映画『スーパーマリオ』世界大ヒット:『余計な理屈に毒されてない映画』の勝利?

映画『ザ・スーパーマリオ・ブラザーズムービー』
任天堂HPより

日米合作(任天堂とイルミネーション社)で製作され、世界でも日本でも大ヒット中の映画『ザ・スーパーマリオ・ブラザーズムービー』見に行きましたか?

日本でも2023年最速で80億円を超える大ヒット中ですが、世界中でも12億ドルをはやばやと超えた超絶ヒット作になっています。

過去のアニメ映画作品全世界興行収入ランキングはディズニーの「アナ雪2」が一位だったんですが、映画マリオは「初週興行成績」でそれに次ぐ2位一方で「最初の週末ランキング」で計測すればマリオが勝っていたりするデッドヒート状態らしく、現在「人類の歴史上最も見られたアニメ映画ランキング」における一位を超えられるかどうかに向けて順調に成績を積み上げていっています

私はぜーんぜん期待せずにゲーマーの妻に連れられて見に行きましたが、なんか感動しちゃって途中からオイオイ泣いてました。

ほんと名作だと思ったので、まだ見てないかたは是非行ってみてください。

この記事を書くために英語版(字幕)・日本語版(吹替)の両方見てきましたが、どっちも良いところがあったので、好きな方を選ぶといいと思います。

ただ、「3D映像版」の楽しさはめっちゃあった作品なので、言語はどちらでもいいですが、手近に行ける選択肢があれば3D版映像を選ぶとといいかも?(とはいえ地方では3D上映が少なくて大変かもしれないので、その場合は2D版でも十分楽しめると思います)

で、今回記事のテーマなんですが、この作品は、いわゆる「評論家」の評価は低い中で興行的には世界的にヒットしたこともあり、昨今のエンタメ世界におけるよくある議論である

「小難しい理屈」に毒されていない映画だから素晴らしいのだ

…というような意見をSNSでよく見かけました。

特に、象徴的に言えばディズニーの昨今の作品で目玉とされている

「ポリコレ=政治的正しさの議論=象徴的に言えば人魚姫のリメイクをするにあたって主人公を黒人にするような風潮」

…から距離を置いていることが素晴らしいのだ、という議論をよく見かけます。

一方で私は、この映画を見ていて「積み上げられてきた小難しい理屈(いわゆるポリコレ)」が一切考慮されていないかというと、実はかなり意識されている部分はあると感じました。

マリオの映画が観客の支持を得た理由は、

「小難しい理屈そのものを全部捨てた」のではなくて「小難しい理屈が”自己目的化”してしまうような風潮」から距離を置いたこと

…にあると私は考えています。

そういうトレンドは今後も世界中で続くと私は考えていて、その中で日本初のコンテンツの可能性のコアがどこにあるのかも見えてくるはずです。

今回記事では、その「マリオ映画の大ヒットが象徴していること」について考えます。

1. 80年代、90年代のハリウッド全盛期的な気分を味わわせてくれる映画

私は今40代なかばのファミコン直撃世代であるはずなんですが、子供の頃から親の方針?で任天堂のゲーム機を持っていた事がなく(MSXというパソコンはあった)て、ほとんど任天堂のゲームをやった事がありません。

マリオシリーズもマリオカートも、大乱闘スマッシュブラザーズもほとんどやった事がない。(ついでに言えば今回映画には出てきませんがゼルダもスプラトゥーンも”あつ森”もやったことがないです)

そういう自分でも、出てくる小ネタの大部分がまあまあ理解できるところに「任天堂キャラの文化的浸透力」の凄さを感じるところがありました。

一方で、結構ゲーマーな妻は

そうそう、”ちくわブロック”落ちていくと焦るよね〜

…とかいう感じで、私よりもよほど細部のディテールで色々な思い出が蘇るようなシーンがあったようでした。

ネット上にあるレビューでも、「マリオシリーズ」「スマブラ」「マリカー」のゲーム上の小ネタが散りばめられたシーンに、子供の頃遊んでいた色々な場面がフラッシュバックして涙ぐんだ…というような話をよく見かけます。

