「旅行と見紛う写真が炎上」
自民党女性局が実施したフランス研修で、松川るい自民党女性局長がSNSにあげた「エッフェル塔」訪問記念写真が問題視され、激しい非難が巻き起こった。
松川氏は1日、自民党本部で記者団に対し「SNS上の発信に不適切なものがあったと思っており、誤解を与えたことについて反省している。ご迷惑をかけてしまった皆様に申し訳ない」と陳謝しました。
そのうえで、党の小渕組織運動本部長から注意を受けたことを明らかにしました。
一方で「研修自体は有意義だった。フランスでの3歳からの幼児教育の義務教育化について経緯や成果を詳しく伺うことができ、政治における女性活躍について上院や下院の方と有意義な意見交換ができた」と説明しました。
(略)
国民 玉木代表「政治家としてのセンスの問題」
国民民主党の玉木代表は、記者会見で「政治家が研修などで国内外のいろいろなところに行くこと自体は意義があると思うが、説明責任をしっかり果たせるかどうかだ。エッフェル塔の前で写真を撮り、喜々としてアップするのは、政治家としてのセンスの問題で、そういうセンスを持った政治家がいいのか悪いのかは選挙で有権者に判断していただくことになる」と述べました。(NHK NEWS WEB)
「他人の不幸は蜜の味」
松川女性局長らが窮地に立たされている姿を見ることは、敵意を抱く他政党支持者や嫉妬を感じている一部の人々にとっては無上の愉悦であろう。彼らの脳内には快楽物質「ドーパミン」が溢れているのだろうか、SNSのエコーチェンバー内でより過激な言説を生産し消費し続けている。
非難の多くは行き過ぎた論難である。しかし少なくとも現時点で2点ほど傾聴に値する批判もある。具体的には「研修の内容」と「研修実態の情報公開の仕方」についてである。
それらを踏まえ今回の問題を俯瞰すると、日本が抱える2つの問題点が見えてくる。つまり「SNSから始まる極論に煽られ漂流する世論」と「根雪のように残り、現役世代を苦しめる社会の旧弊」である。炎上によってこれらが炙り出されたことは、今回の騒動の現時点における意義である。
当記事ではまず、現在(8月1日)までに観測された批判(非難)各論とそれに対する筆者の反論を整理する(①)。次に、真に傾聴に値する批判(問題点)を確認する(②)。最後に、今回の騒動でいくらか明瞭になった一段深い階層の問題点「漂流する世論」と「旧弊」を提示し(③)、それらに対する考えを述べてゆく。
① 批判各論(費用負担者・遊び・内容・情報発信と共感力)
8月1日までに筆者が観測できた批判・論難を、共通テーマごとに分類すると次の4種類となった。「費用は誰の負担か」「研修ではなく遊びだ」「意義の有無は内容次第」「共感を得られにくい情報発信のセンス」である。以下分類に沿って批判を具体的に列挙し、「⇒」記号で筆者の反論を示して行く。
「費用は誰の負担か(税金の無駄だ)」
- 「名目は研修だが実態は旅行だ。税金で賄うのは妥当でない。」
⇒ 費用は政党負担と参加者個人の負担とのことである。一旦交付された政党交付金は税金ではなく、その使途は党が決められる。その他収入と合わせ党の組織活動として有意義と考えるからこそ支出したのであり、使用目的は妥当である。
- 「自費と言っても議員の給与は税金だから海外旅行は不適切だ。」
⇒ 確かに公務員の給与は税金由来だが、労働や奉仕の対価として得た報酬をどのように使うかは各個人の自由である。ゆえに「不適切だ」という指摘こそ妥当ではない。
「この研修には意義がない(遊びだ)」
- 「大人数でいく意味がない」
⇒ 確かに大人数(38名)であり、一見すると「集団の慰安や観光目的の旅行」と区別がつかない。しかし自民党が「意義がある」と考えた研修であり、個々人ではなく組織として目的を持った集団研修の機会である。国内外を問わず集団による研修は知見の共通基盤を構成できる点で意味があり、人数の多寡で意義の有無を論じることは合理的ではない。内容で判断すべきである(ただし「意義がない」という主張を否定してはいない)。
