賢者と愚者の批判の違い

黒坂岳央です。

本来、「批判」はされる側にとってはありがたいものである。自分は記事を書いたり、動画で意見を出している立場だがよく批判をもらうが、気づきを与えてもらえることもよくあるのでそうしたコメントをくれる人には「ありがとう」と感謝を伝えるようにしている。日本には言論の自由があり、批判は自由にしていい。

しかし、同じ批判でも価値のあるものと無益なものに分かれる。賢者は有益で建設的な批判をするが、愚者は無益でただ迷惑なだけの批判で自己満足に浸る。これまで色んな批判を頂いてきた立場から、両者の違いを取り上げたい。

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賢者による有益な批判

知的な人からの批判が有益な理由はシンプルだ。それは相手を高める意図に基づいて行うからである。

本来、批判はする側には何のメリットもない。自己肯定感を得たり、承認欲求を得るメリットはあってもビジネス的な利益はない。自分の時間を差し出して相手を利する行為が批判の本質だ。相手に新たな着想やアイデア、改善機会を提供するつもりで行われる批判は、身を削ってしてくれているものなので大変ありがたい存在だ。

自分はこれまで、数々の賢者からの批判で成長や改善を実現することができた。具体的にいえば、「あなたの話は視聴者不在の”一人説明会”のようでとてもつまらない。もっと対話を意識するべきでは?」というものだった。当時の自分にはグサリときたが、この指摘は大変ありがたいものですぐにメモに書き留めた。以降、人前で話したり、記事や動画では必ず見てくれる相手の心を意識するようにした。

この批判のおかげでそれ以降の話し方は間違いなく改善できたと思っている。これは自分一人ではなかなか気づきにくいものだったので本当にありがたいと感じた。

愚者による無益な批判

その逆に愚者による無益で誰の得にもならない批判を取り上げたい。その本質は、「自分を利するために相手を利用する批判」である。

どういうことか? たとえば自分より総合的に実力が劣る初心者を見つけて「あなたは間違ってる。引き換え、自分はこういう実力者なのだ」と相手のダメなところを貶め、代わりに自分の実力を周囲に見せつけるという類のものだ。これを建設的批判と同じカテゴリにおいてよいかは分からないが、やっている本人としては「言論の自由による批判だ。ありがたく受け取り給え」となぜか上から目線であることが多い。

このような批判の何が問題かというと、相手や一部始終を見ている周囲には何のメリットもない点である。ダメだと頭ごなしに言うだけでは言われる側も自信を失うし、周囲の印象も悪くなる。それでいて自分ひとりで自画自賛を披露するのでは、実は言っている本人も時間とエネルギーを使うだけで何の生産性もない。つまり、ただただムダにエネルギーと時間を消費して、言われる相手と周囲を疲弊させているという構図である。黙っていた方がまだいいだろう。

それに考えてみれば、誰しも最初は必ず初心者だったわけで、相手の実力が下だと嬉々として誇る態度は相当にチャイルディッシュに感じてしまう。加えて、相対的な評価で喜んでいる間は総合的な実力は低いと言わざるを得ない。なぜならどんな分野でも上には上がいるからであり、相対的評価なら自分より上の実力者ともフェアに比較して然るべきであろう。一生懸命、自分より下を探している姿に心理的余裕さは微塵も感じられず、人としての成熟度も高いとは言えないだろう。

つまり、愚者による無益な批判は何の生産性もないと言えよう。自分はこうならないように気をつけたいと意識している。また、無益な批判を受けて心を傷つけないよう、批判の属性を理解した上で咀嚼するように心がけている。

自分は批判するよりされる側にいたい。こっちの方が圧倒的にメリットが多いからだ。貴重な時間とエネルギーを使って自己満足な批判をし続けるのは一度しかない人生の使い方としてはもったいないなと感じてしまう。批判が好きな人は趣味で終わらせず、プロの批評家になればいい。やっていることは同じでも、プロなら少なくとも経済的メリットは享受できる。最も、それで周囲からリスペクトまで得られるかはまた別の話である。

 

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ビジネスジャーナリスト
シカゴの大学へ留学し会計学を学ぶ。大学卒業後、ブルームバーグLP、セブン&アイ、コカ・コーラボトラーズジャパン勤務を経て独立。フルーツギフトのビジネスに乗り出し、「高級フルーツギフト水菓子 肥後庵」を運営。経営者や医師などエグゼクティブの顧客にも利用されている。本業の傍ら、ビジネスジャーナリストとしても情報発信中。