スイッチ、DS、64、GAMECUBE、スーファミ、ファミコン…世代によってハードは違えど、子供も大人も自分の中にある「任天堂ゲームの思い出」と共鳴できる作品になっているのはヒットの大きな原因のひとつでしょう。

一方で、任天堂ゲームに馴染んでない私からすると、むしろファミコン全盛期の80年代の気分をリバイバルするような演出の多さに惹きつけられるところがありました。

ボニー・タイラーの「Holding out for a Hero」という80年代の映画で使われた曲など、いわゆる「MTV全盛期」的な音楽が意識的に次々と使われているんですね。

この曲↑は、鬼コーチのピーチ姫によって「練習ステージ」に挑まされているマリオくんが、弟ルイージを救うために失敗しても失敗してもチャレンジするシーンで流れていたんですが、なんか妙に心揺さぶられてウルウルしてしまいました。

また、映画のラストシーンで気弱なルイージくんが必死の勇気を振り絞ってマリオを助け、兄弟で反撃に出る時にご存知「無敵になる”スター”の音楽」が流れるシーンはほんとずっと泣いてましたね。

80年代のハリウッド映画には、バック・トゥ・ザ・フューチャー、インディ・ジョーンズ、スターウォーズ(第一作は70年代末期ですが)のような、劇中でそれが流れるだけで頭空っぽにして楽しめる名曲が沢山ありましたよね?

80年代のアメリカは経済的には微妙だったんですが、そこ以後「アメリカ的な楽観性と理想主義」が世界中を飲み込んでいく大きな波がそこで発生していたのだ…というような事を百年単位の株価のパフォーマンスの分析とともに以下の記事を書いた事があります。

映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』から考えるアメリカ株最強伝説の今後と、そこで日本が取るべき道について|倉本圭造
(Photo byMohamed OsamaonUnsplash) 一個前の記事で、韓流ドラマの最新ヒット作「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」が凄い良くて、単一のイデオロギーをゴリ押しする流行は徐々に終わりを迎え、これからの時代はこういう「バランス感覚」をいかに丁寧に反映していくかが成功の鍵になる時代なのだ・・・という話を...

そこにあった「みんなのための理想主義・楽観主義」みたいなテイストは、ちょっとアホっぽく見えがちなので、各個人がそれぞれ必死にカッコつけてお互いを非難しまくることに忙しくなると消えてしまいがちなんですね。

でも、多くの人々は、バラバラの社会的党派の内側だけに引きこもってお互いを非難し続けるようなコンテンツよりも、多少アホっぽく見えても「みんな」と繋がれる理想主義を求めているのだと私は感じています。

そういうトレンドはチラホラと見えていて、例えば「80年代ハリウッドの生き字引」みたいなトム・クルーズが80年代に自分が出ていた映画を自らリメイクして『トップガンマーヴェリック』を作ったら、昔の思い出に浸りたい世代だけじゃなく若いZ世代にも新鮮なものとして受け取られて大ヒットしたような事例は最近結構ある。

米中冷戦で再度世界が真っ二つに割れてしまいかねない時代に、再度原点の「みんなのための理想主義・楽観主義」を取り戻したいという人々の思いは強くある。

今作のマリオは、一応「ニューヨークブルックリン在住のイタリア系アメリカ人男性の配管工」ということになっています。

でも「親から理解されないで落ち込んだり、それでも自分を信じて頑張ったりする姿」「兄弟(に限らず気の合う仲間)で助け合って理想に挑戦する姿」「ちょっと下に見られがちな職業・属性だけど見返してやろうと頑張る姿」…というのは、別にアジア人だろうとラテン系だろうと黒人だろうと、男だろうと女だろうとLGBTだろうと自分をそこに投影し得るオープンさがある。

「違い」でなく「共有できるもの」に注目して、そこに「みんなのための楽観性と理想主義」を再建したいという人々のニーズに真っ直ぐ答えている作品になっていると思います。

(もちろんそういう「みんなのための理想」が息苦しく感じるような少数者も最後までいることは見越した上で、そういう人に向けてルマリーという謎のキャラクターが最後の最後まで毒を吐き続けるという配慮もされている点も新しいと思いました。)

2. 「ポリコレ」的な小難しい理屈は捨て去られた…か?

