みなさん、2021年の「旅行満足度ランキング(リクルート社のじゃらん宿泊旅行調査)」で一位の県はどこだと思いますか?
それで、今回、ただ旅行行くだけでなく、昔からのクライアントが紀伊半島の先端の僻地で会社をやってるので、彼に案内してもらいながら色々と魅力を満喫してきた件についての記事を書こうかなと思っていたんですけど…なんと!
今現時点で最新版の「2022年ランキング」を見ると、一位は大分県になっていて、和歌山は10位圏外までふっ飛ばされていて唖然としました。話が違う(笑)
ただ、このランキングを過去にさかのぼって見ると、コロナ前までは沖縄とか北海道とか京都とか、そういう「定番」が一位になることが多かったみたいなんですね。
それが、「コロナ後」になってから10位近辺まで僅差で並ぶ入れ食い状態になっていて、”人々の好みが変わった”ところがあるんじゃないかと思いました。
もちろん、北海道や京都や沖縄や・・・みたいな「観光地の定番」も入ってるんですが、大分や福井、石川など、「ある意味で地味な」県が十位近辺まで数ポイント差で競い合ってる状態になってる。
「コロナ前後で、人々が旅に求めるものが変わった」っていう話を、ついさっきたまたまこの動画↓をスマホがおすすめしてくれたんで何気なく見たら、「旅系YouTuber」のスーツ氏が言ってたんですが…
「定番」以外の、それぞれの県が自分たちの魅力をちゃんと伝えて評価されるサイクルが回り始めているところがあるんじゃないかと。
「定番化された観光地にばかり人が集まる」って、あらゆる意味で良くないですよね。
その「定番地域」がオーバーツーリズムで疲弊するっていうのもありますが、そもそも沖縄や北海道や京都にしか「魅力がない」という世界観っていうのは非常に貧しいもので、そういう「貧しい世界観」に最適化して経済を動かしていくと、色んな意味での「多様性」が社会から消失していって生きづらい世界になっていくわけですよね。
だからこそ、「定番以外の多様な観光地」がいかにフィーチャーされる世界に持っていくか?という話が重要になってくる。
今回の和歌山旅行は、単に那智の滝見に行って(これも素晴らしかったけど)、道の駅でお土産買って、温泉入って帰ってきた・・・だけではなくて、現地に根付いて事業やってるクライアントのS氏に連れられて色んな人に合ったり穴場に連れてってもらったりしたので、そうやって
「定番」以外の魅力が拾い上げられるサイクルを作り、「多様性」が経済の中で自然に還流する展開にしていくために必要なことは何か?
…を考える記事を書きます。
1. 「グローバル&ネット時代」が生み出す”ロングテール”という構造
まず、ちょっと「理論的」な話からしたいんですが、そもそも、「できるだけ定番以外の魅力ある観光地を掘り起こしたい」というエネルギーは、資本主義的構造の自然な帰結として一応存在しているはずなんですよね。
さっき貼った動画の中で、”スーツ氏”(年間250日以上国内外を旅行し続けているYouTuber)が、
比較的マイナーな目的地に行くほど、「同じアクティビティ」をしても単純に値段が安い事が多くて満足度が高まる
…という趣旨の話をしていて、なかなかナルホドと思ったんですよ。
今回和歌山県行って泊った宿、以下写真のような絶景の貸し切りの露天風呂が部屋についてていつでも入れて、一泊二人合計で1万5千円ぐらいでしたからね(多分、場所によっては貸し切り露天風呂が部屋についてれば二人で最低3万円とか、6〜7万円ぐらいになってもおかしくないはず)。
「温泉に入る」「グルメを楽しむ」「川遊びをする・海遊びをする」「キャンプとかラフティングとか登山とか釣りとかアウトドア・レジャーを楽しむ」・・・のどの点を取っても、「マイナー観光地」のほうが明らかに安い事が多いという単純な事実があるんですよね。
だから、「定番以外を求め、隠された魅力を発掘していこうとするエネルギー」自体は、もともと資本主義的なおカネの流れの中に内包されている。
こういうのを「ロングテール型」消費とか言いますが…
以下の図のように(縦軸が売上)、「売上が多い売れ筋品目(緑色)」だけが消費の大部分を占めているわけではなく、一点ごとの売り上げは少ないがとにかく沢山の品目がそれなりにちゃんと売れている「ロングテール」部分が生まれてくるのがネット時代の当然の帰結としてある。
単純化した説明をすると、「リアルな小売店」はAmazonや楽天とかのウェブ店みたいに際限なく多品目をおけないのと同じで、ネット時代以前は、「カタログ」に載せられる量に限界があったので、みんな「定番」の行き先にしか行けなかったわけですよね。
ネット時代になって、果てしなく色んなマニアックな行き先を発掘できるようになって、好みがバラけることで、「ロングテール」部分でもちゃんと商売が成り立つようになってくる、という「時代の流れ」自体は存在する。
例えば、30年前には「皆が知ってる芸能人」っていうのが確固としてあったけど、今は「好きなYouTuber誰?」って仲の良い友達に聞いても「えーその人知らない」ってこと増えましたよね。
さっきの「スーツ」氏も登録者数180万人の日本の旅系YouTuberでトップの人ですが、知らない人は知らないと思います。
また、「グローバル」との兼ね合いによってもこのロングテール化は進むんで、というのは、
外国人:日本のアニメが好きなんです
日本人:へえ、そうなんだ。例えば一番好きな作品とかってある?
