ライドシェア論争を横目に夢想する「ちょっと荒唐無稽な行政改革」の話

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1. タクシーが捕まらない!

タクシーが捕まらない。

約14年勤務した経産省を辞めて青山社中を立ち上げてから、この11月15日で丸13年となるが、仕事の仕方として大きく変わったのは、日中にタクシーに乗る頻度だ。前職では、深夜帰りの際に乗るくらいだったタクシーを、日中に本当に良く使うようになった。起業時の苦労と共に思い出されるのは、タクシーに本当に良く乗ったという記憶と、レシートをもらい忘れないようにするという脊髄反射にも似た感じで体に染みついた習慣だ。

今でも、タクシーを見たり乗ったりすると、「自分は公務員から民間人になったんだなぁ」という実感がわく。私ほどタクシーにノスタルジーを感じる人も珍しいかもしれない。

起業して間もない頃から、仕事や所用で永田町や霞が関に向かう際は、弊社オフィスのある小さな通りにも頻繁に通る空車のタクシーを使い続けてきたし、仮にうまく捕まらない時も、1~2分ほど歩いて幹線の国道246号線に出れば、それこそ造作なくタクシーを捕まえることができた。仕事をギリギリこなしながら、間に合うように政治家の先生や官僚のところに駆けつけるには、大体何分前にオフィスを出れば良いか読むことが出来た。

それが今はどうであろう。オフィス前の小さな通りに空車が通るケースは激減し、国道246号線に出ても空車が一向に現れず、しびれを切らして、そこから少し歩いて外苑前駅のタクシースタンドに立っても、なかなか捕まらないことが多くなってきた。

要因としては、初乗り500円のチョイ乗りの普及やコロナ後の需要回復などでタクシー需要が激増したこともあるであろう。しかし、データ的には、運転手の減少こそが拍車をかけていることは間違いない。いずれにしてもタクシーが足りないのは確かだ。

私は仕事柄、地域に出張に出ることも少なくない。そして、それこそ10年前などは、どこの田舎に行っても、タクシーを捕まえることは容易であった。さほど乗降客が多いとは思えない駅前に、「この人たちは、一人の客を捕まえるためにいったいどれだけの時間待ち続けるのであろうか」と心配になるくらいにタクシーの行列があることも少なくなかったし、仮にタクシーが不在であっても、地元のタクシー会社に電話をすれば、ほぼ瞬時に配車をしてくれていた。飲んで、最終の新幹線に乗るためには、ちょっと前に電話を入れれば、問題なくタクシーがほどなく現れていた。

それが今は、最終の新幹線に乗れないかもしれない、という恐怖により、早めにタクシーの確保をする自分がいる。配車を頼んでも「今、出払っていて捕まらないんですよね」などと言われ、続けて「早くて30分後でしょうか」とか、下手をすると「いつ来るか分からない」と言われてしまうことすらある。

報道を見ると、京都や軽井沢などの観光地で、観光客や別荘民がタクシーを捕まえられずに難儀している様子などが良く映し出されている。集落に住む高齢者がデマンドタクシーを捕まえられずに困っているケースなども報道されている。本来の足であるはずのバスなども、運転手不足で、地域のみならず、都会に近いところでも減便の嵐だ。高齢化が進むにつれ、免許返納なども増え、足は益々必要なのに、タクシーは増えない。非常に困った事態になっている。

日本全体を覆う人口減少が、もちろん、運転手不足の大きな構造的要因だが、コロナショックが、タクシー不足に大きく拍車をかけたことは間違いない。2019年に約29万人いたと言われていたタクシー運転手は、2023年現在、約23万人にまで減っている。約20%ものかなりの減少であり、この間の人口減少だけでは説明のつかない数字だ。

タクシーやバスの運転手に限った話ではないが、地域の経済は、本当にギリギリの給料で産業の下支えをしてくれていた現在の高齢者というボリューム層(人口の多い年齢層)のお蔭で回ってきている。

ギリギリ、生活する上で赤字にならないようなレベルで、工場(こうば)の下請けや介護・看護、飲食店の従業員、バスやタクシーの運転手などとして、多くの人が地域経済を支えてくれていた。それが、コロナによる需要の消滅で、仕事を辞めることとなり、その後戻ってきていない。戻ろうにも、体力その他、条件が許さないところがある。

こうした労働力供給不足に対し、紙幅の関係で詳述は避けるが、外国人労働者の受け入れ増やこれから期待される自然増(出生数の増加)などで補うことは現実的ではない。普通に考えれば、あらゆる形で労働供給を増やさないと、地域も含め、日本経済が回らなくなるのは明らかである。

