リベラリズムへの不満を語った日米の碩学

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『歴史の終わり』から30年 自由と民主主義への最終回答

フランシス・フクヤマス特別招聘教授(スタンフォード大学)の新刊『リベラリズムへの不満』(新潮社)に巻かれた帯ネームは、そう記す。

あれから30年も経つのか…。多くの中高年読者同様、私も深い感慨を覚える(当時、拝顔の栄に浴した)。

案外知られていないが、『歴史の終わり』の原題は「The End of History and the Last Man」。

原題を直訳すると『歴史の終わりと最後の人間』だが、渡部昇一が日本語訳したタイトルは『歴史の終わり』(三笠書房)である。また『歴史の終焉』のタイトルで言及されることも多い。(ウィキペディア)

そのとおりだが、これらの訳語は、単純な誤解も招いた。上記新刊の「訳者あとがき」を借りよう。

単純な誤解が多いので付け加えるが、「歴史の終わり」とは、時間の流れの中で起きる事件や事変が終わるという意味ではない。フクヤマ自身も指摘するように「終わり(end)」とは終結という意味ではなく、むしろ目標という意味を込めて使っている。

ちなみに、訳者は共同通信社ワシントン支局長や同論説委員長を歴任した会田弘継客員教授(関西大学)。フクヤマの『政治の起源』、『政治の衰退』(講談社)や、ラッセル・カーク著『保守主義の精神』(中公選書)などの翻訳も手掛けてきた名手である。

フクヤマの新刊は、その「序」で、

Z世代の活動家の多くは、リベラリズムを時代遅れのベビーブーマー世代の考え方であり、自己改革ができない「体制」であると考え、いら立っている

と指摘する。続く第1章で「近年、最も激しく攻撃されているのは、民主主義ではなくリベラリズムである」とも書く。その上で、こう指弾した。

多様性を統治する制度的メカニズムとして始まったリベラルな社会は、そのメカニズムそのものを脅かすような新しい形態の多様性を生み出した。

次のとおり、「進歩的左派」への指弾も厳しい。

妊娠中絶や同性婚などの問題に対し深く根付いている宗教的信条は、重要な道徳的問題に対するひとつの理解としてあり得るものだと許容することはせず、根絶されるべき偏見と先入観の一例に過ぎないとみなす。

新刊の最後を、こう締めた。

個人の自律性が充実感の源であるとしても、無制限の自由と制約の絶え間ない破壊が人をより充実させるということにはならない。時には、制限を受け入れることで充実感が得られることもある。個人として、共同体として中庸を取り戻すことが、リベラリズムそのものの再生、いや、存続の鍵になるのである。

最近では、「憲法学者」と自称しながら、改憲派を「サル」呼ばわりした国会議員など多くの顔が浮かぶが、これ以上は論及しない。ここでは、以上を念頭に、以下の文章も、お読みいただきたい。

日本の進歩主義者は、進歩主義そのもののうちに、そして自分自身のうちに、最も悪質なファシストや犯罪者におけるのと全く同質の悪がひそんでゐることを自覚してゐない。一口に言へば、人間の本質が二律背反にあることに、彼等は思ひいたらない。したがつて、彼等は例外なく正義派である。愛国の士であり、階級の身方であり、人類の指導者である。そのスローガンは博愛と建設の美辞麗句で埋められてゐる。正義と過失とが、愛他と自愛とが、建設と破壊とが同じ一つのエネルギーであることを、彼等は理解しない。彼等の正義感、博愛主義、建設意思、それらすべてが、その反対の悪をすつかり消毒し、払拭しさつたあとの善意だと思ひこんでゐる。

その何よりの証拠に、彼等は一人の例外もなく不寛容である。自分だけが人間の幸福な在り方を知つており、自分だけが日本の、世界の未来を見とほしてをり、万人が自分についてくるべきだと確信してゐる。そこには一滴のユーモア(諧謔)もない。ユーモアとは相手の、そして同時に自分の中のどうしやうもないユーモア(気質)を眺める余裕のことだ。感情も知性と同じ資格と権利とを有することを、私たちの生全体をもつて容認することだ。過去も未来と同様の生存権を有し、未来も過去と同様に無であることを、私達の現在を通して知ることだ。そこにしか私たちの「生き方」はない。それが寛容であり、文化感覚といふものではないか。(福田恆存「進歩主義の自己欺瞞」)

福田は昭和35年1月号の「文藝春秋」にこう書いた。それから63年が経つ。

昔も今も、昭和日本の進歩主義であれ、現代アメリカのリベラリズムであれ、彼ら彼女らは「例外なく正義派」であり、「一人の例外もなく不寛容である」。

もって瞑すべし。