10月末に、今年のノーベル経済学賞になったクラウディア・ゴールディン氏の「男女の賃金格差の研究」を日本に当てはめるにはどうしたらいいか?という記事を書いたんですが、その後その記事に関連して、2021年1月に日本のネット論壇的なもので、「反”フェミニズム”論客」と「シカゴ大学社会学教授」との熱いバトルがX(当時はツイッター)で行われていたという話を聞きました↓。
これ、論戦相手の名前は「女子大生起業家」とか書いてあるけど多分女子大生ではなくて(笑)、今はthe X-manという別の名前になっている匿名アカウント(昔”ショーンKY”という名前だったはず)と、シカゴ大学の本物の(っていうのも変だが)社会学教授の山口一男氏との論戦なんですが。。。
ふざけたハンドルネームの匿名アカウント(しかも”いわゆる典型的なフェミニズム論調”には批判的)と、「シカゴ大学の社会学教授」の論戦と聞くと、そもそも読む気なくなる人も結構いるかと思いますが、これがなかなか、この問題に関する重要な論点を数々指摘していて、非常に考えさせられる論戦になっていました。
前半は受け入れられる人は限られるタイプの議論をしていますが、後半は色々な「欧米におけるフェミニズムの重要文献」なども的確に参照したかなり考えさせられるポイントが多数ある記事なので、ぜひ「フェミニズム寄り」の人も一度我慢して最後まで読んでみるといい論戦だと思いました。
本質レベルの話をすると、”ショーンKY”氏の意見は、山口一男氏のような「典型的なアメリカのリベラルの理想」を非欧米社会において実践していくにあたっての”注意ポイント”を指摘しているところがあって、本当は別に「敵同士」という感じでもないはずなんですね。
別に全否定合戦をし続ける必要はなく、「なるほど、そういう懸念点はありますね。じゃあ日本の場合こうしていけばどうですか」っていう双方向のやり取りが進むようにしていきさえすればいい。私はこういう発想を「メタ正義感覚」と呼んでいます。
一方で問題なのは、「ショーンKY氏」(というよりそれを持ち上げる反フェミニズム傾向)だけしか存在しないと、日本においてはもう女性活躍とかやめちゃおうぜ、みたいな話になりかねないところがある。
そこまで行ってしまうと、人口減少時代の経済合理性みたいな話でも大問題ですし、本来社会で活躍したかった女性を抑圧しているという「そもそも論」的にも望ましくありません。
それは困るからと、山口一男氏型の「ある種の典型的なリベラル層」は「いつも同じ話」を延々とする結果になり、だんだん相互憎悪が募ってお互いに協力して現実社会を変えていく動きが余計に阻害されてしまう。
でもね、今の時代、日本における経団連的な団体というか、「経営者層」みたいなレベルの人たちですら、何らかの形で女性幹部を増やそうといろいろ頑張ってる状態まで来ているわけですよね。
「ダメな営業マンあるある」みたいな話として、相手が既に買う気になってるのに、さっさと具体的な手続きの話に進まずに延々と「この商品を買うメリット」を大演説し続けて相手の買う気を失わせる・・・みたいな話がありますけど。
「相手がその気になってる」段階まで来たならできるだけ「具体的なミスマッチ」の解消に進むべきで、そこで細かい事情のすり合わせを行っていく事から逃げて大上段のお説教で感情的対立を煽りまくるのとかが徐々に機能しなくなってきている現実があるなと思います。
以下は私の本で使った図ですが、社会に「そこに問題があると認知されるまでのフェーズ」と、「認知されてから解決に向かうフェーズ」では必要な態度が違うんですね。
「問題が認識される」までは、細かいことはとりあえずおいて「間違っている!」という事自体を非妥協的に主張し続ける勢力が必要なんですよ。(上図でいう”滑走路段階”)
でもいざ「問題が認識される」ところまで来たなら、両側の事情を持ち寄ってその課題を具体的に解きほぐし、色々なミスマッチを解消して解決に向かわないといけない。(上図でいう”飛行段階”)
既に「飛行段階」に達しているのに、延々と「単純化した敵側全否定のナルシシズム」に酔ってる勢力しか「改革派」の内側にはいません・・・という状況が続くと、だんだんその「改革」自体に対する大衆的賛同意識ごと崩壊してしまう危機に陥る。
さっきも言ったとおり、今や経団連的な「経営者層の集まり」みたいなレベルのほぼ共通した意志として、社会で活躍している女性を増やそうという合意ができているところまで来ているわけですよね。
そしたら今必要なのは、「日本で働いている女性」と「日本の企業や社会」の間にどういうミスマッチがあって、それぞれどういう事情があって、どうすればそれを解決できるのか?についての具体的な積み上げです。
そういう「具体的な積み上げ」をやっていくには、ジェンダーギャップ指数みたいな何もかも丸めて一緒くたにしてしまっていて数々のアンフェアさが指摘されている数字の比較ではなく、もっと解像度を上げて具体的な細部の問題を根気よく潰していくムーブメントを丁寧に行っていく必要がある。
「典型的なアメリカ型のリベラルの発想の単なる直輸入型のゴリ押し」
vs.