では一方で、昨今のディズニー的な「ポリコレ的に小難しい理屈」は捨て去られたのでしょうか?

結論から言えばこれは「捨て去られた」というより、「当たり前になってむしろ意識されないほど自然になった」という方が正しいと私は考えています。

配管工を職業としてバカにするようなネタはいくら面白くても入れるべきではないと考えた…と海外メディアのインタビューで宮本&メレダンドリのプロデューサーコンビが言ってましたし、無意味に人の属性を傷つけるステレオタイプ的なネタは慎重に排除されている。

あと、これは多くの人が指摘していることですが、ピーチ姫が主役級にアクティブにバンバン戦いまくってる時点で、「昔のハリウッド&初期マリオゲーム」的な感じとは随分違う。

「いわゆるポリコレ」が嫌われている理由は、その作品自体の功罪というより「ポリコレ的な作品を褒め称えるために他のコンテンツをディスりまくる人がいる」というところにあると私は考えているんですが、実は「女の子もどんどん戦う」の歴史は日本コンテンツでも結構古くからあるんですね。

マリオにおいてもスーパーマリオRPGという作品があって、これは96年の作品ですが、最初は「いつも悪役にさらわれてその度にマリオが助けにいなかいといけないピーチ姫」みたいなネタから始まるんですが、途中から仲間になって大事な戦力になる展開になっているらしい。

ただし、「スーパーマリオRPG」のピーチ姫は、「ちょっとおバカな女の子」感があったし、戦闘面でも能力が回復寄りのサポート役だった…という話を聞きました(とはいえ最強武器を手に入れるとかなり前線でも結構戦えるキャラになるらしい)。

だから、「ポリコレの嵐が吹き荒れた時代」にも意味はあったんですよ。

「スーパーマリオRPGのピーチ姫」から、「映画マリオのピーチ姫」の間には、興味がない人にはどうでもいいように見えるかもしれないが、自分たちも自然に社会参加したいと考える女性にとっては”非常に大事な違い”があるのだと思います。

一方で、社会全体で女性も普通に働くのが当たり前になってきつつある昨今では、いつまでも

無理解な社会さん:「けっ、女のくせに生意気な!」
ピーチ姫:「なんですって!見返してやる!やぁ!」
無理解な社会さん:「うわああああ、やーーらぁーーれぇーーたぁーー!」

…みたいな接待プレイ作品が延々と作られることに関して、当の「これから社会に挑戦する若い女性」側から見てもちょっとバカにされてる感を感じ始めているところがある。

男性キャラが最初社会から認められず、しかしそれを全部他人のせいにしたりしないで努力して、自分の能力が活かせる道を模索してあがいて、大きな貢献をして認められていくプロセス

こういうもの↑を女性版でも描いていいし、しかし現時点で女性主人公でこれをやると「ポリコレ的に色々と難しい文脈」が噛み込んできて純粋に「この部分」だけを描きづらくなるので、とりあえず男性主人公で描いてある作品に、普通の女性だって自分を投影したっていいよね・・・という流れになってきつつある。

「鬼滅の刃」の胡蝶しのぶさんが、男性の「柱」に比べて身体的非力さを自覚しつつも、自分の得意分野を活かして最終的に鬼舞辻無惨との千年以上続く戦いの中で男の柱たちには決してできなかった局面を大きく超える貢献をした…みたいなストーリーが、むしろ「本当に社会に参加しはじめた女性」にとっては大事なエンパワーメントになるはずだ、というのは以下の記事で書いた通りです。

爆発的ヒットの鬼滅の刃の「女性作者ならでは」の部分はどこにあるのか?「ルフィとは友達になれないが炭治郎とは友達になれそう」問題と「鬼滅の刃的ガールズエンパワーメント」について|倉本圭造
(トップ画像は映画”鬼滅の刃無限列車編”公式サイトより) (この記事は前後編あるんですが、アクセス数的にこの前編だけ読んで離脱される方が多いみたいなので、これを読み終わったら”煉獄さん”について書いた後編もぜひどうぞ) ・ いやー、なんか爆発的にヒットしてますね鬼滅の刃。 コミックス販売ランキングで22巻まで...

