政治を通じて見える広報・PR雑感 :その「空疎さ」と「重要さ」

早くも1か月が経ってしまったが、2023年がスタートした。

年初からフル回転で、相変わらずの貧乏暇なし生活送っている。このメルマガのエッセイもアドバイザーを務める出張先の那須塩原市で書いているが(ちなみに、明日から、別途アドバイザーを務める浜松市)、本年最初のメールマガジンが何とか無事に発出できて、ホッとしている。

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さて、政治・行政の世界と言えば、ちょうど通常国会が開幕したところである。議論の中心は防衛費や“異次元”の少子化対策を巡る増税の是非、或いは、その対策の中身についての議論、なかんずく対策のための増税の是非などとなっているが、国会での論戦を聞いていても、どうも要領を得ない。議論の中身が深まらない。

聞いている人はほぼそう感じると思うが、国防についても少子化対策についても、国会での議論から良い政策案が出てくる気が全くせず、国会ではなく、政府内、或いは政府・与党の会議で、中身の実質的議論はよろしくお願いします、という気分になってしまう。

日本の国会では、予算案や法律案の修正が、委員会や本会議などでの議論を経て施されることがほぼ皆無で(米国などでは、議論を経て修正されるケース多数)、「通す(守り通して賛成多数で可決)」か「通さない(審議未了→廃案などを目指す)」かの2択になる。そして、与党が両院で多数を占めている現状では、国会に案が上程された時点で勝負あり(通るに決まっている)、となる。

厳密には、附帯決議などをつけるケースなどもあるが、いずれにせよ、原案そのものを国会での議論を経て修正することはほぼ無い。(その構造的問題・要因については、紙幅の関係もあって省略する。)

したがって、昔から国会での議論とは、政府側を論難して見せ場を作る、いわば「ショー」のようなごとき性質を、はなから内包してしまっていることが、国会での議論が深まらない最大の要因ではある。が、私見では、加えて現代社会の宿痾、とも言うべき状況がこれに拍車をかけているように思う。

端的に書けば、最近の言葉で言うと、「バズる」とか「映(ば)える」と言った「広報・PR至上主義」である。もちろん、PRの原義(publicとrelationを構築して、しっかり伝える)を紐解くまでもなく、しっかりと政府の動きを国民に伝えて理解を求めることそのものに罪はない。むしろ重要だ。ただ、中身より先に「異次元の少子化対策」とか「新しい資本主義」とか、少し前の安倍政権で言えば「一億総活躍」とか、言葉だけが「バズ」って、そこから議論、というのはどうも頂けない。

青山社中では、一度、抜本的少子化対策のための10兆円プランを策定したことがあるが(子育て・教育費の実質無料化や卵子凍結支援などに加え、婚外子が少ない日本の実情を踏まえた出会いの場の創設などの包括案。コンソル債発行や一定額以上の資産を有する者への資産課税などの財源案も提示。)、いずれにせよ、中身あっての広報・PRである。

昨年の出生数はどうも80万人を切る水準にまで低下したとみられており、コロナが落ち着いて、東京への流入超過が加速化しているが(正確には、私見では、むしろ「コロナを踏まえて」。私は、少し前から、都心集中と風光明媚な田舎への分散という二極化がおこると預言し、論文も書いている学会誌に論考も寄稿している)、人口・内需の消滅危機に際して、しっかりとした中身の議論を期待したい。

中身での議論が深まらないと、空疎な「ショー」を求めて、議員もメディアもスキャンダル暴き・攻撃に走るというのが、これまでの経験則だ。現に、岸田総理の長男(総理秘書官)の外遊時の「物見遊山」の有無が問われたりしており、今朝の国会(衆議院予算委員会)では、長妻昭議員が、いつか見た景色・いつか来た道よろしく、年金に絡む天下り問題を叩いている。

プチ炎上的には、岸田総理が、リスキリングに関する国会での答弁で、育休中の男女への理解が全く足りないことを露呈したとの攻撃を受けている。確かに質問のセンスはイマイチではあるが、答弁した総理の罪ではないであろう。中身のない「ショー」としての議論だ。

2023年が、主に政治家たちやメディアによる更なる不毛な広報・PR合戦の幕開けとならないことを切に願うばかりだ。

さて、2023年を考えるにあたり、かつての役人時代の同期の仲間や同僚たちと年末年始などに食事をしながら意見交換を重ねた。浮かび上がってくるのは、今年は日本とASEAN50周年記念だったり、言うまでもなくG7広島サミットがあったりと、日本外交にとってとても重要な年である、ということだ(まあ、毎年重要ではあるわけだが)。