- 海外研修ではなく観光旅行である。
⇒ 当然その要素もある。それは写真からも自明である。しかし、「当地を観光」することで知る社会的な知見には意義がある(ただし短時間でその知見をどこまで深められるかという懸念は妥当である)。
- 「国内の文献調査で十分知見が得られるからフランスに行く意味がない」
⇒ 一般論として現地を訪れて実態を目の当たりにすることには意義がある。さらに人的交流にもまた大きな意義があることは、オンライン会談が技術的に可能になった現在でもサミット等の国際会議が対面形式で開催されていることからも自明である。
- 「短期間(3泊4日)ではフランスの実態を把握できないだろう」
⇒ その判断は報告書が出た後に判断できるので、今推測する合理性は低い(ただし「この指摘が妥当」である可能性は十分残る)。
- 「夫婦別姓、事実婚、同性婚という制度のあるフランスから何を学ぶのか」
⇒ これこそ、今回のフランス研修の価値の一つであろう。報告書を待ちたい。
- 「子供帯同は仕事ではない。」
⇒「教育」「少子化対策」「働き方改革」という観点で子供帯同での業務執行には意義がある。結果が成功であれ失敗であれ、試みとして報告書を待ちたい。
研修の内容(意義の有無は内容次第だ)
- 「移民の問題行動や暴動で荒れているフランスなのに美しい所しか見ていない研修に意味はない。」
⇒ 与党の国会議員らによるフランス訪問であり、訪問地を称える「国誉め」は儀礼として意義はある。やらなくても済むが、現地の人々や日本に住むフランス人がどう受け止めるかを考慮すれば一定の意義がある。
- 「移民問題を伝えていない。暴動状況も伝えていない。」
⇒ これらの実態把握と報告は本研修の意義の有無に連動する。報告書を待ちたい。
- 「問題もあるフランスの少子化対策・義務教育低年齢化が参考になるのか。」
⇒ これらの実態把握と報告は本研修の中心的なテーマであり、研修意義の有無に連動する。報告書を待ちたい。
- 「国民への研修報告と費用の開示は義務だ。」
⇒ 報告義務は、自民党乃至自民党女性局という組織に対して存在するが、直接国民に報告する義務はない。それよりも、今回の研修の成果として、今後の政策への反映や交流した人材との今後の関係発展こそ研修の中核的な意義であろう。
活動の訴求方法とSNS(共感力の欠如が問題だ)
- 「共感を得られない観光写真をSNSに載せるセンスは疑問だ。」
⇒ この指摘は考慮する余地がある。今回の騒動から直接的に掬い上げるべき改善点である。これについては玉木代表(国民)や音喜多議員(維新)という発信力に秀でた国会議員諸氏も礼節のある形で諫言をしているので耳を傾けるべきだろう。
- 「承認欲求を満たしているだけだ。」
⇒ この部分は、少なくとも松川るい議員と今井絵理子議員は当たらないと考える。ただし否定もできない。いずれにしても内心は他者にはわからないので、本人が開示しない限りこの指摘が妥当かどうか第三者には判断不可能である。
② 真に傾聴に値する批判(問題点)
上記の各論点のうち、現時点で2点ほど傾聴に値する批判がある。具体的には「研修の内容」と「研修実態の公開の仕方」についてである。
「研修の内容」
- 「夫婦別姓、事実婚、同性婚という制度のあるフランスから何を学ぶのか。」
- 「子供帯同は仕事ではない。」
- 「移民問題を伝えていない。暴動状況も伝えていない。」
- 「問題もあるフランスの少子化対策・義務教育低年齢化が参考になるのか。」
⇒ これらこそ、今回の研修でフランスを訪問地に選んだ価値である。「教育」「少子化対策」「働き方改革」という観点から深耕された報告書を期待する。
「研修実態の公開の仕方」
- 「共感を得られない観光写真をSNSに載せるセンスは疑問だ。」
