我が国では「出る杭は打たれる」ということが一つのナショナルステレオタイプ(national stereotype)のようなものとして、確かにあるように思われます。(中略)私など特段成功しているわけではありませんが、今日までよく足を引っ張られどんどん金槌で叩かれながら、そうしたもの全てをはね飛ばしてきました。野村證券時代を振り返ってみても、同期同士が足を引っ張り合うという様で、そうした妬み・嫉み・嫉妬の類と徹底的に戦って生きてきたわけです――之は嘗て此の「北尾吉孝日記」で、『わが人生闘争なり』という中で述べた言葉です。
世の中には、平均的には恵まれた人だと思えるような人が他の人に対して、「あの人は金持ちだ/私は貧乏だ」「あの人はどの学校を卒業した/私はこんな学校しか出ていない」等々と、自分との相対比較で考える人が結構います。そういう人は物事を相対比較し、「自分が上なのか下なのか」といった物差しで推し量って行くわけです。
明治の知の巨人・森信三先生が言われる通り、あらゆる不幸は相対観から出発します。故に私は当ブログで幾度となく、「相対観から解脱せよ」と指摘しているわけです。「我は我、人は人にてよく候」(熊沢蕃山)――そして自分より優れた人を見たならば、「いやぁ、あの人は大したもんだ。少しは真似しないとなぁ」と発奮し、修養して行くよう努めるのが大事です。しかし人間というのは、中々そうは出来ないものです。但し一種の誇大妄想的な自信過剰の人にとっては、妬み・嫉み・嫉妬の類自体がそもそも無いのかもしれませんが(笑)。
日本のような国では、これからも出る杭は打たれて行くかもしれません。問題は、周りから色々ねたまれたり・いじめられたりする中で、へこたれないということです。出光興産創業者の出光佐三さんにおかれても例えば、「いじめられるということがわれわれにとっては鍛錬であり、わたしは非常に感謝をしておる。日本の政府までが外国の石油カルテルといっしょになって、出光を鍛錬してくれる。このようにいじめられて、鍛錬されたところに、今日の出光の強さができ」たと述べておられます。打たれても撥ね退け苦労して勝ち抜いて行く過程で、自分を大きい人間にして行くことが大事だと思います。
それからもう一つ、子を躾け育てて行く上で大切な教育思想として相対観からの解脱ということが求められます。競争を煽るばかりの教育ではなくて、「我は我、人は人にて」自分の考え方を持つよう育むのです。同時にまた、「なぜ彼は自分と考え方が違うのか」といったことを不思議に思い、調べよう・観察しようと思うように導くのです。相対観を脱し絶対の立場から物事を見る人が少しずつでも増えて行けば、世の中も一歩一歩変わって行く可能性があるのではないでしょうか。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年1月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。