「”現実主義”の皮をかぶった単なる女性差別」
…みたいなしょうもない争い事を放置していて社会が良くなるはずがない。
言ってみれば日本社会に対してフェミニズム的運動側が、「あと一歩リーンイン」して関わっていくべき課題がここにある。
というわけで、そういう時に、
・山口一男氏型の「典型的なアメリカのリベラルの直輸入の議論」のどこに日本社会との齟齬があるのか?をショーンKY氏の議論を参照しながら考察する。
・次に、「滑走路段階を超えて飛行段階に入った」課題を、さらに日本社会の中で具体的に解決に持っていくにはどういう議論が必要なのか?について提案を行う
…のがこの記事の狙いです。
1. 「アメリカでできてるんだからできる」は注意が必要
「典型的アメリカのリベラル」の間違いは、上記のツイッター論戦でも山口一男氏は何度も主張していますが「アメリカでできてるんだからできて当然」という論法なんですよね。
これは、「とりあえず問題が周知されるまで(滑走路段階)」では必要な時もある態度ですけど、いざ日本社会の大勢がその気になっていて「具体的なミスマッチの解決をたくさん積み上げる」ことが必要になっている段階(飛行段階)においては百害あって一利なしってレベルで有害なんですよ。
理由は2つあって、
A・アメリカが完全に捨ててかかってる短所(社会の末端が崩壊状態なこと)まで日本が真似する事になっていいのか?という部分
…というパターンと、
B・そもそもアメリカ自身が言ってることとやってることが全然違う(笑)という部分
なんですね。
2. 「アメリカが捨ててかかっている部分」との表裏一体での判断が必要
「アメリカのリベラル」が言っていることを非欧米社会で実現していくにあたって一番注意しないといけないのが、アメリカっていうのは「ある面は世界最高、ある面はかなり最悪」な国だってことなんですよね。
そしてその部分は明らかに表裏一体になっていて、
「アメリカの悪い部分みたいにならないようにするその社会の必死の抵抗運動」
が、
「アメリカのリベラルから見ると許されざる後進性」
に、
”見える”…
↑こういう現象ってかなりたくさんあるんですよね。
現代人類社会における「アメリカの影響力」ってやはり凄いので、放っておくとあらゆる社会が「アメリカ化」していく中で、そういう「アメリカ型の理想を語る」というのはそれ自体非常に「権力性」があるんですよね。
だからこそ、まさにポリコレ用語でいう「権力勾配がある時にトーンポリシングするな」っていう話で、「アメリカのリベラルの理想を押し込む」にあたって、「非欧米社会側が抱えている事情」について、単に反発の「言い方」を否定しないで「内容」をリベラル側が迎えに行く必要が出てくる。
例えば、日本の私立医学部入試で男女差別があった、みたいな話があった時に、もちろん「改善していきましょうね」っていう合意が今の時代は当然取られるわけですけど・・・
その時に、それが単に「日本社会が女を虐げたいからそうしてるんだろう」みたいな発想でいる限り、「この問題の本質」には決してたどり着けないじゃないですか。
昔、「女性医師も厳しい労働環境の診療科で頑張って働かないと、今後女性医師が増えたら医療崩壊してしまう。それはわかってるから頑張ろうと思ってたけど、私だって結婚したいし子供もほしい。だから申し訳ないけど私はラクな診療科に行って今の彼氏と結婚します」みたいな記事が出ていて凄い印象的だったんですよね。
で、もちろん、そもそもそういう「男性医師の過剰なハードワークなしにも医療制度が成り立つようにすることで、女性差別をしなくても済むようにしていくべきですよね」という方向に持っていくべきだし、ノーベル経済学賞のゴールディン氏の示唆もそういう方向ですよね。
でもそういう時に、「アメリカでできてるんだから日本でできてないのは日本の男が差別的だからだ」みたいな話をしていたら、本当にその解決にむかえるわけがないじゃないですか。
じゃあアメリカみたいに貧乏人はマトモな医療が受けられない社会になってもいいんですか?ってことになるでしょう?