外国人:それは、●●●と、✗✗✗ですね・・・
日本人:え、ごめん、知らない・・・(気まずい)
外国人:あ!ど、ドラゴンボールもまあ好きです。あと最近では呪術廻戦とか!(あわてて)
こういう体験↑したことある人結構いると思いますが、最近のインバウンドの流行も似たような感じで、「ロングテール」部分を再発見させていく流れが起きている。
例えば日本人は近所の人しか知らなかった山口県の神社が、CNNが「日本の美しい風景31選」に選んだとかで大人気になったりしている。
海外の評価でブレイクした長門市の景勝地|デスクネッツ運営『ふるコミュ』
京都の伏見稲荷神社的な赤い鳥居の連鎖と海沿いの絶景がセットになっていて、「今までこれの魅力を日本人は気づいてなかった」のもなんだかちょっと不思議な気もします。
2. 需要側の要望に、供給側は応えることができてない
だから、「ロングテール化していく需要」というのは確実に存在するんだけど、「供給側」がそれに応えるのってなかなか難しいんですよね。
というのは当たり前で、「需要側」は気楽に
「定番には飽きちゃったんだけど、なんか穴場でスゲー面白いとこないのぉ?」
って際限なく要求すりゃいいけど、それに「応える」って一筋縄じゃいかないですからね。
「供給側」がちゃんと「定番以外のメニュー」を掘り出し続けるようなプロセスが沈黙していると、「観光需要」は結局「定番」に吸い込まれ続けて、一部の「定番」がオーバーツーリズムで疲弊し、そして「本来そこにあった多様性」も顧みられないまま朽ちていくサイクルが続いてしまうことになる。
要するに、今の世界における「本当の多様性」を取り戻すためのポイントは、
「果てしなくロングテール化していくニーズ(需要側)」に対して、適切に「供給」側が応えられていないミスマッチ
↑このボトルネックをいかに解消するか?にかかっているのだ、ということが言えると思います。
3. ”昭和の消費モデル”の脱却と再構築が必要
今回の和歌山旅行で、めっちゃ印象的だったのが、晩ごはん食べたこの店なんですよね。
なんか料理人の店長氏の思い・・・みたいなものがメニューに結構長めに掲載されていて、
・うちはサーモンみたいな近所で取れない魚は出さない
・「名前のつかない魚」(未利用魚)も積極的に使う。知らない魚でもぜひ食べてみて欲しい。絶対美味しいから。
…みたいな事が切々と書いてあって、とにかく何食べてもめっちゃ美味しかったです。
「未利用魚」というのは、要するに、色んな理由で流通に乗せづらいために、水揚げされても結局漁師さんが近所で食べて終わりになってる種類の魚のことです。(詳細は以下記事などを)
未利用魚の一覧:未利用魚の種類は?名前と未利用魚になる理由を解説
ベタな言い方をすると「大量生産大量消費モデル」に合致しないというだけで排除されてしまっている魚類ということになる。
しかし「そこに実際に存在する魚だし、そこの土地で古来食べられてきた文化も存在する」魚ではあるはずなんですよね。
だから、その土地には『美味しい調理法』が存在するし、適切に調理されて、「ここでしか食べられない魚なんです」という風に演出されると「来て良かったなあ!」ってむしろなる「ロングテール型商品のコア」になるものなはずじゃないですか。
こういうのって、「昭和の高度経済成長期」に、「どんどん捨て去ってきた文化」みたいなところがあるわけですよね。
最近は多少マシになったと思いますが、10年前ぐらいの日本の温泉宿って、「この県そもそも海ないじゃん」みたいな山奥でも「そういう土地での贅沢品であるお刺し身を出すのが豪勢さの演出」みたいな発想のメニューが多かったですよね。
また、漁港に行っても、例えば近所で穫れるはずがないタイプの例えばサーモンが食べたい・・・とか言い出す消費者側のミスマッチも存在していた。