3. 「ポリコレが当たり前の時代」の次の着地点の模索が始まっている

私は経営コンサルタント業のかたわら、文通を通じて色んな個人と人生を考えるという仕事もしていて、そのクライアントには老若男女の男女ビジネスパーソンやベンチャー起業家、学者さんや農家や特殊な自営業の人など、色々なタイプの人がいるんですが。(ご興味があればこちらから)

職業的な分類以外で言えばいわゆる「LGBT」の人もいて、ネット上でオープンにはできないような色々な話をして勉強になっているんですが、あるゲイの人が、

ゲイの映画(その時話題にしていたのは『ブロークバック・マウンテン』)には誠実に撮られた良い映画も結構あると思いますが、ゲイが出てくる映画=恋愛映画っていう構造自体が不満ではあるんですよね

…と言っていて凄い目からウロコだったんですよね。確かにそりゃそうだなと。

そういう試みとしては、マーベルヒーローズシリーズの『エターナルズ』の中に、特に理由も説明もなくゲイのファストスというヒーローが出てくるんですね。

やたらLGBT権利の法的保護をやかましく言うわりになんだかんだ文化的にゲイ嫌悪が異様に強く渦巻いている欧米では非難轟々だったらしいですが、よく言われる「人口の最大1割弱ぐらいは実はLGBT」みたいな話が本当だとすれば、20人近くヒーローが出てくる映画では一人ぐらい特に理由もなくLGBTの人がいてもいいのでは?という説明は個人的には非常にナルホド感がありました。

後で詳しく述べたい作品として『映像研には手を出すな!』っていう日本の漫画&アニメがあるんですが、特に何の理由もなく主要キャラの一人が黒人なんですけど、八村塁さんみたいに昨今色んなルーツの「日本人」がいる中で、この「何気ない黒人キャラ」の存在ってとても良いなと私は感じているところがあります。

「ポリコレが悪いのではなくポリコレを理由に果てしなく既存コンテンツをディスりまくる人が問題」みたいな話と同じで、いわゆるマイノリティ的な何らかの属性を持っている人が、「そういう属性の特殊キャラ」として”のみ”扱われる事は、実際にそういう属性を持って生きている人にとって”呪い”にもなりえるんですね。

「主役級キャラ」に黒人やLGBTや女性や…が決してキャスティングされ得ない時代からの『移行期』においては、”ポリコレ的配慮”自体が大変大きな意味を持っていた。

一方で、社会的にも実際にそういうマイノリティへの認知や許容が進み始めた段階において、永久にそういう「ポリコレ至上主義」的な作品ばかりが作られ続けると、「その社会の普通の一員として頑張ろう」という若い人に前時代的な呪いをかける効果もある。

「普通に社会の一員として活躍したい」だけで、「迫害を受ける悲劇の主人公」なんかになりたくない人まで、日常的なあらゆる部分で「呪われた主人公」に仕立て上げられてしまって、古い現実社会と新しい考え方の間の対立構造の中でイケニエにされて押しつぶされてしまう事になる。

4. 現実に残る差別のラストワンマイル(最後の一歩)は、「双方向的」に細部の配慮をしていかないと解消できない

とはいえ、日本にLGBT差別とか女性差別とか、黒人差別とか…が現状一切ないかといえばそんなことはないでしょう。世界全体を見ればもっとある。

大きな差別が残ってる部分もあるだろうし、いわゆる「マイクロアグレッション(日常的に感じる小さな差別)」も沢山ある。

一方で、大きな問題を切るには大きな刀が、小さな問題を切るには小さなメスが必要…という真実が昨今の社会では忘れられがちだと私は感じています。

「大枠で差別がいけないというメッセージを発信する」時には強引さが必要だが、社会の隅々においてそういう不具合を消していくには、ただ「古い社会」を非難しているだけではダメで、そこと協力しあって隅々まで行き渡らせる必要がある。

例えば私の経営コンサル業のクライアントには中京地区(愛知岐阜三重静岡西部)の会社が多いんですが、中京地区はトヨタに代表される自動車産業に限らず色々な製造業の世界的拠点になっているので、地味だけど非常にニッチな分野で世界シェア一位だったりする結構高給で普通に海外駐在とかもある仕事が沢山あるんですよね。