そりゃそれ試験受けてる18歳とかの女の子にそこまで考えろって話じゃなくて、実際に大学教授だったり社会運動家だったりで世の中がある程度見えているフェミニズム活動家は、ここで「あと一歩リーンイン」するべき、しないといけない領域があるんですよ。
「なるほど、じゃあ女性差別しなくても良くなる医療制度改革をしなくてはいけないですね」
…ていう方向にちゃんと旗を振ってくれないと、「アメリカでできてるんだからできないのは差別主義だ」みたいな話しかしてないと、「あのアメリカの医療と一緒にするなよ」って話になる。
そうすると結局、
貧乏人でも地方でも一定以上のクオリティの医療を受けられる権利
vs.
一部の恵まれた女性の女性医師がキャリアを追求できる権利
…の「あれかこれかどっちかを選べ」っていう構造になってしまう。
「アメリカのリベラル」が紋切り型の「お前たちは間違ってる、遅れてる」をやると、社会のあちこちでこういう「本来必要なかった対立構図」を生み出してしまう。
「アメリカのリベラル」の立場に立っている人は、「アメリカでできてるんだからできないのは差別」って言ってる時に、実は、
貧乏人でもマトモな医療を受けられる権利 vs. 私立医大に進学できる恵まれた女性のキャリアのどちらを取るか?みたいな二者択一を迫ってしまっているのだ
↑こういう自覚が必要な時代になっているんですよ。
そりゃ抵抗されますよね?で、多少口汚い批判というか悪口雑言も飛んでくるでしょう。
でもそれは、「覇権国家アメリカの流行」という錦の御旗が持つ権力性の圧倒的なパワーを考えると、ポリコレ用語でいうところの「権力勾配がある時にトーンポリシングするな」の精神で、「その反発の出処」を考える責任があるわけです。
そしたら、
「医療制度をどうすれば、女性医師の働きやすさにちゃんと配慮しながら、日本人が満足できるクオリティの医療を万人に向けて受け入れ可能なコストで実現できるのか?」
こういう根本課題↑に議論を集中させていくことまでリードするのが、「アメリカのリベラル」の本当の責任だってことがわかってきますね?
ミクロに見た時の「医学部試験の女性差別」は解消しましょう…というのは全然妥協しなくていいけど、その先の「方法」を考える時に、ちゃんと「マクロの問題」については真剣に実務家さんたちに働きかけて共同戦線を作るようにしていかないと、結局ミクロな部分の怒りも抑圧せざるを得なくなってしまうんですよね。
そうしないで「ジェンダー村」の内側だけに籠もって「差別主義者どもが全ての元凶だ」っていう怨念を純粋培養するだけの集団の事が、社会の広い範囲から賛同されるなどということはありえないわけです。
この「医療制度」の例は一例ですけど、「アメリカのリベラルが描く理想」っていうのは常に、「とにかく理屈どおりをゴリ押しして、その結果アメリカ社会の末端が崩壊状態になってもOK」という矛盾が内包されていることに注意が必要なんですね。
だから、ただ「リベラルの理想を押し込む」だけだと反対が巻き起こって押し合いへし合いになって当然なんですよ。(アメリカ国内でだって4年に一回大問題になってるし、今の人類社会の半分以上からそもそもそういう理想ごと全拒否にされかねない状況になっているじゃないですか)
でも、ちゃんと責任持って「私立大学医学部の差別問題を解消するために、”医療制度改革”まで踏み込む」姿勢をデフォルトにしていけば、そもそもこういうしょうもない二項対立を超えていく可能性が生まれるでしょう。
3. アメリカも「言ってること」と「やってること」が全然違うという話
Bの「アメリカが言ってることとやってることが全然違う」という話は、「アメリカのリベラルが主張していること」を「アメリカ社会が実際にやってない」可能性がかなりあるってことなんですね。
例えば以下記事で紹介した、ノーベル経済学賞のゴールディン氏の研究で重要な「グリーディジョブ」という概念についてもそうなんですが…
「グリーディジョブ」というのは、既に「同じ大学を出て同じ仕事を得て同じ時間働いている」男女に対して賃金差別などほとんどなく、一部の高給な仕事にありがちな24時間捧げ尽くさないといけないようなタイプの仕事(これがグリーディジョブ)に対して、出産後の女性が参加しなくなることが統計的に見た賃金の男女差の大きな原因になっているという分析から来る概念ですね。
で、「アメリカのリベラル」が、例えばゴールディン氏が言うように「グリーディジョブはやめましょう」みたいな話になったとしても、アメリカ自身がそれを「掛け声だけで実際には取り入れない」可能性はかなりあるんですよね。