作家の司馬遼太郎が紀行文のなかで、
「昔は特有のその土地の文化を伝えていた観光の名所だったものが、ガチャガチャした土産物と下品な看板があふれる”どこも同じ”観光地になってしまった」
…みたいな趣旨のことを凄い嘆いていた文章を見たことがあるんですが(記憶からの再現なので正確な文面ではないです)
これはもう言い尽くされていることですが、日本の観光地は、そういう感じで「昭和の経済成長期」に「大型バスで乗り付けてその土地のものを味わったりもせずとりあえず酒のんで騒ぐ」型の消費モデルに最適化されすぎてしまったところがあって、「ロングテール消費を求める需要側のニーズ」にうまく合致できていないところはあったのは確かだと思います。
いかにそういう「特有の文化」を感じさせる「多様性のシーズ(種)」を掘り出して、変にマスプロ化しようとしないでロングテール型の消費に還流していけるかが今最も重要な課題だと言えるでしょう。
この「マスプロ化しないでロングテール型に還流する」というのは、要するに
・「一個のネタを大量生産して売りまくる」
のではなく、
・「100個のネタを発掘して、それらがネットを通じてそれぞれ”小バズ”的に消費される」
…ような、
・『多様性が内包された経済構造』をいかに作れるかが大事だ
…ってことですね。
4. インテリと現場の相互作用がカギ
案内してくれた長年のクライアントのS氏は、なんかこう「ネットワーキングマニア」みたいなところがあって、次々と色んな人を紹介してくれたんですよね。
僕はただアホの顔をして温泉入って休む旅行のつもりだったので、自分の著書のサンプルどころか名刺すら持っていってなくて「お前何しに来たの」状態で恐縮だったんですが、色んな「インテリ寄りの人物」が共存して生きてる状態には感銘を受けました。
捕鯨で有名な太地町(イルカ漁でも有名で、”コーヴ”という海外の意識高い系カルチャーの映画で批判的に紹介されて大問題になったことを覚えてる人もいると思います)にも行ったんですが、そこでこういう人に紹介されたりして…↓
太地町に住み込んで日本と欧米のカルチャーギャップがメディアに焚き付けられて国際的な社会問題化する現象についての博士論文を執筆中のアメリカ人ジャーナリスト
↑なんかこう、僕がやってる言論活動の内容を考えると「出会うべくして出会った」という感じの人で、時間が合わなくて現地では一時間ぐらいしか話せなかったですが、連絡先交換したんで今後大事な友人になりそうな感じがしてます。
彼に紹介されて、太地町の漁協がやってるローカルスーパー(中身は日本のどこにでもある普通のスーパーっぽい)でイルカとクジラの肉を買って帰ってきたんですけどめっっっっっっっちゃ美味しかったです。びっくりした。
クジラ以上にイルカ肉には心理的抵抗感が個人的にはあったんですが、びっくりするほど美味しかったです。
クジラは結構牛肉とかに似たプレーンな味がする種類が多く、イルカ肉は多少クセが強いジビエっぽい味で、でもその「クセ」の部分がかなり中毒性がある。
さっき貼った晩ごはん食べた料理店でも、「ミンククジラのタタキ」があってこれもメチャクチャ美味しかったんですが、世界観が変わりましたね。
クジラ漁やイルカ漁について色んな意見を持っている人がいると思いますが、正直「この湾に古来暮らしてきた民」からすれば、「すぐそこでこんな美味しい肉が手に入る」なら食わないはずないよな!というナマの納得感はありました。
その「彼らが蓄積してきた文化」自体には敬意を払うべき構造が確実にあるなと。
太地町に住み込んでいるアメリカ人ジャーナリストのジェイ氏によると、こういうのが「文化」だと言えるかどうかというのが欧米のメディア環境的には非常に重要なポイントで、彼は江戸時代の資料なんかから連続性を持ってその土地の捕鯨が「文化」扱いして良いものだということを証明する活動をしているそうです。
