ボールガールは二度泣く

加藤未唯選手
Wikipediaより

テニスに興味がある訳でない筆者だが、先般の全仏オープン女子ダブルスで失格した加藤美唯が4日後の混合ダブルスで優勝した話には大いに感動させられて、ネットで情報収集に努めた。

結果、基本的なことでいくつか知ったのは、全仏オープンには130年近い歴史があり、今年の競技は5月22日から6月11日の間に、男子シングルス、女子シングルス、男子ダブルス、女子ダブルス、そして混合ダブルスの5競技が行われたことなどだから、きっと誰でもご存じのことばかり。

が、加藤の失格を最終的に宣言したのが「レフェリー」なる立場の者であり、加藤ペア側が「誰かケガをしていますか?」と問うた際に、レフェリーが次のように述べたという記事に出くわしてから、筆者の好奇心が俄然むくむくと頭をもたげた。

あの子は泣いている。自分がここに来るまで時間がかかったが、それでもまだコート上で泣いていて、泣き止むことができない。それだけ深刻だったということだ。これは、ニューヨークでジョコビッチに起きた件と同じだ。

事態は、加藤がネット際から相手コートに返そうとして打ったボールが、壁際に立っていたボールガールに当たったことで起きた。すぐに主審がボールガールのところに行き声を掛けると、小さく頷く様子が確認できる。そして主審は加藤に「警告」を告げ、加藤もボールガールのもとに行って謝った。それで落着するはずだった。

この加藤ペア失格劇の主な登場人物は、「主審」「スーパーバイザー」「レフェリー」と「相手ペア」だ。例えば野球なら、名将三原監督の抗議を「俺がルールブックだ」と撥ねつけた二出川延明の名が辞書に載るほどに、「主審」は絶対的な存在だが、テニスの4大大会ともなればそうではない様だ。

ここに「相手ペア」が登場したからだ。ブズコバ(チェコ)とソリベストルモ(スペイン)のペアが「あれは失格だ!」と抗議、主審が「わざと当てたわけではない。ボールガールはケガをしていない、問題ないと言っている」とたしなめるも、「あんなに泣いている」「血も出ている」と引き下がらない。

そこで主審はスーパーバイザーを呼ぶ。主審の裁量は試合中の出来事に限られ、選手間の揉め事や試合進行に関わることはスーパーバイザーの領域だそうだ。主審は、数分後に表れたスーパーバイザーに事の経緯を説明し、「ボールガールに確認した時、彼女は大丈夫だと言った。パニックになって泣き出してしまったようだ」と付言した。

が、説明を聞いたスーパーバイザーはレフェリーを呼ぶことになる。レフェリーはトーナメントにおけるすべての裁定について最終的な権限を持つ役職で、スーパーバイザーはその顧問的なポジションだからだそうだ。数分経ってようやくスーツ姿のレフェリーが現れ、前述の発言に及んだという次第。

だが、このレフェリーの言い分はいくつかの点で相当おかしい。ボールガールが泣いているから失格だというなら、泣いていなければ失格ではないのか。また、ボールが当たってから時間が経ってもまだ泣いていることが深刻だというなら、ボールガールがなぜ泣いているのかを確認する必要があろう。

ボールガールは、ボールが当たった直後の主審の問い掛けに「大丈夫だと言った」。また主審はスーパーバイザーに「パニックになって泣き出してしまったようだ」と述べている。これこそボールガールが泣き続けている理由ではないだろうか。つまり、事態が段々と大きくなってしまったことにショックを受けたのだ。

4大大会のボールパーソンといえば花形、15歳からなれるようだから、彼女もそういう年嵩だろう。あるマニュアルの「BPの基本姿勢とボールの渡し方」には、

① プレー中の姿勢は手は後ろ、足は肩幅。
② インプレー中は絶対に動かない。
③ ボールを拾うときはダッシュで素早く拾うこと。

など事細かに書いてある。彼女もそういった訓練を受けて憧れの舞台に立てたのだろうことは想像に難くない。

レフェリーが「ニューヨークでジョコビッチに起きた件と同じだ」とも言っているので、本当に同じなのかどうか検証するために、YouTubeでジョコビッチ(以下、ジョコ)が線審にボールを当てた画像を探し、かつ加藤とジョコのボールが飛んだ距離を推測すべく、テニスコートのサイズも調べて見た。

すると、テニスコートの縦方向の長さは23.77mであり、公式試合で配置する線審の立ち位置は、ベースラインから8m以上のスペースをとること、とされていることが判った。

ジョコ事件の映像を見ると、彼はベースラインから2mほどコート内に入った辺りから壁に向けて打っている様に見えるので、8m+2m=約10mという近い距離にいた線審に当たったことになる。しかもロイターはその時の状況をこう書いている。

(ジョコは)第1セットでセットポイントまで持ち込んだものの生かせず。逆に5ー6とリードを許したことによりフラストレーションをため込んだなかで、ゲーム間でボールにいらだちをぶつけると、そのボールが線審を務めていた女性ののどに直撃した。

他方、加藤ペアはジョコの様なゲームの状況にはなく、YouTube映像を見ても、単に相手コート側に返すつもりで、ネット際からボールを打ったように見える。そしてボールは23.77mの約1/2の12m+8m=約20mの距離を飛んでボールガールに当たった。

こうして見ると二つの出来事は、レフェリーの言った「同じ」状況にはない。男子最強プロのジョコと小柄な女子プロ加藤の体力差も、ボールへの感情移入の程度も、ボールの飛んだ距離も、そして何より被害者が方や分別ある成人女性の線審で、方や多感な思春期のボールガールであることも、極めて大きな相違点だ。

またジョコ事件の対戦相手は加藤の時の相手ペアの様ではなくて、ベンチで静かに事の成り行きを見守っていた。ナブラチロワが「審判に抗議した対戦相手ペアは恥ずべきだ」とし、「(失格は)ルールに対する馬鹿げた解釈」と述べたSNSが事の本質を突いていよう。

ということで、件のボールガールは初めボールに当たったことに驚いて泣き、「警告」宣告で収まったと思ったら今度は相手ペア、スーパーバイザー、レフェリーが次々現れて10数分間も競技が中断、そこまで事が大きくなってしまったことでパニックになり、また泣いたと見るべきだろう。

そう考えると、加藤が意地でつかんだ混合ダブルスでの優勝は、本人の名誉を回復しただけでなく、ボールを当ててしまった少女が、我執にとらわれた無責任な大人達によってこの先長く背負わされたかも知れぬ「重荷」を降ろしてやったという意味でも、非常に大きな意義を持つと感じられ、心底「ヤッター」と思う。

女子ダブルスは、クレームをつけた相手ペアが次の準々決勝で負けて、台湾のベテランと中国の若手が呉越同舟で組んだペアが優勝した。様々印象に残る全仏オープンだった。