アメリカっていうのは多様な国なので、「グリーディージョブはやめましょう」っていう話になったからといって、その競争力の源泉となっているようなベンチャー企業や多国籍企業のエリートは相変わらず馬車馬のように働き続ける可能性が高い。
また、この記事でも紹介したように既に日本の労働時間はOECD諸国に比べてかなり少ないレベルまで「働き方改革」は進んでいて、最近の日本を知らない海外在住の人とかはそのあたりの実情を理解できていない可能性があるなと思います。
アメリカや韓国や中国のほうがよほど長時間働いている現実がある中で、「日本の経営者ってバカだから自分たちは長時間労働させられているんだ」みたいな話ばかりをずっと続けられない状況になってきている。
今後、「グリーディジョブの非グリーディ化が必要」というのがジェンダー界隈の流行になっても、アメリカの場合「自分たちの競争力の源泉」である一部のベンチャーや多国籍企業のエリート役員だけは例外にし続ける可能性が高い。
一方で問題は日本の場合、「強みの源泉」といえるものが概してエリート主義的な欧米に比べて広い範囲の「中間的な働き手」に支えられている部分が大きいことなんですよね。
例えばショーンKY氏の議論にも良く出てくる、
「欧米の”ガチのエリート女性”はかなりの割合で”主夫”をパートナーにしている」
…という話がある。
欧米でも、企業管理職や政治家の女性は、特に仕事の事情で住む場所を選べないタイプの仕事については男性の側が「サポート」に回る例が多いらしい。
世界中で商売している大企業の幹部だけど転勤はできませんとか、政治家なのに東京と選挙区を往復したくないとか、そういうわけにもいかないですよね。
だから、「欧米でも実態はそうなってない」話を、「アメリカのリベラルの紋切り型」的に「日本でできないのは差別主義だからだ」っていう話をしていても決して解決できない。
ただこの問題をさらにややこしくしているのは、さっきも書いたけど欧米は日本よりエリート主義的な社会で、”こういう扱い”になる人数は凄く少数である可能性が高い事なんですよね。
ほんの一握りのエリート女性の場合のみ、主夫をパートナーにすればいいし、何ならそういう欧米の超一人握りのエリートは日本ではありえないほど高収入な事も多いからバンバン家事をカネで解決すればいいという話になる。
日本は広い範囲の中流的存在が”幹部になりえる…かも?”ぐらいの構造になっているので、この問題に関わる人数が社会の中で増える。ここで女性活躍を理由として”もっとエリート主義的な社会”になってしまうのでいいのか?的な問題とセットにして真剣にどうすべきか考える必要は出てくる。
ゴールディン氏の言うように「グリーディジョブの非グリーディ化」できる仕事は「非グリーディ化」していけばいいけど、できない仕事も当然残るし、欧米でもトップ層の女性は馬車馬のように働き続けるし、日本企業は「ソレ」とガチンコで競争し続けないといけない。
その構造の中で、女性にも「幹部」になる道を開いていくには、「アメリカでできてるんだから日本でできないのは差別主義者のオッサンが差別しているからだ」じゃなくて、「そこにある具体的な問題自体を解きほぐして解決する方法」を考える必要がある。
「非グリーディ化」できる仕事はすればいいけど、できないタイプの仕事においては、「その仕事を女性もできる方法」について個別具体的な特有の解決策を探していく必要が生まれる。
要するにショーンKY氏型の議論は、「アメリカのリベラルの単一的な世界観のゴリ押し」が現実と乖離している部分について、「そう簡単にはいかないんですよ」と教えてくれている役割だと考えるべきなんですよ。
・「欧米でもエリート女性は主夫をパートナーにしがち」
・「北欧における女性の社会進出は、”性差”によって進出する職業がかなり違う形で達成されているがそれでいいのか?」
…といった指摘は、「反論」というより、「実行上の個別の問題点の指摘」であって、
「この差別主義者め!」と排除するんじゃなくて、その問題意識をちゃんと引き受けた上で「確かにそこの問題を超えるための個別具体的な対策を打っていかないといけないですね」という形に持っていくことが必要。
ただ、ネットでは「仁義なき永久戦争」だけが起きている感じではありますが、そういう「特有のミスマッチを具体的に解決する事が必要」というムード自体は日本においても徐々に出てきているはずではあるんですね。
