「口から出るものが人を汚す」時代

新約聖書「マタイによる福音書」第15章には、「口に入るものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚す。口に入ってくるものは、みな腹の中に入り、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである」というイエスの聖句が記述されている。

ウィーンのカールス教会の夕景(2024年1月23日、撮影)

現代人は日々の3回の食事メニューに心を配り、健康への影響について関心を寄せてきている。同時に、女性への蔑視や憎悪感情を刺激する用語を使用しないといった傾向が見られ出している。米国ではその傾向が行き過ぎた面もあるが、口から出る言葉に対して人々は慎重になってきている。

すなわち、前者は「口に入るもの」に対して、後者は「口から出るもの」に対して、人々の認識と内省は進んできているわけだ。その意味で、イエスの上記の聖句に対し、十分とはいえないが、人類の歴史は少しは前進してきている。ちなみに、歴史的発展は最初は外的な世界(口に入るもの)に展開され、その後、内的な世界(口から出てくるもの)へと広がっていく。時には、時間差がある場合もあるし、同時期に生じることもある。

ここでは、後者の「口から出てくるもの」について少し考えてみたい。オーストリアのローマ・カトリック教会の最高指導者シェーンボルン枢機卿は「言葉の残虐性」という表現で、最近、われわれは思いやりを忘れて相手を批判することに専心していることに懸念を表明していた。

口から出てくる言葉はある時は武器以上に相手を傷つける。昔受けた言葉を忘れることが出来ず、生涯、その言葉を脳裏の中で繰り返しながら生きている人がいる。ナイフで刺された場合、時間の経過と共に癒されるが、言葉はそれが残虐的な内容であればあるほど、忘れることが難しく、心の深いところに留まっている。心ない言葉はナイフ以上に人を傷つける残虐性がある。

「言葉」の影響の大きさには驚かさせる。新約聖書「ヨハネによる福音書」の最初の書き出しを思い出す。「初めに言があった。すべてのものは、これによってできた」という有名な聖句だ。言葉は人を幸せにすると共に、人を殺すこともできる。言葉もデュアル・ユースだ。

ここにきて言葉の混乱が見られる。例えば、ジェンダーフリー運動は歴史的に軽視されてきた「女性の権利」の回復に貢献したが、同時に、ロゴスの破壊を生み出してきている。なぜならば、男性、女性といった性別に拘る一方、その性差を明確にする言葉、表現、その内容に対しては激しく拒絶反応を示しているからだ(「初めにジェンダーがあったのか?」2021年5月10日参考)。

IT技術が進み、言葉から成る多くの情報が氾濫している。そして多くの人がそれを共有できる時代に生きている。それは人類にとって至福の時といえるが、同時に、それをコントロールできない場合、殺人や淫乱や憎悪が拡散する世界になってしまう。

IT時代のシンボルでもある米メタ(旧フェイスブック)のザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)は先月31日、SNSでの子どもの性的虐待への規制を巡る上院司法委員会の公聴会で、被害者やその家族に陳謝した。そのシーンをニュースで見て、フェイスブックやインスタグラムなどで配信される無数の情報、画像が未成年者に大きな被害を与えている現実が改めて浮かび上がってくる。

ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)

21世紀に生きる私たちは分岐点に立たされている。科学技術の急速な発展で人間を取り巻く生活環境は改善され、通信技術の発展で世界中の人々が相互理解を深めることができる時代圏にいる。しかし、多くの人々は幸せではなく、苦悩している。それは単に経済的な理由からだけではない。私たちの「口から出てくる」言葉や感情表現が誤解を生みだし、カオスを生じさせているからだ。ロゴスは本来の意味を失い、フェイクニュースがまかり通っている。私たちは再度、「口に入れるもの」への注意だけではなく、「口から出るもの」への再考の時をもつべきではないか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年2月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。