でも、県内出身の女性はもっと「キラキラした仕事」を求めて東京とかに出ていくし、一方で他地域から「地味でも高級な仕事」を求めて男が入ってくるんで、物凄く人口の出入りが男女で不均衡になっているんですよ。

で、「地味だが高級な仕事に女性が残らない」「キラキラした仕事(必ずしも高給とはいえない)を求めて県外に出ちゃう」みたいな話を全部まとめて統計化したら、給与の男女比の不均衡という「フェミニズム的課題」になってしまうわけですが…

一方で、この「男女差」が全部「女性差別」のせいか?っていうとそういうわけでもないですよね。

だから、「ジェンダーギャップ指数」みたいな何もかも丸めた数字で大雑把に殴りまくってるだけでは解決できないどころか、余計に「古い社会側」から女性への憎悪みたいなのが募っていって解決のための細部の工夫の積み上げが停滞してしまう。

解決のためには、その「地味な仕事」もやってみれば面白い・・・という価値観を掘り下げて、女性もそういう分野に参加しやすいカルチャーを作っていく必要がある。

その時に、単に「アカデミックな理系分野」に女性を増やすだけでは足りなくて、「工場の現場」的な世界観とアカデミックな先端性との間の相互尊重的な関係性という「日本の製造業が持っている美点」をしっかりとエンパワーしつつ、そこと女性との親和性を文化として作っていく試みが必要になる。

結果として、いわゆる「港区女子」みたいな女性は参加しないかもしれないけど(これ自体も偏見の可能性はありますが一応)、実際にそういう「油臭い産業分野」に興味関心がある女性というのは明らかにいるわけで、そういう女性が変に抑圧されずに自然に中京地区に集まって仕事したい…という経路をエンパワーしていく必要がある。(このプロセスの中では、いわゆる”理系女子””工場萌え女子””車好き女子”みたいなムーブメントが過渡期的に案外役立っている面もあるはずだと思います)

一方で、実際にそういう「油臭い産業」に夢を持って参加した女性が、中京地区の会社で実際に働く上での細部の問題に関しては、フェミニズムとかポリコレ的に言う「マイクロアグレッション」的な問題の解決は凄い大事なんですよ。

私のクライアントの中京地区の会社では、

「やっぱり女子トイレの数とか、社食にオッサン向けのドカ食いメニューしかないみたいな細かい問題とか、結婚出産期の女性特有の問題とかにはちゃんと実地に”使いやすい制度”を整備する事が大事」

…みたいな事をよく言ってました。

要するに、「ポリコレ的理想」は、「現実社会との双方向的なすり合わせ」を行うことによって初めて意味を持つのに、今は「ただただ無条件に古い社会をディスりまくれる旗印」が無責任なインテリに濫用されることで、余計に「マイノリティ自体に対する古い社会側の憎悪をかきたてる」事になってしまっている。

実際に「マイノリティの当事者」がその社会で生きやすくするという「本来の目的」が忘れ去られ、ありとあらゆる社会の細部をインテリが頭の中でこねくりまわした人工的な基準で断罪・糾弾しまくる事自体が自己目的化してしまった「ポリコレムーブメント」を、「より現実との双方向性を持ったもの」に転換していく流れが今必要とされている。

マリオの映画が、評論家からは否定されつつも一般観客からは絶賛されて記録的ヒットになっている現象の背後にあるのはそういう「シフト」だと私は考えています。

5. 過去20年の「アメリカ的個人の絶対化」の時代の”後始末”が始まる

アメリカの社会運動の良くない点は、「黒人以外がニガーという言葉を使うのは大問題」みたいなマナーレベルの話には世界の根本的大問題かのように大騒ぎするくせに、公立小学校の校区ごとの予算が違いすぎて貧困層(多くは黒人)がまともな教育を受けられないみたいな「本当の根本問題」は放置されっぱなしになってしまうようなところです。