以下記事に書いたように、「外資出身だったり特定の専門職だったりの女性」ではなく、「男性と同じように日本の大企業に新卒で入って役員に出世する女性」の世代が出てきた事で、やっと日本の場合においてちゃんと「女性が幹部に残る道」を具体的に考えられる時代になってきている。
上記記事のように、「ある程度グリーディジョブ化は免れ得ないタイプの仕事」においても、「具体的に存在する日本の会社」と「具体的にそこで働いている日本の女性」との間に適切な協力関係を作っていけば、また別の解決策も見えてくるはず。
「大上段の差別問題」ではなくて、「日本の会社で働く女性の事情」と「その会社の事情」をちゃんと突き合わせて、具体的なミスマッチを解消していくプロセスをエンパワーしていくべき時期に来ているということですね。
4. 社会の末端が「アメリカ的崩壊」状態にならないためには、デリケートな合意形成が必要
ゴールディン氏の研究における薬剤師の事例のような、仕事の標準化による「グリーディジョブの非グリーディジョブ化」は、今後日本でも当然進むはずですし、それをもっと後押ししていかないといけないのは当然の現象としてある。
ただ、そういうプロセスってものすごくデリケートなものなんですよね。
ゴールディン氏も、薬剤師業界が資本主義的なメカニズムで強烈に統制されていって、「小規模の自営薬局」みたいな業態が消滅していることについてかすかに懸念を持っているような口ぶりになってましたけど、そこにある「デリケートな問題」を丁寧に紐解きながらじゃないとこういう流れは進めていけない。
ましてや「お前たちは遅れてる!」って延々罵倒しているだけだと反発が募って余計に紛糾するんで、以下記事に書いたような、今日本の中小企業界隈で起きている「静かな変化」と結びついて丁寧に後押ししていく事が必要になるでしょう。
さらに、「欧米では一握りのエリートだけで済む」ような、「特定の会社に深く関わって幹部になっていくようなキャリアパス」に関しては、日本の場合は特有の「女性の両立問題」を考えていく必要はありそうで、それはさっきも書いたこの記事で書いたとおりです。
あと、これは過去に何度か書いてるんですが、「メーカーに就職したけど工場勤務は嫌な女性」とか、ちょっとさすがにナメてんのかって話になるんで、そういう部分で具体的なミスマッチを解消していく方法はちゃんと考える必要があると思います。
そのあたりは以下の記事で書いたんですが…
とりあえず「いわゆる港区女子」的に人生がキラキラしてないと絶対嫌っていう女性をメーカーに就職させて、工場勤務が嫌だから退職になるとか、そういうの誰のためにもなってないですよね。
女性でも「ものづくり」的なカルチャーに適性ある人はいるし、そういう人が人生の中でその道を諦めないように誘導しつつ、いざ「そこで働いてもらう」ようになってからなら、「具体的なミスマッチの解消」のためにやるべきことは沢山ある。
上記記事で、私のクライアントの愛知県のあるメーカーの話をしてますが、出産後も戻って来やすい制度の細部設定とか、あるいは社食にオッサン向けドカ食いメニューしかないというマイクロアグレッション的な課題まで、ミスマッチ解消をしていくべき課題は沢山あるんですね。
こういうのは、「日本のメーカー企業」という特殊な個別の事情と、さらに「そのメーカーで働いても幸せになれるタイプの女性」という特殊な個別の事情と、それぞれちゃんとスペシフィックな課題を掘り下げて、具体的なミスマッチの解消をしていかないといけない。
要するに、ちゃんと「具体的なミスマッチ」までブレイクダウンしたその先においては、「フェミニズム」が主張していることも重要な意味を持ってくるってことなんですね。
そこまで踏み込まずに、「ジェンダーギャップ指数」みたいな、何もかも丸めた数字で殴っていても決して解決できない課題がここにはあるわけで、ジェンダー論があと一歩「リーンイン」しなきゃいけない分岐点になっている。
「純粋悪の抑圧者」と「純粋善のレジスタンス」みたいな世界観でいる限り決して踏み込めない、「両側の事情をテーブルの上にあげて解きほぐす」課題に人々の意識を巻き込んでいかないといけない。
要するに、この記事冒頭で書いたような、「滑走路段階」から「飛行段階」に入るにあたっては、ただ「お前たちは遅れている」って言っているだけじゃダメで、「日本社会側の事情」を丁寧に引き出して具体的な解決策を見出していかないといけないってことなんですね。
5. 「ケアロール」と「兵隊ロール」、どっちが大変とかどっちがエライとか言い出した時点で社会全体の敗北
で、さらに考えないといけない問題は、
・「世界のあらゆる仕事が非グリーディジョブ化できる」のか?
