ロシアの軍事侵攻と変化
ウクライナ北部ハルキウの近くにあるベルゴロド周辺の都市のいくつかを、ロシア人で組織された反プーチン勢力の一つロシア自由軍とロシア義勇軍が制圧をしたと、ウクライナのキーウ在住のジャーナリストからの速報が流れた。
真偽の程は定かではないが、仮にこれがゼレンスキー大統領が言う反転攻勢の一環であるとするなら、これら反プーチン勢力とウクライナが水面下で連動していることになる。
南東部バフムートを制圧していた軍事会社ワグネルが撤退し、その後をロシア軍が引き継ぐことになったが、ワグネルトップのブリゴジンは、最前線でワグネルに汚れ仕事をさせておきながら、クレムリンは何もしないと猛批判を繰り返してきた。
これが最初の綻びとなり、つまりクレムリンは軍事会社を含むロシア軍の動きを全くコントロールできていないことが露呈したのだが、この機を利用して、中央アジアのチェチェン共和国軍がクレムリンに影響力を与えることを狙い、ウクライナ南東部の戦線への参加を匂わせ始めてきた。
つまり、プーチンが自身への政治的な圧力を抑え込むために、ことごとく政敵を排除し、国内の混乱を回避するため国民の目を外に向けさせる意味で始めたウクライナ侵攻が、全く無意味な行動だったことが明らかになったのだ。
そのプーチンの無意味な決断の先に誰の目にも明らかになったのが、脆弱な経済力、軍事力の露呈と国内の混沌とした勢力の覇権争いだ。
これは、かねてから噂されていた通り、ロシア連邦の結束力やロシア軍の総合的な戦力は米ソ冷戦終了後、有名無実化していて、かつての大国意識に彩られていたロシア国民の意識を利用したプーチンのハリボテ国家であったことが、実際に証明されたことにもなるだろう。
プーチンが自らをピョートル大帝に準えてロシア帝国再興を夢見たとしても、プーチン自身もまたロシアのエスタブリッシュメントも、それが絵に描いた餅に過ぎなかったことを認めざるを得ないだろう。
オリガルヒもプーチンの腰巾着になっていれば莫大な富を占有できると思っていたのだが、そのプーチンが暴走し始めた時、掌を返してプーチンの元を離れた。プーチンは秘密警察で人心掌握する術を学び、地方都市の政治家としてスタートしたが、以後、今日まで政治家としてその手腕を発揮して出世したのではなく、秘密警察の人を騙し、裏をかき、政敵を策略に陥れルことでトップにのし上がったのだが、では彼に政治的な理想があったかと言えばそうではなかった。
彼はただ国のトップに上り詰めることと、政治とは謀略と策略だと考え、実践してきた。それ以上は何もないのだ。
そして私財を溜め込むことで、使い切れない巨額の資産で愛人を囲い、巨大なお城を建設することしか出来なかった。やってきたことは、大国ロシアであるとの幻想を国民に抱かせることで、自身の求心力を維持することだけだった。
アメリカ国内のシンクタンクは、早くからその点を指摘してきたし、ロシアと付き合う国には警告を発してきた。ただ、そのアメリカのインテリジェンスですら、今回のウクライナ侵攻が現実のものになるとは思わなかったが・・・
プーチンは地方政府の時代から、権力の中枢を目指しつつ、私財を溜め込んできたと言われている。また、ロシアの初代大統領のエリツィンが行ってきた贈収賄のアキレス腱を握っていたとされ、エリツィンが権力の座から落とされようとした時、チェチェン共和国の独立派が起こしたとされるアパート爆破事件をFSBを使って行い、エリツィンを守ったとも言われてもいる。
これが、エリツィンからの信頼を生むきっかけとなり、プーチンが大統領に選ばれた理由というのが、ロシアでは公然とした秘密だ。実際にこの事件を追及したジャーナリストの多くが投獄され、或いは暗殺されている。
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以降、
・プーチンの焦りと思い違い
・戦後処理
続きはnoteにて(倉沢良弦の「ニュースの裏側」)。