「抗議すること自体が自己目的化」していて、「古い社会」とすり合わせを丁寧に行ってそれを「隅々まで行き渡らせる」ようなプロセスが破綻している。

結果として社会の上澄みも上澄みの特権階級の中で虫も殺さないような優しい世界が実現する一方で、社会の逆側がむしろ酷いスラム的現実に飲み込まれていってしまう。

これはアメリカ国内における分断においてもそうだし、人類社会全体における分断でも同じことが起きています。

以下は、私の著書「日本人のための議論と対話の教科書」からの図ですが…

問題がそこにあることを「周知」するまでと、実際に「解決」を行うには別のモードが必要なんですね。

図の左列の「滑走路段階」においては、とにかく「古い社会を糾弾」して「そこに問題があることを周知」する必要がある。

一方で「問題が周知」されたら、そこから先は右列の「飛行段階」に入る必要があり、そこでは「古い社会側とも協業して具体的な問題を丁寧に解決していく」必要が出てくる。

過去20年の人類社会では、とりあえず「問題の周知」までをアメリカ的なやり方でとにかく非妥協的にやってきた時代が続いていたわけですが、そういうムーブメントによって「古い社会」vs「新しい考え方」があまりに「決して交わらない対立的なもの」として扱われすぎたので、今や人類社会が真っ二つに割れてしまっている。

欧米社会内でも「古い社会」と「新しい考え方」が全力で分断されていますし、中露&グローバルサウスが欧米への敵対感情を隠さなくなり、むしろ欧米的理想自体が吹き飛んでしまいかねない状況になっている。

「人工的な新しい価値観によって思う存分古い社会をディスりまくっていれば良かった時代」は徐々に終わりを告げつつある変化が起きているんですね。

過去20年の日本はそういう「すべて古い社会が悪いことにして糾弾しまくる」ムーブメントからは距離を置きがちだったので、そこを息苦しく思っていたタイプの人もいるとは思いますが…

しかし今後、欧米vs反欧米で完全に分断されつつある社会において、「欧米的理想に対する非欧米の反感」もちゃんと生身で否定せず共感しつつ、「欧米的理想」を実地に一歩ずつ取り入れていくゆりかごとしての日本…という存在価値を、人類社会全体が発見することになるでしょう。

私の本の図では以下のような形です。

過去の日本は、上記の図の右側からの圧力で「押し切ってしまう」ことができなかったからこそ、「注射器の先に穴をあける」作業自体をやっていく主体になりえる。

20世紀〜21世紀初頭の、欧米+日本の先進国だけで世界のGDPの大半を占めていた時代の人類社会では、「欧米的理想」から外れた存在をただ「否定」し、「ナチス」呼ばわりして排除してゴリ押ししていくだけで良かった。

しかし、いわゆる「先進国」のGDPシェアが4割を割り込み、さらに今後減り続けることが明らかな2020年代以後は、「上から目線の意識高い系がただ断罪しまくる」ムーブメントは限界にぶち当たるどころかむしろ全拒否にされかねない状況になっていく。

「好き勝手に否定される側の古い社会側の気持ち」も十二分に汲み取りつつ、それでも「理想」を一歩ずつ実現していくための”新しい双方向性”が必要とされている。

私はそれを、対立する「ベタな正義」同士をどちらも否定せず乗り越える「メタ正義感覚」と呼んでいます。

「マリオRPG」のピーチ姫と、「映画マリオ」のピーチ姫は、ほんのちょっとの違いではありますが、でも過去20年の「ポリコレ全盛時代」の異議申し立ての積み重ねが熟成してきた色々な変化は込められています。

それがさらに進歩して「新しいメタ正義的調和」を目指すことがトレンドになっていく中で、「糾弾・断罪すること自体が自己目的化した運動」は徐々に役割を終え、説得力を失っていくでしょう。

6. 欧米と非欧米の力関係が対等になっていく今後の人類社会における日本コンテンツの存在意義

日本において「ポリコレ」が嫌われがちな理由は、「ポリコレを旗印にした作品」を引き合いに日本コンテンツをディスりまくり、「時代遅れの日本コンテンツなど滅びゆく運命なのだ」みたいな事を言いまくる人がSNSで目立つからだと思いますが、しかし以下記事で書いたように実態としては昨今の「日本コンテンツ」の世界売上は「爆増」というレベルで増加しています。

最近の北米での日本漫画の売上爆増が凄いという話と、一方でアメコミは「ポリコレ」で滅びつつあるという話は本当か?から考える、日本漫画が今後進むべき方向について。|倉本圭造
Photo by Devon Unsplash 最近ちょっとしたキッカケでアメコミ(ハリウッドのアメコミ・ヒーロー映画でなくDCとかの本当のアメリカン・コミック)にハマってまして、 日本漫画ファンはあまり読んだことないだろうけど、凄いアメコミは超凄いし、一度手を出してみるのオススメですよ! …という話をツイッ...

