陸自幹部の靖国参拝:朝日の「負の遺産」を再考する

LewisTsePuiLung

陸上自衛隊の小林弘樹陸上幕僚副長(陸将)が今年1月9日、公用車を使って東京・九段の靖国神社を参拝していたことがわかった。1月11日付「朝日新聞」朝刊が、そう報じている。

同記事によると、小林副長は勤務日に「時間休」をとり、市ヶ谷(東京都)の防衛省と靖国神社を公用車で往復。靖国神社では、複数の陸自幹部と一緒に参拝したという。

ここで問題にしたいのは参拝それ自体の是非ではない。むしろ問題は、同記事が以下のとおり報じた点にある。

10日、防衛省陸上幕僚監部が明らかにした。陸幕によると、小林氏は9日午前に防衛省に出勤。午後に「時間休」をとり、運転手付きの公用車で靖国神社に向かった。現地で複数の陸自幹部らと合流し、参拝後は再び公用車で同省での職務に戻った。この日は陸幕の事実上の仕事始めで、参拝は「安全祈願のため」とした。昨年も同様に参拝していたという。

陸幕は取材に対し、小林氏が参拝に公用車を使用したことについて「(能登半島地震で)災害派遣中であり、状況の変化に応じて、速やかに職務に戻るため必要と判断した。問題はない」とコメント。陸自幹部による集団での靖国参拝についても「個々の信条に基づく私的な参拝なので問題はない」とした。

靖国神社は戦前・戦中、軍国主義の精神的支柱となった国家神道の中心的施設で、A級戦犯14人を合祀(ごうし)している。小林氏が直前まで公務を行い複数の幹部と参拝したことに、軍事評論家の前田哲男氏は「参拝は公務の延長と見なさざるを得ない。『公務ではない』という主張は世間的にとても通用しない」と指摘。公用車の使用も「公式参拝と捉えられてもおかしくない。政教分離から見ても問題のある行為だ」と語った。(里見稔)

戦前・戦中の日本を「軍国主義」と決めつけ、その「精神的支柱となった国家神道の中心的施設」と断じて憚らない。「A級戦犯」とカギ括弧で括ることも、「いわゆる」を付すこともしない。あいも変わらず、「合祀」を問題視する。最後は朝日御用達の「軍事評論家」に批判させて一丁上がり。じつに朝日らしい手垢の付いた紋切り型のディスりではないか。

公正を期すため書けば、陸幕の釈明にも疑問を覚えた。「公用車」を使用した経緯や、「集団での靖国参拝」について、くどくど説明する必要があっただろうか。参拝は「安全祈願のため」というのも言い訳がましい。

以上を前置きしたうえで、改めて朝日新聞に質す。

平成17年(2005年)10月17日、小泉首相が「一人の国民として」靖國神社を参拝した翌朝、朝日新聞は「負の遺産が残った」と題した社説を掲げ、こう批判した(翌18日付)。

首相は国を代表する存在だ。その行動が政治的な意味を持つ時、いくら私的と釈明したところで通用しないだろう。

それはおかしい。憲法上、首相は内閣の「首長」でしかない(66条)。内閣法は「内閣がその職権を行うのは、閣議によるものとする」と明記した(4条)。従って、閣議を経ていない以上、「私的参拝」を職権行為と見る余地はない。

だが、公用車に乗り、警護のSPを連れた点を指摘し、違憲な公的参拝とみなす裁判官や大学教授もいる。不謹慎とは思うが、性行為を例に「釈明」したい。

例えば、首相がSPとともに公用車でホテルに行き、異性と情事に及んだと仮定する。この場合、公的な性行為となるのだろうか。もちろん、なるはずがない。以上の道理を、首相参拝に当てはめても「通用しない」のだろうか。

そもそも、追悼や慰霊は職権行為(公務)に馴染まない。究極的には内心の問題である。私的な領域でしかあり得ない。神の前に立つとき、首相であれ、誰であれ皆、一人の人間となる。宗教とは、そうした世界のはずだ。

憲法20条は「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とした。「私的参拝」まで違憲と非難するのは、朝日が大好きな日本国憲法を踏みにじる主張ではないだろうか。

蛇足ながら、朝日社説の題(「負の遺産が残った」)は重ね言葉である。「言葉のチカラ」を信じる活字のプロとしては恥ずかしい。朝日社説は負の財産を残した。

・・・当時、産経新聞紙上の連載コラム「断」で、そう批判したが(拙著『司馬史観と太平洋戦争』PHP新書所収)、暖簾に腕押し。案の定、今回も「負の遺産が残った」。