・そしてそれは望ましいことなのか?
っていうコレなんですよね。
「できる・できない」の話でいうと、そもそも国際競争の中でどこの国でも「競争に勝つための分野」に関わってる人間は死ぬほど働かせた上で、競争相手の弱体化を狙って「グリーディジョブはやめましょう」というポーズだけは取る・・・みたいな事になりかねない問題がある。
進学校の生徒がテスト前に死ぬほど勉強しておきながら、ライバルの前では「昨日一日中遊んじゃってさあ」みたいな事を言っておく(笑)・・・みたいなしょうもないバトルは今後必ず起きるでしょうからね。
さらに、その「できる・できない」の話を抜きにしても、「ありとあらゆる職業を非グリーディ化しなくてはならない」という発想が望ましいのか?という大問題があるんですよね。
人生それぞれ、あらゆる個人が生きたいように生きてる世界があって、「打ち込みたい仕事」がある人がいて、それが自分の使命だっていうような人がいたとして、
いやいや、家庭とバランスする生き方以外認められません。あなたは人間として欠陥品です
…みたいなことを言うのがそれでいいのか?みたいな話ってあるでしょう?
また、逆に、「性別による役割意識の押し付け云々」みたいな話を一端横に置いてみれば、
自分は社会の中での仕事にそこまで意義を見いだせなくて、家庭内でちゃんと子育てとかしっかりやる方が性に合ってるし、役割として向いてると感じています
↑こういう人に無理やり「いや、仕事をしてない人間は一人前とは認められません」みたいなことを強弁する事が果たしていいことなのか?という問題がある。
むしろ、男女どっちでも「死ぬほど働きたい」人と、「仕事は興味ないから家庭を守りたい」人がいたとして、そこにカップリングが生まれるのを他人がどうこう言う意味はあるのか?という話になる。
この点における「アメリカのリベラルの発想」の中には、埋め難く「社会で活躍して一流と認められてない存在は無価値」という価値観が埋め込まれているところがあるんですよね。
ゴールディン氏の本を読んでいてもそれは「隠しきれない」感じとして出てくるところがあって、色んな職業について「一流の職業」とか「ほどほどの地位の職業」とか結構考えようによっては差別的な用語を使いながら「明確な序列感」を持った話し方をするところがある。
ただし、「アメリカ」のエライところは、こういう「一流」と「それ以外」を分けて暗黙に序列化するような発想を隠しきれない「リベラル」がいると、それに対して徹底的に批判する勢力もまた現れるところなんですよね。
昔ヒラリー・クリントンが、「自分は家でクッキーを焼いてるようなしょうもない人生は選ばなかった」的な趣旨に取られる発言をして大問題になってましたけど、
・主婦・主夫業を選ぶのもその人の人生の自由な選択
・男女問わず”バリキャリ”を選ぶのもその人の人生の自由な選択
・どちらも等しく「尊い」のであって、どちらかを蔑視するような発言は良くない
こういうのが「あるべき姿」であるはずですよね。
要するに、「死ぬほど働いて富をもたらして国を回す”兵隊”ロール(役割)」の人もいればいいし、そういうのは別に好きじゃないから「ケアロール」みたいな事をやる人生を選ぶ人だって全然いていい、というのが「望ましい状態」のハズ。
そして、「アメリカという磁場」には、「各人が絶対自分という個人を譲らない」ことによって、全体としてこういうバランス↑が”結果的に”実現するダイナミズムが存在しているんですよね。
そして「アメリカのリベラル」はその「理想状態」のうち「半分」しか代表できていないからこそ、4年に一回国を割るような大問題に発展して世界中の人々をハラハラさせてるわけですよね。
要するにこういう「アメリカのリベラルの公式見解」の中に、「ヒラリー・クリントンのクッキー発言」型の、「ケアロールへの蔑視」「”一流の”兵隊ロールへの称賛」が不可避にビルトインされていて、それが余計な感情的対立を生んでいるわけですよ。
