような状態を想像していただければわかりやすい。
精神的な病気で、人と電柱の区別もつかないとしよう。
電柱に八つ当たりをしようとして思いっきり殴ったら人だった。殴られた人が死んでしまったというようなケースだ。
心神耗弱というのは、心神喪失ほどではないけど認識能力や判断能力が低い場合を指す。
では、どうして心神喪失者の行為は「責任」つまり「非難可能性」がないということで犯罪にならないのか?
これは刑法の哲学のようなものだ。
一言で言ってしまえば、責任能力のない人は規範に直面することなく行為したのだから批難できないということだ。
人を殺したり殴ったりするとき、普通の人は「やってはいけない」という規範に直面しつつ、それを敢えて破っている。
規範というブレーキがあることを知りつつ、敢えてアクセルを踏んでしまったようなものだ。
ブレーキの存在すら知らない人を責めることはできないという考えだ。
「責任能力なし」となると刑罰ではく医療措置がとられる。
しかし、被害者や被害者の家族からすれば、加害者がたまたま心神喪失だったからといって刑罰に処せられないというのは納得がいかないことが多いだろう。
日垣隆氏の「そして殺人者は野に放たれる」という本には、心神喪失のフリをして病院に収容されてさっさと出てくる人がたくさんあると書かれている。
事実だとしたらとんでもない話だ。
心神喪失者と認定された者が比較的短期間で社会に戻ってくるとしたら、個人的には反対だ。
心神喪失者であっても危険性の高い人を社会に戻してしまえば新たな被害が発生する恐れがあるからだ。
相模原殺傷事件の犯人は、犯行の前に「措置入院」に付されたのに、2週間くらいで退院した。
措置入院というのは、「自傷他害の恐れのある」精神障害者を強制的に入院させる制度だ。
社会の安全を確保するために強制的に入院させる制度で、滅多に適用されない。
滅多に適用されないような危険性のある人物を2週間で退院させてしまった病院側には、極めて大きな責任があると考える。
以上、犯罪が成立するためには、構成要件に該当し、違法性が認められ、責任があるという三つの関所があるということを理解していただければ幸いだ。
編集部より:この記事は弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2023年1月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。