2. 世界ではライドシェアが一般的

タクシー不足における労働供給という意味では、もっとも手っ取り早いのは、既に色々と移動しつつ「空気を運んでいる人たち」、すなわち、運転席で一人運転をし、残りの3~4座席(あるいはもっと?)の空気を運んでいるドライバーの活用である。或いは、一歩進めて、そうした予備軍、つまりは時間や車を持て余しているドライバーたちの活用である。別の角度から言えば、まさに相乗り、ライドシェアの活用が最も手っ取り早い。

実際、世界ではライドシェアが一般化している。筆者も仕事柄、特にコロナ前は海外に行くことが少なくなかったが、アメリカに行けばUber、ベトナムに行けばGrab、中国に行けばDiDiというように、劇的にライドシェアが普及していて、とても便利で助かった。

ベトナムなどは、10年前に行くと、それこそすぐにインチキをしようとするタクシー・ドライバーと喧嘩しつつ、目的地に何とかたどり着くというのが常であったが、しばらくすると殆どのタクシーにカーナビが標準装備されだし、3~4年前に行った際などは、Grabで安心・安全、明朗決済で快適に目的地にたどり着くことが出来た。

場所によってメジャーなアプリ・手段は異なるが、世界では、普通の人が普通に他者を乗せて代金を受け取るということが一般化している。

3. 何故か日本ではライドシェアが使えない!(どうして?)

では、なぜ日本では、UberもGrabもDiDiも使えないのか。もちろん、外国のサービスである必要はない、というか国産のライドシェア・アプリサービスの方が、日本人にとっては望ましいかもしれないが、それもない。

あるのは、Goなどが代表的だが、いわゆるタクシーアプリだけ。運転できるのはタクシーの運転手(二種免許の保有者)だけなので、残念ながら不足する供給力の補充には力不足で、「タクシーが捕まらない」という状況を克服できていない。

なぜ日本ではライドシェアが出来ないのか。普及しないのか。当たり前だが、反対する人が多いからだ。厳密に言えば、反対している人が強い、というべきかもしれない。

いずれにせよ、主には「安全が担保されない」という理由が最大の表向きの理由で、恐らくはその実、供給過多による価格破壊がタクシー業界にとって脅威であるがゆえに、ライドシェアは未だに本格的には解禁されていない(ちなみに、公共交通空白地や福祉目的でのライドシェア(有償運送)は認められているが、全く一般的ではない)。

旧運輸省の職員やタクシー会社の方など、現場を知る方であればあるほど、如何に日本のタクシー会社が、事故を起こさないようにするために、運転手のアルコールのチェック、車の安全点検、万一に備えての保険加入その他、コストをかけているかを知悉している。運転手も、二種免許はもちろん、地理のテストなど、普通のドライバーに加えての努力をしてその地位を得ている。

そうしたタクシー会社や運転手の努力の上に成り立っている「安心の供給」(確かな運転手や確かな車両の供給)を考えれば考えるほど、つまりは現在の供給者の実情に通じている人であればあるほど、単なる普通免許を持っているだけの人が、様々な手入れをしているかどうかわからない車で、人様を乗せていることが我慢ならないのも理解できる。

そして、世の中にいい加減な運転手といい加減な車があふれて、結果、真面目に頑張っている人たちの水準を維持するための価格が崩壊し、供給過多となる事態を恐れているのだ。今は、極端な需要不足だし、良いのかもしれない。「でも、将来はどうなるんだ!」「また、コロナが来たら共倒れではないか」と恐れる気持ちも分かる。

しかし、そもそも自動運転の時代がすぐそこまで来ているし、コロナ等の特別のショック時は別として、上記のとおり、構造的に各地でタクシー運転手が不足し、その供給回復の目途は立っていない。そのことによって、今、目の前で困っている多数の人がいるという現実、世界でライドシェアが広がっている現実を前に、日本だけ頑なにそのライドシェア解禁への扉を閉ざし続けて行くことは難しいと思う。

4. 役人的・折衷的・短期的な「解決策」(価格を維持)

ではどうすれば良いのか。私が単純に思うのは、価格を規制で維持しつつ、現下の極端な供給不足を補うべく、一般ドライバーによるライドシェアを解禁するのが現実的なのではないかということだ。

