アルゼンチンのミレイ大統領は、昨年12月に大統領に就任した当初から、歴史的な公共支出の削減など、精力的に改革を進めています。
12月の国家公共部門(SPN)の毎月の支出は、前年同月比で少なくとも実質31%(発生基準による)、最大で実質33.8%という非常に大きく削減されました。
ミレイ政権発足後1ヶ月間の一次支出は、マウリシオ・マクリ前大統領の政権発足後1ヶ月間の支出(恒常為替レートで測定)に比べ50%以上減少し、アルベルト・フェルナンデス政権の同時期と比べると22%も減少しました。
今回は、ミレイ大統領の改革の最近の重要なこととして、大規模な規制緩和法の下院での承認と、このミレイの改革の規模を評価し、その結果を分析するために、「経済の奇跡」と呼ばれた西ドイツのエアハルトの経済政策と比較検討した記事を紹介したいと思います。
1. 立法でのミレイの勝利!アルゼンチン議会が大規模の規制緩和法を承認
2月に入ってすぐ、ミレイ大統領は「”Bases y Puntos de Partida para La Libertad de los Argentinos”アルゼンチン人の自由のための基盤と出発点」と名づけられた初の重要法案である大規模な規制緩和法を下院で承認させることに成功しました。
ミレイは1983年の民主化以降、議会で最も力のない大統領とも言えます。 ミレイの党は、下院議員257人中40人、上院議員72人中8人しかいません。
大統領が改革を実施したくても、議会によって阻まれることが当初から危惧されていました。そのため大統領は以前から、野党の議員とも同盟を模索していました。
地元メディアは、この法案を「オムニバス法」と呼びました。当初は660以上の条文があり、幅広い問題を扱っていたためです。
最終的に下院が採決した法案は、条文数は300に満たず、政府が知事たちと交渉した結果もあって、多くの修正が加えられました。
この交渉は、マルティン・メネム下院議長とギジェルモ・フランコス内務大臣によって行われました。前者は票を獲得するため、最後まで対話派の野党と接触していました。
議会での何日にもわたる交渉と、当初の法案に対するいくつかの変更の後、最終的にこの法律は賛成144票、反対109票で可決されました。
ミレイは法律の承認を祝い、賛成票を投じた野党代議士の存在を強調しました。
長い議会期間中、左派のデモ隊が激しく抵抗しましたが、法と秩序の力で鎮圧されました。
この法律は、以下の文章で始まります。
1853年の国家憲法に具現化された自由主義の教義に基づく経済的・社会的秩序を回復する精神に基づき、我々は、名誉ある議会に添付の法案を提出し、アルゼンチン人の自由を脅かし、市場経済の適切な機能を妨げ、国家の貧困化の原因となっている不利な要因との闘いに、直ちに適切な手段を用いて取り組む確固たる意志を表明する。
我々は、1810年の5月革命の名において、また、アルゼンチン人の生命、自由、財産を守るために、これらの改革を推進する。
※以下の記事を参考にしています。
2. 「エアハルトの奇跡」再び!?ミレイの改革による自由主義経済が「アルゼンチンの奇跡」をもたらす
続いて、ミレイ大統領により現在行われている改革の規模を評価し、その結果を分析するために、他の世界的な現象と比較を試みる記事を紹介します。
今回のミレイの「基本法」と、戦後ドイツでコンラート・アデナウアー(西ドイツの初代連邦首相)と ルートヴィヒ・エアハルト(※)が推進した「ドイツ経済の奇跡」の比較です。
(※)ルートヴィヒ・エアハルト
コンラート・アデナウアー(西ドイツの初代連邦首相)のもとで長く経済相を務め、西ドイツの第二次世界大戦後の奇跡的な経済成長(エアハルトの奇跡)の立役者として名声を博した。1963年から1966年まで西ドイツ首相。
この2つの現象が起こった背景を明らかにすることは極めて重要です。
ドイツでは、第二次世界大戦後の経済的、社会的、政治的荒廃が圧倒的でした。ナチズムによって荒廃した国では、悲惨、飢饉、失業が蔓延していました。
しかし、確固たる信念と毅然とした価値観を持つ一人の人物が、一転して自由の思想を取り入れることにしたのです。
ドイツの奇跡の経済的父であるルートヴィヒ・エアハルトは、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(※)の考え方を学び、取り入れました。
(※)ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス
