宮崎駿氏に学ぶ「頑張ることの真の意味」

黒坂岳央です。

ジブリシリーズで有名な宮崎駿氏は「頑張ることについて」の持論を語り、オンラインで話題を呼んだ。端的にいえば、

・頑張ることなんて当たり前。評価対象外。
・結果はすべて自分の責任。
・自分を許す人間に大した仕事はできない。

ということである。とてもストイックに聞こえる言葉であり、ネットでも賛否両論にわかれた。あくまで個人的にはこの言葉には非常に共感できるし、昭和の根性論などではない「努力」に対する本質だと感じられた。

文部科学省より公表された肖像 (2012年) W\Wikipediaより

世の中は結果しか評価されない

世の中の本質的な事実として「人は結果でしか評価できない」ということである。「ストイックすぎる」とか「努力やプロセスにも正当な評価を」といった意見を出す人もいるが、そうした人たちさえ人は結果でしか評価できない。

たとえば見知らぬラーメン屋に入ったと仮定する。特別なトッピングのない普通のラーメンが1500円以上する場合、人は何らかの付加価値をそのラーメンに期待するのが普通だ。なぜなら日本におけるラーメンの相場で考えると、1500円というのはかなり割高に感じられるためだ。

仮にそのラーメンが700円、800円程度の味と変わらなければ、多くの人はつけられた価格上の価値を感じられず、その後の来店を控えるだろう。だが、もしかしたらそのラーメン屋はなにかの事情があり、そのような価格をつけざるを得ないかもしれない。何らかの努力をしたかもしれない。だがその人しれない努力は評価対象ではなく、市場相場からの乖離とみなされ「味に割高」という評価を下されてしまう。「この価格に見合う、味以外の可視化されない付加価値があるかもしれない」と穿った見方をしてくれるお客はほぼいない。いても例外的な存在だ。

もっとシンプルに、誰かを日雇い労働として時給1000円で雇って仕事をしてもらう場合、時給以下の働きしかしてくれなかったら次も同じ相手を呼ぶだろうか?見た目は真面目に頑張っている様子でも、評価対象になるのは仕事の結果であり振る舞いという頑張りはスコープ外である。

結局、頑張るとか努力は可視化されることはほぼない。多くの人は仕事の成果プロセスではなく、結果しか見ない。だから頑張ること自体に意味はなく、その頑張りが成果に反映された時のみ意味を帯びるのだ。

頑張りを評価するのは自分ではなく、他者

だが、人は感情の生き物だ。頑張る人、努力する行為に心を動かされることは誰しもある。それは自分自身も同じだ。頑張る人は美しいし、応援したいと思わされる。重要なポイントとしては、それを考えるのは周囲であり頑張っている本人ではないということだ。

時折、「頑張っているのに評価してくれない」という趣旨のことを言う人がいる。だが、同氏の言葉を借りるならそれは甘えでしかない。多くの場合、その頑張りは絶対量が足りないために結果が出ないか、人の心を動かす水準に満たないということがほとんどである。つまり、「自分なりの頑張り」には意味がなく、頑張ることそのものに価値があるという場合でも、それは他の人が判断することなのである。

「頑張っているつもり」になる人ほどやっかいなものはない。そういう人ほど、自己評価は高いが、他者評価が低く、総じて問題行動やコミュニケーションコストを引き上げる要因になるためである。

同氏のアニメ作品が世界を席巻し、何度見直しても新たな発見があると努力の爪痕を評価されるのは結果を出しているからであり、これも自己評価ではなく他者評価によるものだ。

昨今、「頑張りすぎなくてもいい」とか「あなたは十分頑張っている」みたいな表面的なきれいごとが多いと感じるが、マーケットは学校でもなければ母親でもない。マーケットは甘くはない。

「頑張りを認めてほしい」という主観的な希望は脇に置き、黙って頑張っていたら他者が評価してくれるような努力を目指したいものである。高い評価を受けたり努力をリスペクトされるようなアスリートやビジネスマンには、努力を自ら誇ることはしないのだ。

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