そこに「期待されている」のは、過剰な「ポリコレの自己目的化」から距離をおいて、しかし「違いよりも共通性」をベースにした理想主義を維持しようとする日本コンテンツの精神にあるはずです。

また以下記事で書いたような、「人災型でなく天災型の倫理観」みたいな日本コンテンツの志向性が、誰かを悪として糾弾する事に疲れた世界における「次」を描く大事な起点となってくるという側面もあるはず。

「今際の国のアリス」vs「イカゲーム」 日韓デスゲームドラマ比較から考える2つの「世界観」の違いと今後の日韓関係|倉本圭造
「カイジ」とか「今際の国のアリス」とか「日本コンテンツの王道ジャンル」だった「デスゲームもの」を大胆に再解釈した韓国ドラマ、「イカゲーム」が動画プラットフォーム「ネットフリックス」で世界的にものすごくヒットしているらしい。 ネットフリックスのコンテンツは、たとえば映画の場合の配給収入ランキングとかほど明確なランキング...

とはいえ勿論、最後まで「予定調和的な社会の共通了解」にツバを吐き続けずにはいられないタイプの人も当然います。そういう人の視点によって社会に多様な新しい視点がもたらされるフレキシビリティは最後まで残していく必要がある。

そしてそういう「最後まで馴れ合いたくないタイプの人間」の居場所こそが、「映画マリオ」におけるルマリーというキャラの絶妙な存在感なんですよね。

「ルマリー的存在」の人は、あれぐらいの存在感で延々と毒を吐き続けていて「たまにはこういう意見も必要だよね」という感じで受容されている…というレベル以上に「社会の中央で現実的問題を差配する」役割を与えられたらそういうタイプの人はむしろ困ってしまう部分があるはずなんですよ。

「あのルマリーレベルの存在感」さえも否定されて糾弾されるような社会には決してしてはいけない。かといってただただ毒を吐いてるだけの存在をやたら過剰にありがたがって社会の現実的運用の細部まで差配させる権力を与えたりしても良くない。

「隅っこで毒を吐く役割」の人の感性は尊重しつつ、そこから提唱された新しい視点は「現実社会との双方向的インタラクション」に受け渡されて丁寧に解決されていく「メタ正義」のプロセスを社会の中で安定的に運用できるようになっていく必要があるんですね。

これは、フランス革命以後、「悪」を全部「欧米の外側」に押し付けてきた人類の歴史全体を捉えかえし、「中・露側の意地の存在価値」を欧米的理想の中に組み込むことで、分断されゆく人類社会の新しい希望の旗を打ち立てる作業になります。

それを生み出す起点となるのが、日米合作(任天堂とイルミネーション)映画、「ザ・スーパマリオブラザーズムービー」の世界的大ヒットが持つ意味であり、これからの日本社会の世界の中での役割なのだと言えるでしょう。

長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

今やってるG7を巡る世界的なパワーゲームを見ていても、20世紀〜21世紀初頭に吹き荒れた「権力vs反権力」みたいなアナクロな世界観の限界が露呈しつつある感じがひしひしとしますよね。

「民主主義国家全体」が持っている環境自体を守るための活動にちゃんと協力しないと、「アベ死ね」とか言いまくれる「反権力」も維持できない。

「民主主義国家の権力」を安全なところで批判しているだけでは「反権力」は維持できないし、人類の半分が欧米的理想に敢然と挑戦してきている現代においては、いかにその「理想」を非欧米の中露やグローバルサウスにも自分ごととして受け取ってもらえるかについて真剣に考えていく必要が出てきている。

あらゆる問題が「政治権力闘争」に見えてしまうビョーキを克服し、協力し合って「具体的な問題の解決」に集中できる機運自体をエンパワーしていく必要がある時代なのです。

昨月末に書いてめちゃ読まれた明治神宮外苑再開発問題に関する記事も…

明治神宮外苑再開発に私が”賛成”する理由|倉本圭造
(お知らせ) この記事は、書いて半年以上たってからも延々とアクセスされ続けているんですが、あまりに広く読まれた事もあって最近TBSの討論番組に呼ばれてお話してきました。 その時の内容について、番組のYouTubeリンクも合わせて解説している記事を追記しましたので、ご興味があれば以下リンクからお読みいただければと思い...