もちろん、「滑走路段階」にはそれでいいけど、いかにそれを社会の末端まで押し広げていくのか?という「飛行段階」に入った以上は、その「アメリカのリベラルの悪いクセ」をそのまま直輸入するんじゃなくて、「その先」を目指して動かしていかないといけないわけですね。
「グリーディジョブの非グリーディ化」みたいな、「資本主義の最前線の仕組みで無理なく解決」ができる分野はそうしていけばいいけど、できない分野も当然残り続けるわけですよね。
そして、そこはもうアメリカみたいに野放しでスラム的になっちゃってもいいじゃんって形にしないために、日本社会の中には「兵隊ロール」にしろ「ケアロール」にしろ、「頑張って破綻を防ぐ献身」をしている人たちがいるわけです。
確かに今までの日本社会では「兵隊ロール」の人が威張りすぎていた側面はあると思うので、「ケアロール」側の反乱みたいな事がバランサーとして必要だった側面はあるけど、だからといって「兵隊ロール」の必要性ごと否定しはじめると、それは「同レベルのアンフェアなことをただやり返してるだけ」になっちゃうわけですね。
そこを協力しあって穴を防ぐ動きをちゃんとやっていきつつ、一方で「グリーディジョブの非グリーディ化」みたいなプロセスは粛々と進めていくような、そういう協力関係を作っていくことが今必要なことなんですね。
6. 怨念バトルの先にある「静かな革命」を目指せ
とはいえ、この記事を読んだからといって、「明日から新しい協力関係が生まれる」とも思ってないし、相変わらず「怨念の投げつけあい」がしたい人はしておいてもらうことも「静かな革命」の不可欠なプロセスだと思っています。
「アメリカのリベラルの直輸入」で、「お前たちは遅れている!」って高圧的に言い続けたい人はそうすればいいし、ただしそういう人たちの発想の中にあるローカル社会の細かい事情を真摯に受け止めて具体的な改善に踏み込むことを決してしない
『罪』
は、自業自得にそのムーブメントに「アンチ」として襲いかかってくることを止めることは決してできない。
それは「ヒラリーのクッキー発言」に関連する色々な問題のように、「アメリカという磁場」そのものが発している当然の反作用というか、「真実を指し示すエネルギー」みたいなところがあるからです。
「どちらか」だけが「歴史の正しい側」とか主張して、最後まで「押し切って」しまうことは決してできない。なぜなら、その「逆側に立つ人たち」も、「アメリカレベルの政治主張のパワー」を完全に”等量”持っているからです。
とはいえ、「反リベラル」が行き過ぎて「何も変えないのがいい」みたいになってもそれはそれで問題なんで、そっちはそっちで『罪』を抱えているわけですよね。
女性の社会進出は当然のように進む中で、その「状況変化」に対して適切なフォローができないような言説もやはりあるレベルを超えて社会全体で共有することはできないからね。
だからこの「怨念のぶつけあい」は徹底的にやり続けることで、どんどん「どっちもどっち」な状況を白日の元にさらしてもらう必要がある。
イデオロギー的純粋さに引きこもってローカル社会の細かい実情に向き合う気がない傲慢さの『罪』も、ローカル社会の事情を隠れ蓑に時代の変化にただ抵抗し続けるだけの『罪』も、そのあまりの同レベルの”しょうもなさ”を満天下に晒すまで怨念のぶつけ合いをやり続けてもらう必要がある。
「静かな革命」はその先にやってくる。
だから、「怨念バトル」は「怨念バトル」としてずっとやりたい人はやっておいてもらえばいいんですが、「それとは別の場所」で、ちゃんと「メタ正義」的な具体的なミスマッチの解消を積み上げていけるかが大事なんですね。
その「転換」を起こしていく上で、女性の「世代差」は非常に重要な分岐点になってくると思います。
下記記事でゴールディン氏の研究の話をした時にも出てきましたが、女性というのは世代によって「見えている世界」が全然違うんですよね。
50代ぐらいで「社会進出したかった女性」の中にはかなり「社会全体への怨念」みたいなものを抱えている人も多いけど、「普通に社会進出」している若い世代の女性のニーズはもっと具体的になっている。