上記のとおり、現在のタクシー会社や国土交通省が本質的に恐れているのは、価格の崩壊による安全なタクシーサービス供給網の崩壊である。価格は規制で維持しつつ、一般ドライバーによる供給がはじまれば、自ずと需要者は、安心安全のサービスのタクシー利用を優先し、それが捕まらない場合に一般ドライバーによるライドシェアサービス利用をするという順番で活用を進めるであろう。

一般的には、「質はイマイチだが価格は安い製品・サービス」 vs. 「質は良いが価格が高い製品・サービス」という比較で利用者は悩むのであり、価格が同じであれば、需要はまず、質が良い方に向かうのが当然だ。価格崩壊を防ぎつつ、供給不足を補うのが現在打つべき手であろう。この落としどころに、どう関係者を向かわせるのかが、政治家や役人の腕の見せ所である。

数量規制と価格規制の二軸で考えた場合に、まず、数量規制を解禁し、価格は維持する、というのが別の角度から見た場合のこの案の姿である。供給不足の現状に即した案だ。

5. 抜本的・包括的・長期的な「解決策」(大規制庁 vs. 大推進庁)

しかし、タクシー業界から見れば、上記のような短期的な解決策(価格維持をしつつ、一般ドライバーによるライドシェアを解禁して、供給だけを増やす策)は、長期的に見れば、不安であると言える。

いずれは、供給車両数が増えすぎて需要を上回るかもしれず、そんな中、更には、いつ何時コロナのような事態で需要が雲散霧消してしまうかもしれず、そうなれば、いくら需要は質のいいサービスの利用から進むとはいえ、路頭に迷わざるを得ない可能性が高まる。価格維持によるライドシェア向けの一般ドライバー増加策は、現下の仕組みを維持する観点からは、アリの一穴とも言える。

まさに、こうした「完全無欠の現状維持」的発想から停滞してしまっているのがこの国の現状であり、大げさでなく、医療、農業、教育など、わが国の規制改革が進まない最大の根幹が、上に活写したライドシェアを巡る争いの構造に他ならない。

ライドシェアに関わらず、医療、農業、教育など、様々な分野で現状維持の規制のために、日本が世界に遅れを取ってしまうのは当然の帰結とも言える。個別に良かれと思って維持している“現状”の塊が、全体として、日本を遅れた社会にしてしまっているわけで、ある意味で「合成の誤謬」の典型でもある。

これまでも、こうした規制を突破すべく、特区制度や、規制改革会議の仕組み等々、政府でも様々な努力がなされてきた。しかし、多勢に無勢なのだ。新たな産業やサービス推進派が、規制を撤廃する要望を出しても、それを受け止める改革の司令塔(内閣府の規制改革会議の事務局や、各種の特区の事務局。人員的に限りがある。しかも、各省からの出向者)が、個別に各省と交渉に入ると、それぞれに現在の規制が出来上がっている理由や経緯があるがために、議論がまとまらず、膠着状態に陥る。

そして、まさに、とげを一本一本抜くかのような作業で規制を緩和・撤廃しようとするのだが、一般論として、その歩みは遅々としていて進まない。下手をするととげの一本も抜けない。

つまり、各省や既に出来上がっている各業界の重厚な岩盤(多数の企業や多数の関係者)を前にして、改革派すなわち、内閣府の司令塔部局の人員も要望を新たに出している新興企業などの関係者たちも、圧倒的にその数や議論の積み重ね(訓練度合い)で劣っている。これでは、改革は進まない。

この状況を打破するため、ちょっと荒唐無稽なことを書いてみることとする。現在の霞が関の各省(農水省、厚労省、経産省(規制関連部局)、国交省等々)をいっそのこと「規制庁」と括ってしまい、その下に、農水担当、厚労担当などと部局をおき、一方で、それに対抗する形で、包括的な「推進庁」をおいて、その下にも、農水担当、厚労担当などをおいてみたらどうであろうか。つまり、同じような人員の数で、「規制庁の○○担当」 vs. 「推進庁の○○担当」という形で勝負を進めるわけである。

結局は、その裏にいる業界の厚さや関係する政治家等の数や実力がモノを言う世界なので、最初は勝負にならないかもしれないが、まずはそこから始めるしかないのではないか。

いきなり推進側の政治家の数や業者の数を激増させるのは一般的には困難なので、最初は橋頭保としての「推進庁」を強大化させ、そこを足掛かりに、関係業界や推進派の政治家を増やして行くのが、せめてもの手段だと思うが、どうであろうか。

ライドシェア解禁の議論を前にして、ちょっとそんなことを夢想してみた。