昨今の日本の電力行政の混乱の原因について解説した記事も…

「脱原発のドイツ」は特殊例にすぎない。「日本の電力問題」議論の何がすれ違っているかを解説します|FINDERS
PhotobyShutterstock【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう(41)今日から3回に分けて、日本の電力問...

すべて「今の人類社会共通の大問題」が形を変えてあらゆる場所に出てきていることがわかるでしょう。

人類社会を真っ二つに割りつつある分断を超える「メタ正義感覚」のムーブメントを起こしていくことが、私たち日本人の使命です。

その方法については、以下の私の本をお読みいただければと思います。

『日本人のための議論と対話の教科書』

昨今の日本では、選挙のたびに「右も左も」内輪もめが激しくなっていますが、それは「日本社会が新しい共有軸を見出していくために必要なプロセス」としてそうなっていくだろう…という話を私は上記の本の後半で詳しく書いています。

「倉本さんが言ったとおりになってきてますね!」とか「予言者ですねwww」などという声を最近毎日ってぐらい聞くので、ぜひあなたも、この記事で書いたような「対立を乗り越えるアプローチ」=「メタ正義感覚」を身に着けていただければと思います。

ここ以後は、「日本コンテンツの独自な可能性」のひとつとして、最近めっちゃ感動した「映像研には手を出すな!」の話をしたいと思っています。

最近ひょんなことから(文通の仕事で繋がってる人に教えてもらった)、前から少し気になってた「映像研には手を出すな!」を読んだんですけどマジで良くて!

原作漫画がとにかく良かったんですが、アニメ版も原作の良さを120%以上完璧に表現した超完璧な移植作になっていたと思います。

どんな作品?っていう人は、とりあえず以下に公式PVがあるんで見たら雰囲気伝わるんじゃないかと思いますが…

これはこの記事でメイドインアビスの話をした時も同じことを思ったんですが、自分はこういう「オタク系の日本コンテンツの真髄」みたいな作品を作っている人たちの文化圏とは結構遠いところで生きているところは正直あるなと思ってるんですよね。

というか、現代を生きている日本人の少なくとも半分ぐらいは、「こういうオタクの真髄」みたいな世界の日本とはちょっと距離をおいて生きてるところがあると思うんですよ。

でもたまに、その「残り半分のオタクの日本人」がそのカオスな渦の中から磨き上げてドカーンと結晶化してくれるモノには、世界の他のどこにもない圧倒的にオリジナルな可能性を感じるところがあります。

そして、普段は確かにちょっと遠い位置で生活をしているけれども、「この世界観」が持つ可能性をうっすらとは地続きに共有しながら生きているところはあるな…と多くの日本人は気付かされるし、世界中にいるこういう日本コンテンツのファンはその価値をかなり精密正確に理解してくれてるところがあるなと思っています。

ここ以後は、そういう「オタク日本人の世界」と「普通の日本人の世界」のインタラクションという話からこの作品のどこが素晴らしいか…みたいな話を皮切りに、

・原作漫画版は、アニメ放映があってからそれ以後、大きく「次の段階」へ進歩しているのでは?

…という話を掘り下げて、さらに

・なぜ世界中で人気がある日本アニメの末端作業員は薄給かつ重労働なのか?どうすればそこにお金が回るようになるのか?

…という大問題について経営コンサル的な視点と思想家的な視点を駆使して考察する記事を書きます。

「映像研」を見ていると、「オタクのこだわり」と「お金」との関係について凄い考えさせられるんですよね。

海外では「金森さん」の人気がめっちゃ高いらしいですが、残り二人の「ザ・オタク」と金森さんのインタラクションの中から、今後の日本のコンテンツビジネスのあるべき姿について考えたいと思います。

つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。


編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2023年5月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。