これは日本の場合においても同じで、上記記事にも書いた通り、私が「文通の仕事(詳しくはこちら)で繋がっている女性の話をすると、「20〜30代の現役あるいはこれから子育て世代」と「40代〜50代女性」の「日本の会社」に対する感覚やニーズはかなり違うんですね。
だから、「上の世代の女性」は、具体的ではない「日本社会への怨念」みたいなものに駆動されがちですが、「下の世代の女性」は、「具体的な制度上のミスマッチ」について解消してくれさえすればいいと思っている感触がある。
これからの日本でやっていかないといけないことは。
「アメリカのリベラルが言ってることをそのまま輸入して社会の末端が崩壊状態になる」ような動きには徹底的に抵抗して阻止しつつ、その「若い世代の女性が感じている具体的な細部のミスマッチ」には真剣に対応していくこと
↑この動きが安定的に作動するようになってくれば、大部分のフェミニストも、反フェミニストも、まあまあ満足できる新しい着地点を見出していけるはず。
そして、「欧米的な理想が人類の半分から全拒否にされかねない」今の情勢においては、そうやって「過剰なイデオロギー論争のためのイデオロギー論争を抑止し、具体的な細部のミスマッチの解消だけに集中するという倫理観」が、世界中から「21世紀の最新型の良識」として必要とされるムーブメントに育てていけるでしょう。
■
単に「幻想の中の欧米」を持ってきて「日本って遅れてるよねえ〜はあ〜嫌だわ〜」みたいなことしか言わないムーブメントが、「その社会」のあるレベル以上の広い賛同を得られるわけがないじゃないですか。
そういう態度が今の人類社会を真っ二つに割ってしまっている元凶なんですよ。
「日本社会の場合」をちゃんと個別具体的に積み上げる姿勢を見せて、両側の事情が解決される種々のミスマッチの解消が積み上がっていくことによって、「リベラル教の狂信者の外側」までその「理想」にコミットしてくれるようになる。
先日の、一橋大学の橋本直子先生との対談でもそういう話が出ていましたが…
要するに、たまにSNSで「スカッとした」的に話題になる、「女のクセに…」みたいな事を言う時代遅れのオッサンみたいな話は、今の日本では急速に消えてきているし、それをさらに推し進めたければ、「日本社会の側の事情」とちゃんと双方向的なやりとりと工夫の積み上げができる状況に持っていく必要があるんですね。
そうすれば、「女のくせに」みたいなことを言うオッサンだとか、痴漢の問題がどうこうとか、そういう問題を、「意識高い系の内側」だけじゃなく社会の隅々まで「抑止力」を働かせて解決していくことが可能になる。
ちょっと追記なんですが、この記事に関して橋本先生からツイッター(X)でコメント貰って、そこに「欧米的欺瞞」っていう言葉があって、それこそが今まで黙認されてきたけど、この世界情勢の中で直視しなくちゃいけなくなった「問題」なんだよな、と思ったんですね。
今のイスラエル情勢なんかを含めて噴出してきている「欧米という存在が持つ欺瞞性」と「欧米の理想の一番良い部分」がごちゃまぜになってしまわないように”適切に選り分けて扱う”ことこそが、今最も必要な、そして「日本こそがソレにチャレンジできる」課題なんですよね。
欧米のように「一握りの意識高い系があまりに断罪しまくるせいで社会の逆側に強烈なアンチが生まれている」ような状況に持っていかないためにも、ここで「あと一歩リーンイン」して日本社会に関わる方法について真剣に考えるべき時が来ているわけです。
「欧米が人類社会のほんの一部に落ちぶれていく」時代に、「欧米的理想」が消し飛んでしまわないようにするために、今最も必要な最先端のチャレンジをやりきる使命が、日本社会にはあるというわけです。
その「静かな革命」のプロセスについて、詳しくは以下の本の後半に詳しく書いておいたんでお読みいただければと思います。
■
つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2023年11月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。