5月下旬のG7広島サミットを控えて、岸田首相がアフリカ4カ国とシンガポールを訪問する。何やら国内メディアでは、「G7議長国がグローバル・サウスを取り込めるか?」キャンペーンが華やかなようだ。
正直、乗り切れないものを感じる。理由は二つある。日本国内の「G7」の理解の仕方に違和感がある。そして日本国内の「グローバル・サウス」の理解に違和感がある。
第一の問題は、G7とは何か?という問いである。G7はかつて「先進国首脳会議」などと呼ばれていた。日本語版ウィキペディアによれば、1998年にロシアが加入して「G8」になった頃から「主要国首脳会議」と名称が変更になったのだという。
だが英語版Wikipediaにそのような記述はない。「先進国」だか「主要国」だかの言葉遣いは、日本国内の報道においてのみあてはまる話であると思われる。
G7の自己定義は、すでに価値観の重視のほうに移ってきている。つまり「法の支配、民主主義、人権」などの基本的価値観を共有する諸国の地域横断的なフォーラムとしてのG7が、構成諸国自らによるG7の定義である。
日本の外務省も、「G7サミットでは、世界経済、地域情勢、様々な地球規模課題を始めとするその時々の国際社会における重要な課題について、自由、民主主義、人権などの基本的価値を共有するG7各国の首脳が自由闊達な意見交換を行い、その成果を文書にまとめ公表します。基本的価値を共有するG7首脳のリーダーシップにより、G7は国際社会の重要な課題に効果的に対応してきています。」と説明している。
G7は、「価値の共同体」である。「先進国首脳会議」ではない。
第二の違和感は、「グローバル・サウス」への日本のメディアのこだわりである。ただ単にG7以外の国々の世界経済における存在感が高まった、ということを言うだけに、わざわざ「グローバル・サウス」なる人工的な概念を用いる必要はない。どこかにまだ「G7は先進国首脳会議のことだった」というノスタルジアがあるために、「グローバル・サウス」の十把一絡げの大雑把な言説がまかり通ってしまうのではないか。
私自身はすでに『現代ビジネス』への寄稿文などによって指摘しているのだが、「グローバル・サウス」のようなイデオロギーがかった概念を、その含意や受け止められ方が不確定な中で使い続けることは、火遊びに近い。やめておいたほうが得策だ。
G7諸国のGDPの世界経済に占める割合は年々低下しており、今は3割を切っている。一番足を引っ張っているのは日本だと言ってよい。
そこで日本が率先して「日本は、これからは貧しかった皆さん全員をまとめてグローバル・サウスと呼んでお世辞を言いながら生きていきます」と呟いてみたところで、だから何なのだ、という以上の反応を得られないだろう。
日本は世界経済3位の地位にあるが、トップのアメリカの2割程度の経済規模であり、中国にも遠く及ばない。ドイツに世界3位の座を明け渡す可能性があるともささやかれるが、インドに抜き去られることは端的に時間の問題だ。
この現実を受け止めることは必要だ。しかしそれは「アジアも、アフリカも、ラテンアメリカも、みんなまとめて十把一絡げに『貧しかったけど豊かになったグローバル・サウス』と呼んでお世辞を言い続けます、だから途上国の皆さん、先進国の日本を尊敬して」と叫ぶことではない。
そのような態度は、「価値の共同体」であるG7メンバーとして半世紀に渡って活動してきているという財産をも棒に振ってしまうことにつながるだろう。
BRICSやクアッドを見るまでもなく、G7が始めた恒常的な友好国フォーラム(条約をへた国際組織ではない有志国ネットワーク)は、現代国際社会において不可欠の役割を獲得している。そのような新しい傾向を確立したG7の潜在的価値は、計り知れない。
G7の価値を高めるために、G7メンバーとの連携を戦略的に行っていくことは当然重要だが、あくまでも「価値の共同体」としてのG7の意味を戦略的に拡大させていく限りにおいて、重要である。