お城の復元は元通りが良いとは限らない:発想の貧困を糺す

大阪城天守閣を訪れる観光客
Mirko Kuzmanovic/iStock

大阪城は鉄筋コンクリートだから素晴らしい

アゴラでもお城についての記事はよく読んでいただいているが、別のところで、「大阪城は鉄筋コンクリートだから素晴らしい…「天守閣が残る12城」が貴重な史跡となっている本当の理由 文化庁と「木造復元マフィア」が地方をいじめている」という記事を書いたので、それを紹介するとともに、そこでは扱わなかった観点からも少し議論を発展させて提供したいと思う。

この記事を書いたのは、同じ枠で「日本に「本物の城」は12しかない…城めぐりを楽しむ人たちに伝えたい姫路城と小田原城の決定的違い」という記事を書いておられる方がおられて、復元など余り価値がなく江戸時代から残っているものこそ値打ちがある、また、復元するなら木造で元通りつくるべきだと書いておられるので、それはおかしいだろうということで筆を執ったのである。

だいたい天守閣はなかに入るような施設でない。おそらく、江戸時代の殿様は天守があっても上ったことなどほとんどなかったはずだ。

そもそも天守閣は、最初は御殿の屋根に物見台を乗せたような発想でスタートしている。京都では、現代の鉄筋コンクリートの家の屋上に大文字を見るための部屋が乗っていることが多いのだが、それみたいなものだ。

当然、天守閣は御殿そのものだから、殿様もそこに住んだりしていた。安土城の天守閣はそういうものだし、秀吉の大阪城もそういうものだった。

どうも戦国時代の殿様やお姫様は、健脚だったらしい。足腰が弱くては命に関わるから当然だし、山の上に御殿があっても平気だったし、天守閣の上のほうに部屋があっても苦にしなかった。

織田信長は岐阜にいたときも、あのロープウェーでのぼるような金華山の頂上に住んで週に何度か下山していたとある。

松山城とか仙台城でも最初は、本丸に住んでいたらしいが、江戸時代も半ばになると、麓に御殿を移転している。

それもあって、江戸時代に入って建築された天守閣では、戦いが始まったら軍議をできるくらいの感じになり、さらにだんだんと単なるお城の飾りで中には入らないようなものになった。戦いのときの展望台とか、武器庫などに使うことはあっても、倉庫として使うには階段上がるだけ面倒なだけである。

そんなわけで、現存12天守でも一番古い、犬山城はそこに住めそうだし、大津城から江戸時代に移築した彦根城とか建築年は不明だが古いタイプの丸岡城は会議くらい、あとの城は天守の内部など粗雑なつくりだ。

だから、観光に行って中に入ってもほとんど意味がない。

まして、町のシンボルにしたくて復元するなら、外観が美しければいいので、内部など何に使ってもいいし、空洞だっていいくらいだ。

まして、木造などで工事する必要はまったくない。大阪城の天守閣は、昭和のはじめに昭和天皇の即位記念に、豊臣時代と徳川時代のデザインをいいとこ取りにして、最上階には広い展望台を高欄を巡らせて作り、エレベーターをつけて、内部はしっかりした博物館にした。

ところが近頃は、文化庁ができるだけ昔通りに再現しろとか、写真が残っていないので再建はダメとか邪魔するが、馬鹿げたことだ。

それに天守閣に使うような上等の木材は、なかなか無いのである。そんな貴重な天然資源を内部なんかどうでもいい天守閣に使うなど自然保護にもよくないではないか。