まずは、5月のサミットにどう対応するか、ということが鍵になる。もちろん、広島で開催されることの意義を想えば、核なき世に向けた努力を訴えることは一つの選択肢であり、重要な視点ではあろう。

あまり目立っていないし、地味に評価されているに過ぎないが、岸田総理は日本の総理として初めて、昨年の夏、NPT(核不拡散条約)の運用検討会議に出席して演説するなど、被爆地広島出身の政治家・総理として、並々ならぬ気合で核のない世の重要性・必要性を訴えては来ている。

ただ、ロシアがウクライナ侵略をして核使用をチラつかせたり、北朝鮮が一体どこから資金を調達しているのかと不思議になるほどのペースでミサイルをぶっ放し続けたり、中国が習一強体制を確立して台湾侵攻を企てていたりする中、すなわち、日米同盟の強化や核の傘の中にいることの必要性が増している現状では、単に「核なき世」を訴えても、まさにポエムで空疎な響きとなりかねない。

その点に関して、先日、外務省の高官に直接疑問をぶつけてG7への臨み方について返答を得る機会を得たが、書いて良い範囲で言えば、① G7の結束と力をどう示すか、② 影響力を持ち始めているグローバル・サウス(ASEANや中東・アフリカの新興国など)の取り込み、③ 上目線の教条主義ではないメッセージの発信(例えば「人権」「正義」を振りかざすと、却って嫌われて結果を出せないのでそれに変わる現実的メッセージ)、が鍵になるという見解であった。

①に関して言えば、今後、サミット議長国としての日本が、いつ招請を受けているウクライナに行くか(行かないか)、行くとしてどういう「お土産」を持参するのかが一つのカギになるし(極めて困難)、②や③も言うのは簡単だが、実現することは容易ではない。だが、極めて冷静に限界と可能性を見据えている、と感じたことだけは明記しておきたい。

詳述は避けるが、長時間にわたる高官の説明の中で、①~③のそれぞれについて、さすが日本の頭脳集団たる外務省、と思わせるような考え抜かれた戦略と文言、具体的アプローチを感じたわけだが、とはいえ、それを具体的に表現するとなると、玄人向けには良いにせよ、市井の方々からみると、ほぼ何のことやらわからない首脳間の合意や共同声明の発出となりかねない。その点はやや残念で、懸念をしているところである。

さて、話はここで、再び広報・PRに戻る。

先ほど、中身のない広報・PRほど空疎なものはない、と述べた。しかし、日本には、歴史的に培われた、そして、世界がうらやむほどのクリエイティビティ・文化力がある。中身がある。中身があるなら、それ相応にしっかりと広報・PRすべきだ。

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来るべきG7サミットでは、例えば、善悪を同じ地平線に並べて争いを水に流し、共生や共存を旨とする、遥か昔から現在のアニメなどに至るまで連綿と続く日本文化を、ビジブル・タンジブルな(見える/手に取れる)形でうまく示す努力をしてはどうか。首脳たちにとっても、日本人にとっても、そしてもちろん、世界から見ても、記憶に残るサミットとすべきではないか。

こうした中身をしっかりと外に示して「見せる」作業は、一般論的には、官僚には出来ない(苦手な)作業であり、政治のリーダーシップが求められる。

現在のイギリスの苦境は、見ていて忍びないものがあるが、かつて、世界の陸地の1/4とも言われる広大な領土を有したイギリスは、第二次大戦後、世界帝国としての地位、軍事・経済大国から転落した後も、文化力をうまく示して、しばし世界を席巻し続けた。具体的に言えば、エリザベス女王の外遊で威信を示し、ビートルズの音楽で世界をつなげ、サッカーワールドカップの優勝で熱狂を生んだ。

思えば、日本全体の活性化は、日本の各地域の活性化と状況が似ている。世界の中で凋落する日本と、日本の中で凋落していく各地は、パラレルに、相似形として捉えることもできる。言うまでもなく、各地には、祭り・食文化・名産品の伝統など、「中身」がたっぷりある。日本の地域の苦境の大きな要因の一つは、中身・魅力のPR・広報不足である。

皮肉交じりに言えば、政治家たちは、自らのショーアップ・政権の炎上を狙うという意味での広報・PRに関する知見を、総力を挙げて、日本外交や地域活性に役立ててはどうか。そんなことを、極寒の中でつらつら感じる今日この頃である。