⇒この指摘は重要で、今回の騒動から直接的に掬い上げるべき改善点である。玉木代表(国民)や音喜多議員(維新)の活躍や優れた情報発信力に素直に学ぶべき点である。例えばエッフェル塔前での愉快な写真など、訪問地ならではの明るく楽しい景色を投稿することには正にも負にも意義がある。女性議員の増加を掲げる自民党としても議員という仕事の魅力を発信することの方向性は間違っていない。問題は、それを見た国民側の受け止め方を十分に想像できなかった点にある。
「議員は社会的地位も高く、高給であり、実生活は充実しているだろう」と考える国民は確実に多数存在する。その心の風景から見れば、議員の「明るく楽しそうな映像」によって「妬み」や「嫌悪感」の感情を抱くことも自然である。その点に思い至らなかった点は、今回の騒動から掬い上げるべきである。ただし、この点について松川議員は既に本件に学び、心に刻んでいることを筆者は個人的に確信している。
③ 漂流する世論と旧弊の呪縛(日本社会の課題)
ここからは今回の騒動を通じて、筆者が感じた日本社会が抱える課題を指摘して行く。
今回の騒動が炙り出した新種のバケモノ
ツイッター上で繰り拡げられた一連の非難を観察していると、「嫉妬」や「公僕いじめ」といった、ネガティブな感情に基づく「集団リンチ」が形成されている。そのエコーチェンバーの中では「根拠薄弱な断定」や「過度の飛躍」など、議論としては偽となる言説が飛び交う。
また、SNSが登場する前には新聞やテレビ等のマスメディアが独占していた世論の議題設定権は、今ではSNSも共有する。実際に今回はSNSが発火点となり、ネットニュース経由で地上波テレビが扱うまでに情報伝達の波動が盛り上がった。そのタイムラグはわずか2日ほどであった。
今や社会は、SNSが未発達だった時代には存在しなかった「危うさ」を抱えることになった。「自然発生する言論の暴力発生装置」というバケモノである。かつてより一層速く広範囲に伝播し、ひとたび固有の人物や組織が攻撃対象となれば猛烈な言葉の剣が降り注ぐ。
女性活躍を阻む因習
日本にはいまだに女性を縛る因習が存在する。
政治に対する女性の参加について明治維新以降を振り返れば、1920年頃にその淵源を見ることができる。平塚らいてうと市川房枝らによって設立された新婦人協会は参政権の要求など女性の地位を高める運動を始めた。1922年には治安警察法第5条が改正され、政治演説会に女性も参加可能になった。しかし参政権を得るにはさらに20年以上の時間と日本の敗戦を必要としたが、1945年に成人男女に選挙権が与えられ、1946年には戦後初の総選挙で39名の女性議員が誕生した。
現在にもどる。
自民党女性局長は、女性議員数を拡大する任務も帯びている。その女性局長が引率した今回の研修参加者は、現代政治において「女性活躍」を担う人材である。
特に女性議員はプレイヤーとしてもその象徴的存在である。そのため自らが輝くことには意義があるが、自己プロデュースの方法を間違えると、今回のようにミソジニー的なリアクションや旧来の価値観(女性観・教育論・子育て観)に基づく非難の言葉が大量にかけられる(もちろん他の原因もあるが)。
特に一部の誹謗中傷や侮辱、脅迫的な言論に至っては言論の暴力である。限度を超えた言論は不法行為であり決して許されない。社会が未だこのようなステージに留まっていることは残念である。
結局100年という短期間では文化に根差す因習は劇的には変えられず、これからも数百年単位の長さで、その啓開活動を継続する必要があるだろう。
むすび
コミュニケーション技術の発展に伴い、これからも情報発信手法は進化し続ける。一方、生物としての人間の進化は技術に比べ極めて遅く、社会もまた生物的な能力の性質に縛られており、その質的進化速度はゆっくりである。そのため、技術と社会のギャップは常に存在し、社会の側が適応すべき問題は発生しつづける。
政治家が情報発信する際に求められる最適な手法は不断の更新が必要である。一方で情報を受け止める我々国民の側もまた、情報“受容体”の恒常的な更新努力が求められることを忘れてはならない。
つまり選挙や言論の自由という民主主義の根幹を支える仕組みも、技術と社会の変化に伴う見直しが必要ではないだろうか。