人生にビジネスコスパ思考を持ち込むと不幸になる

黒坂岳央です。

昨今、ムダを省こうという意見をあちこちで見るようになった。確かに仕事をする上でのコストや時間のムダは悪であり、非効率さは悪という発想は正しいと思う。

仕事は徹底的に利益を追求し続けることが奨励されるゲームであり、コスパの概念があるからこそ会社員、企業経営者やフリーランサーは競争力が高まるし結果的に社会全体に富となって還元される。

しかし、こと人生そのものにコスパ教の概念を持ち込んでしまうと不幸になると思うのだ。

SB/iStock

人生にコスパを持ち込むと不幸になる

すべてがそうだとはいわないが、人生の生き方にコスパという概念を持ち込むと不幸を生み出す瞬間がある。それはあらゆる娯楽や贅沢の否定につながるからである。

筆者は昔はとにかく貧乏性(というか実際に貧乏だったが)で、旅行にいってもできるだけ安い宿、安い食事、コストのかからない観光地ばかりにいっていた。創意工夫でケチる旅にも、楽しい要素はあったのは確かだ。しかし、せっかくめったに行くことのできない遠出をしたのだから、気になったものは経験して帰ればよかったという想いはその後もずっと後悔として残った。

また、「とにかく最低限使えればいい」ということで安いガジェットや仕事道具を買うのもおすすめしない。本当は心から欲しい物を買わずに妥協しているので、安さだけで選んだ商品に愛着が湧くことはない。結果、雑に使ってしまったり、性能不足で結局買い直すことになる。

自分は最近、毎日使用するものや仕事で使うものはコスパを意識しすぎず、とにかくいいものを買うようにしている。やっぱり値段が高いものは質も伴う事が多いし大事に使うので長持ちする。トータルで見るとコスパが良かったという結果になることが多い。

コスパを意識しすぎると返ってコスパが悪くなることも多く、心の充足から遠ざかってしまうと思うのだ。

コスパのわるいムダを楽しむのが贅沢

時折、贅沢な行為に対してバカにする意見を見ることがある。「タワマンに住むのはコスト高で割に合わない」「旅行ではもっと安いホテルがあるのに情弱なんだな」「子供なんて今どき金食い虫で時間も取られるのでムダだ」といったものである。

しかし、コスパばかりを追求する人生は果たして本当に満足度が高いのだろうか? はたと人生で立ち止まった時に、自分自身のアイデンティティを支えてくれるものは「資産の多寡より経験」ではないかと思っている。

タワマンに住む人の中にも上質な生活を送る経験や思い出を楽しんでいる人はいるし、旅行先で非日常を楽しむ経験を作ったり、子育てに悩みつつもたくさんのイベントと心の交流を思い出として残すことには価値がある。死の直前にコスパよく生きたことに満足するとは思えず、多少不格好にデコボコした人生でも多くの思い出や経験が残っていることにこそ人は満足するのではないだろうか。

コスパ負けしてしまうような行為は、ある側面から見ると確かにムダかもしれない。だが、その類のムダを別の方面から見ると贅沢と呼ぶこともできると思う。コスパ度外視であえてムダを楽しみ、思い出や経験として残るなら歓迎すべきムダだと自分は考える。

人生は一度しか生きられない。コスパばかり意識してしまい、肝心の心の充足をないがしろにしてQOLを下げては意味がない。仕事で無駄を省くことには価値があるが、人生の生き方ではあえてコスパ度外視でたまの贅沢を楽しむのもありではないだろうか。

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ビジネスジャーナリスト
シカゴの大学へ留学し会計学を学ぶ。大学卒業後、ブルームバーグLP、セブン&アイ、コカ・コーラボトラーズジャパン勤務を経て独立。フルーツギフトのビジネスに乗り出し、「高級フルーツギフト水菓子 肥後庵」を運営。経営者や医師などエグゼクティブの顧客にも利用されている。本業の傍ら、ビジネスジャーナリストとしても情報発信中。