要するに『文化』だってことになったら、ニュージーランドの「ハカ」みたいなのがポリコレ文脈で至高の存在に祭り上げられているように、「美しい保護されるべきもの」となり、『文化』ではなく単に近世になってちょっと続いてる風習にすぎないのだ、ってことになると、「滅ぶべき許されざる野蛮な行為」ということになるらしい。
正直言ってそういう言論環境自体が欧米文明中心主義的な差別を感じないでもないですが(笑)、でもそうやって「グローバルな文脈」と「現地に蓄積されている文化」を知的に繋ぐような役割を果たしてくれている人がいること自体には大変感謝するべきポイントであるように思いました。
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あともうひとつ、これは和歌山県に限らないんですが、「田舎に籠もってヒッピー型インテリ活動をするグループ」っていうのが今の日本には結構いるみたいなんですよね。
これは地名的には三重県になりますが、尾鷲市九鬼という「ザ・漁村」みたいな湾内の路地の奥の奥みたいなところに、土日だけやってる本屋さんがあって…
以下が公式サイトみたいです。
似た感じで、出版活動を行っている、三重県色川町の「らくだ社」さんというご夫婦がいて…
そういう存在が日本全国に住む、こういう「オルタナティブ・ヒッピームーブメント」型のミニマムな本屋さんだったり一人出版業だったりをやられている仲間を募って本を出した…みたいなイベントにちょこっとだけお邪魔しました。
時間の関係で長居はできなかったんですが、この『二弐に2』っていう本は買わせていただいて、家帰って読んだら、今の世の中で忘れ去られかねない位置にある「ド直球のヒッピー型理想主義」が横溢してて凄い良かったです。
現代文明を憂う論説とか、対談とかがあったかと思えば、詩があったり、短編小説があったり写真があったり・・・という全部盛りでめっちゃ分厚くて四千円以上するという構成なんですが、「ザ・資本主義的風潮」の中では絶滅危惧種のこういう種類の編集方針を、「灯火を消さない」的な連続性の中で保持していこうとしている人たちが日本全国にいるんだなあ、みたいなことは結構勇気をもらえる感じでしたね。
載ってる対談とか読んでて思ったんですが、とにかくこういうインテリタイプの人間が「山村に暮らす」ことで、その「山村の人間関係」と「インテリ文脈」を接続していくための土壌づくりになっているところがあるなと思いました。
で、こういう「ヒッピー型理想主義」を持った存在が津々浦々の山村なんかに根を下ろして出版やら本屋さんやらやってるという事は、それ自体を「資本主義的」な金額換算をするとあまり大きいものには見えないと思うんですね。
でも、例えばニューヨークの寂れた家賃の安いエリアにヒッピーが集まって、ある意味で一部の人にしかわからない「理想」を掲げてワイワイやっていたものが、そのうち「資本主義」と接続してエリア全体がヒップな存在になっていく・・・というような、「ロングテール消費のシーズ」として非常に重要な存在なはずなんですよ。
さっきのジェイさんの活動も、この「トンガ坂文庫」さんや「らくだ舎」さんの活動も、その行為単体で見た時の「資本主義的な貨幣換算価値」みたいなものは決して大きくない。
しかし、「ロングテール型消費の需要」は凄くあるのに「供給」をちゃんとやるのが難しい・・・という現状の中で、いかに「嘘じゃない多様性」を「供給」レベルまで持ち上げていくか・・・という難しいチャレンジにおいて、こういう「ヒッピー型インテリの情熱」というものは非常に重要な役割を果たすべき存在なはずですよね。
5. 「暇な金持ちの趣味的な関わり」が大事な触媒になるのかも?