オーストリア=ハンガリー帝国出身の経済学者。自由主義者。オーストリア学派の巨匠。
ミーゼスの弟子には、ノーベル経済学賞受賞者のフリードリヒ・ハイエクや、マレー・N・ロスバード、イズラエル・M・カーズナーなど多数。
現在のオーストリア学派の経済学に多大な影響を与えており、その思想や理論は、ヘスース・ウエルタ・デ・ソトやハビエル・ミレイ(アルゼンチン大統領)にも受け継がれている。
経済大臣を経て首相に就任したエアハルトは、1949年から1966年まで経済改革の最前線に立ち、ドイツ経済の奇跡をもたらした決定において重要な役割を果たしました。
エアハルトは、ワイマール共和国とナチス・ドイツの両方における数十年にわたる社会主義によって廃退したドイツ経済を元に戻さなければなりませんでした。
エアハルトは、市場競争、価格統制の撤廃、財政赤字への抵抗という信念を導入し、 戦後の荒廃を経済再建へと転換させる政策の中心となりました。1947年のアメリカの対独マーシャル・プランは、アデナウアーとエアハルトがドイツを方向転換させるために必要な措置を講じるのに役立ちました。
対照的に、アルゼンチンでは、ドイツのような戦争や独裁政権に直面していないにもかかわらず、社会的、経済的、文化的状況は驚くほど似ていました。20年間続いたキルチネリスト政権と権威主義政権は無秩序をもたらし、あらゆる進歩を侵食したのです。
キルチネル候補が政権を取れば、キルチネル主義の影が残り、国は現代のハイパーインフレに陥る恐れがありました。
アデナウアー、エアハルト、ハビエル・ミレイには共通点があります。
彼らは破壊された国の再建の立役者であり、その崩壊を招いた思想を葬り去ろうとしたのです。
エアハルトは、ミレイと同様に、自由の思想とりわけオーストリア学派の経済学を学んだのです。
1948年、当時のドイツ経済担当大臣は、その後のドイツを前進させる3つの基本法のパッケージを発表しました:財政赤字の禁止、すべての物価統制と配給制度の廃止、新通貨の創設、中央銀行の金融政策への制限です。
これらはすべてアルゼンチンの基本法が目指していることと同じです。ある意味、ハビエル・ミレイ大統領も、就任前から同様のアプローチをとってきました。
破壊されたペソに代わる通貨競争システムの採用、赤字ゼロの目標、その後のアルゼンチン中央銀行の廃止です。
アルゼンチンはまだ経済の奇跡を経験していませんが、ドイツの経験は、何が起こりうるかを示す一例となります。
ドイツでは1948年6月から12月までの間に、西部3地帯の産業活動は50%増加しました。1949年5月、これら3つの地帯は統合され、西ドイツとして知られるドイツ連邦共和国となりました。
一方、東ドイツはソ連の影響下にあり、ドイツ民主共和国という名称を採用しました。
この2つのケースを並べることで、エアハルトは、自分の結果と正反対の結果の違いを鮮明に示すことができました。西ドイツ新政権が実施した自由市場政策のおかげで、経済の進歩は続きました。
エアハルトは 、コンラート・アデナウアー首相の任期中(1949年から1963年まで)に経済大臣に任命されました。西ドイツ経済は東ドイツを凌駕しただけでなく、マーシャル・プランによる対外援助が少なかったにもかかわらず、フランスやイギリスをも凌駕したのです。
この時期は、「経済の奇跡」「エアハルトの奇跡」と呼ばれるようになりました。1950年から1960年にかけて、西ドイツ経済の実質生産高は倍増し、この10年間は年率約8%の複合成長を遂げました。
この目覚ましい業績をもたらしたさまざまな要因を特定しようとした計量経済学的研究により、労働力の増加や投資の増加によるものばかりではなく、また単に初期の低い生産水準からの「キャッチアップ」によるものでもないことが明らかになりました。
この成長の多くは、生産力を解き放つ自由主義的な経済政策に起因するものなのだったのです。
今回アルゼンチン下院で承認されたミレイの基本法が実施させれば、後世に「アルゼンチンの奇跡」とよばれるような経済的復活が成し遂げられるかもしれません。
これからの数年間は、アルゼンチンの人々だけでなく、世界中の自由主義者や経済学者にとって、重要な年となると思います。
編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2024年2月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。