とはいえ、そういう「知的なヒッピー活動」が、その土地に明らかに存在していた大事なシーズが崩壊しないように温めてくれていたとしても、それをそのまま放置していても、「ロングテール型の多様性が経済に還流する大きなムーブメント」にはなかなかならないところがありますよね。
特にトンガ坂文庫さんやらくだ舎さんのような人たちは、「現代資本主義への懐疑精神」がコアの結集軸みたいになっているところがあるので、どうしてもそういう「資本主義との接続」を嫌うカルチャーがあるし、そしてもちろんそういう「資本主義を嫌うカルチャー」自体が、しょうもないお仕着せのマスプロ消費に堕することなく「ロングテール型の多様性が還流する理想」に行くために大事な要素であったりする。
この「ラストワンマイルをどう繋ぐか」っていう点について、特になぜコロナ禍を経て「新しいロングテール」が徐々に評価されるようになってきたか?という問題について、
『ヒマな金持ちの趣味的なかかわり』
…が重要なんじゃないか、っていうのを今回の旅行ではかなり思いました。
私の長年のクライアントのS氏は、メインの収入源は海外で会社を数社経営していることなんですよね。
で、和歌山の先端の僻村で年間半分ぐらい過ごしてあれこれやってるけど、まあそれは純粋に金額的なことを言えば「趣味」の範疇だというか。
ただ、そういう存在が少数でもかかわると、例えば日本の大企業や海外からの「ワーケーション(workとvacationを合わせた用語で、リゾートに来て普段と違う環境でリモートワークして生産性を上げましょうというジャンル。和歌山県はこの分野で非常に先進的な取り組みがあるらしい)」需要を取り込むとか、ロケットの発射台を誘致するとか、そういう「大きな話」が進むようになる。
こういう大きな話だけじゃなくて、S氏は呆れるほどネットワーカーというか、なんか四六時中名刺交換して、「あの人に会うべきだ」「この人とこの人をつなげよう」みたいなことをやってるタイプの人で、そういう活動が、「本当の多様性のシーズ(種)」がちゃんと育って「ロングテール型の需要に応えられる商品」になっていくラストワンマイルを埋めつつあるんじゃないかという気がしました。
要するに、「平成期」の町おこしって、東京のコンサルとかが入って、役所の補助金を得て、とりあえず「名産物」を作ってはみるけど、「とにかくすぐに商品化して目に見える成果を出さなきゃ」みたいなところがあって、掘り下げが浅いものが多かったんじゃないかと思うんですね。
とりあえず「ゆるキャラ」作ろうとか、準備不足のままとりあえず「名産品」として「どこにでもありそうなお菓子とかを作る」とかになりがちだった。
でも、S氏は別にすぐ売上建てようと思ってなくて、外国人の奥さんと一緒に日本で環境の良いところで住む土地が欲しい…と思って検索してたまたまそこの土地と古民家を買って、年の半分ぐらい滞在しながら「単に面白いから」あれこれ手を出して人間関係を作って行っている。
「トンガ坂文庫」さんや「らくだ舎」さんのような知的ヒッピーコミュニティにも、ジェイさんのような変わり種にも、色んな地場の料理屋さんや新しい観光資源を作ろうとしている人たちにも、ちょこっとずつ関わって、間を繋いで何か起こそうとしている。
さらには、一緒に林業やってみて「せんせー、動きが危ういなwww」とかからかわれながら人間関係を作ってたり、あとはその土地伝承のお祭りみたいなのが消えてしまいそうだからといって、手弁当で参加して「継承者」みたいなのになったりしている(笑)
この「別にすぐ売上作ろうとしてない」動き自体が、「そこにある本当の多様性のシーズ」を「ロングテール型需要」の中に昇華していくために大事なカギになって来るんじゃないかと思いました。
結果として、コロナ禍前後から、リモートワークが盛んになることで、日本中の「定番観光地以外の田舎」においてこういう
「物好きな金持ちの趣味的活動」
…ってあちこちで起きているはずですよね。
大分だろうと石川だろうと、千葉の奥地だろうと、どこでもそういう「今までにない接続」が生まれつつあるはず。
今まで資本主義メカニズムの埒外にはじき出されてしまっていたために、「資本主義とは関係ない情熱」によって支え続けないと崩壊してしまった「大事な多様性のシーズ」を、そういう「金持ちの道楽」的なものがブースターとなってちゃんと「資本主義の本来的な機能」と無理なく接続して大きな経済的循環が生まれる流れに少しずつ近づいているところがあるんではないかと思いました。
6. 大きな資本主義的投資と、ヒッピームーブメントがどうすればつながるか?
20年近く前、私が外資系コンサルティング会社のマッキンゼーにいた時に、日米の経済学者と日本政府の外郭団体が協力した日本経済分析プロジェクトに参加したんですが、日本社会はとにかく「優勝劣敗型に統合していく資本主義のパワー」が嫌いすぎて、必死に抵抗して零細状態のまま放置されてきたことが、給与をあげづらい構造的理由になっている、というのはもう「定説」レベルになっているんですね。
大枠の議論としては、それを時代に合わせていかに「集約」していくかが大事だ、というのは以下の本にも書いたとおりです。
ただ、過去20年とかの日本の「停滞」とされる現象について言えば、そういう「マスプロ的」に集約してしまう”低レベルな資本主義”に対して20年間必死に抵抗してきたことが、「本当の多様性のシーズ」を崩壊させずに温存できてきた・・・というようにポジティブに捉える事が必要だと私は考えています。
そしてそこまでの「抵抗運動」のために、「ヒッピー型ムーブメントが持つ反資本主義的精神」は重要な役割を持っていた。
しかし今後、ネットが普及して文化的な成熟もした上で、「ロングテール型の多様性を掘り起こしていく資本主義の本当の優しさ」と、「ヒッピー型ムーブメントが温存しようとしてきた本当の多様性のシーズ」がいかに接続できるかが大事な時代になってくると考えるべきなのだと思います。
以下の記事で書きましたが、
再エネ普及は「宗教家」から「実務家」の時代へ。未だ残る大課題「電力供給の安定」を皆で考えればもっと先に進める
たとえば「ヒッピー派」の人は例えば関電とか東電とかが大嫌いな人が多かったですが、最近の小規模水力発電事業なんかは結構関電や東電とうまくやってる例が増えてるみたいなんですよね。
無理やりなマスプロ的消費のゴリ押しを許さないために、彼らの「反資本主義的な意地」は凄い大事なんですが、かといってインフラ維持をどうやっていくのか?みたいな話は「ヒッピー精神」とは別の論理も含めてちゃんと考えていかないといけないわけで。
そういうところで「20世紀的なアレかコレかどっちか選べ」という精神を乗り越えた、「資本主義のパワー」が一番奥に内蔵している「本当の多様性」を掘り出してくれる機能といかにシンクロしていけるか、そういうチャレンジをやっていければいいですね。
今回僕が泊った宿は、一部屋だけしかない崖の手前の一軒家がパスワード式の自動チェックインで入れる宿だったんですが、これは地元のタピオカミルクティー屋さんが副業でやってるとか聞きました。
そういう「マニアックな主人のマニアックな」宿もあっていいし、一方で結構近くにマリオットがやってる大きめのホテルがあったりしたんで、そういう「いかにも資本主義的」な投資も当然あっていい。
最近新潟の妙高高原スキー場に数千億円の外資系の投資が入るってニュース見ましたけど、そういう「大規模投資」は大規模投資でやればいいけど、一方で「地場の本当の多様性のシーズ」もそこと自然に併存するように持っていけるかが重要なはずですよね。
そういうのが隣接してシームレスに繋がっているかどうかというのが大事で、この「地場の色んな活動」と「資本主義的大投資」が完全に分離してしまうと、それはそれで「あまり面白味のないどこにでもある存在」にしかならないし、現地社会からその投資があまり受け入れられずにトラブルになったりもする。
S氏が言ってたんですが、東南アジアの途上国型リゾートの多くは「その僻地のコミュニティ」からはほぼ完全に隔絶されていて、完全に人工的なテーマパークになってしまっているらしい。
同時に、そういう国で、「本当の僻地」っていうのはアクセスも悪いし、そもそも反政府勢力が支配していたりして、仕事でそういうところに行くなら護衛をつけて行くことが必須になったりするとか。
「僻地のナマのコミュニティの独自性」が一応維持されていつつ、かといって過剰に閉鎖的になって中央政府に敵意を剥き出しにしたりもしていなくて、適切に調和した環境が維持されている日本の地方には「大きな可能性」があるという話でした。
そういう形で、「ロングテール型の本当の多様性を求める資本主義のパワー」に向けて、「嘘でないリアルな多様性のシーズ」を丁寧に育てていって、「メガヒットを一個」でなく「持続可能な”小バズ”を百個」という形で昇華させていけるかどうか・・・というのが、これからの日本の大事なチャレンジだと思います。
7. 過去の「罵りあい」を超えていくベストタイミングが来つつある?
最近は日本の田舎について、絶望的な声しか聞かれないような感じになってますが、ただ一緒に色々回ってくれたS氏いわく、
「古い地域だけでなんとかなってるうちはヨソ者を受け入れないし、本当に崩壊状態になったらもうその土地ごと廃棄されちゃうこともある。その手前に、”外部から来た人と一緒になんとかしないとマジでヤバい”という機運が一番高まる瞬間があって、そこをうまく捉えられるかが大事だ」
…という話で、今の日本の「田舎」というのはまさにそういう「ベストタイミング」を迎えつつある感じなんだろうなと。
全体として私が思うのは、昭和平成期を通じて行政が旗を振っても決して実現しなかった「コンパクト化」が、今少しずつ進んでいる流れはあるんじゃないか、という感じがしました。
というのも、「僻地の山村」といってもコンビニも深夜までやってるスーパーもある地域とかもある一方で、「鬼滅の刃」の炭治郎くんの実家みたいな「ガチ僻地」もある。
どの程度かはともかくある程度は「集住」させないとインフラ維持コストだけでも天文学的数値になるんで、人口が数千万人単位で減る予定の日本ではマジでヤバいからなんとかしなくちゃ、とは長い間言われてきたけど、単に行政が旗振ってもなかなか進まなかったですよね。
ただ、今はそういう僻地は「中心部付近」になっても空き家がいくらでもあって、2−3割しか常住してなくて、たまに人がやってくる家をあわせても半分は空き家だろうという話でした。
S氏はその古民家を数軒まとめて、中にはほとんど手を入れずに住める物件も含めて60万円とかで買ったそうなので、こういう部分を利用した「集住」は徐々に自然と進む感じがします。
さらにいうと、なんだかんだ「僻地の中の中心地」には、集合住宅みたいなのも結構建設中だったりするのを結構見るんですよね。
こういう現象は全国的に起きているはずで、私の妻の両親は熊本の山村出身ですが、「結構山がち」なところにあった実家が「もっとガチで山」なところに住んでる人に買ってもらえたと喜んでいたので、そういう形で「行政が旗振らなくても自然に起きるコンパクト化」が起きつつあるのは間違いない。
そして
・ある程度「集住」してコストを押さえた上で、
・「集住した人のパワー」でスーパーやコンビニとかチェーン店みたいな「日常便利店舗」も維持してもらった上で、
・あとは今回記事で書いてきた「本当のロングテール型消費のメカニズム」にちゃんと接続していく
ための、
「ヒッピー型インテリと、暇な金持ちの趣味と、現地のナマの住民のインタラクション」
…が回っていけば、希望は見えてくるんじゃないかと思いました。
普段私がよく言ってるように、日本がこれから本当にオリジナルな繁栄をしていくためには、欧米由来の「世界を2つに分けて論争のための論争をする」ような20世紀型のカルチャーを乗り越えていかないといけません。
自分たちが持つ「本当の多様性」を掘り起こし、資本主義が持つ「本当の優しさ」とシームレスに接続していけるように、色々工夫して頑張っていきましょう。
■
長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。
ここ以後は、ちょっと単純に「クジラってかっこいい!と思った」という話をします。
さっき紹介した太地町に住んでるアメリカ人ジャーナリストにオススメされて、太地町の「くじらの博物館」に行ってきたんですけど、めっちゃ良かったんですよ。(入場料ちょっと高いけど行く価値あります。)
なんかね、クジラっていう生き物の壮大さとか、美しさとか、それに必死に食らいつく捕鯨文化のかっこよさとか、なんか凄い感動したんですよね。
ただ、なんか、だからといって、捕鯨反対!という気持ちには全然ならなかったというか、もちろん絶滅させるようなことは明らかに良くないが、「クジラと関わってきた人間の歴史」ごと、「尊い」ものとして丸ごと理解したい、という気持ちになったところがあって。
こういう時に、「自分は手を汚さない側だ」という身ぎれいさを強調することで「自分の倫理性」を高めようとする行為が、自分は世の中で一番嫌いな存在というほど嫌いだな、と思ったというか(笑)
「自分もその罪深さの環の中にいる」ことを自覚した上で、その上で、環境負荷がもっと低い世の中にしていったほうがいいよねとか、さすがに残酷な殺し方すぎるのは良くないのでは、みたいな方向に行くことが大事なんじゃないかとか。
ここ以後の部分では、色々と感動したくじら博物館の展示の写真とかも何枚か載せながら、そういう「今のポリコレ的断罪」が持っている身勝手さの本質はどこにあって、そういうムーブメントがなぜ社会を分断してしまうのか?について考察したいと思います。
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つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2023年11月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。