師というもの

誰を師として選ぶかは、人生の一大問題と言っても過言ではありません。昔の人が師を求めて色々な所を旅し、そしてこれと思う人の所で「私の師になってください」と三日三晩立ち尽くめ、三日三晩座り尽くめで御願いしていた類の話はよく聞きます。目の前で師と触れ合い、師の謦咳に接することが最も望ましいのは言うまでもありません。但し、師に恵まれたとは言い難い小生のように残念ながらそれが叶わぬ場合は、師と定めた偉人の書を通じて学びそれを血肉化して行くのです――之は嘗て此の「北尾吉孝日記」で、『「憤」の一字を抱く』という中で述べた言葉です。

日本が誇るべき大哲人・教育家である森信三先生の大阪天王寺師範学校本科での講義を纏めた『修身教授録』の第1部、第10講「尚友」には次のように書かれています――人を知る標準としては、第一には、それがいかなる人を師匠としているか、ということであり、第二には、その人がいかなることをもって、自分の一生の目標としているかということであり、第三には、その人が今日までいかなる事をして来たかということ、すなわちその人の今日までの経歴であります。そして第四には、その人の愛読書がいかなるものかということであり、そして最後がその人の友人いかんということであります。

これら五点は全て相互に関連しています。例えば如何なる師を持つかで、愛読書や人生の目標は強く影響されるものです。ですから、これらの中で他への影響力の点で何が重要かと言えば、第一の師匠であると言えましょう。何のベースも持たず自分を磨くは大変難しく、師は非常に大きな存在です。自分の範とすべきものがあり、その人物がどうそうなり得たか等々学んで初めて、自分もその人物に近付こうという思いにも駆られます。

他方注意すべきは、「妄りに人の師となるべからず。又妄りに人を師とすべからず」と、明治維新前夜の人物の中で私が最も偉大視する吉田松陰先生が言われることです。先生が言わんとしているのは要するに、師に埋没して己を失うことなく常に主体性を持ってやりなさい、ということでしょう。色々な師に学んで行くはそれはそれで良いと思いますし、何らか極めるべく精神錬磨を経た道で以て師に選ばれるような人の多くは、それなりの人物が出来上がっていると思います。

例えば歴代1位の連勝記録を持つ双葉山(第三十五代横綱)は安岡正篤先生に傾倒していたそうですが、彼は当時前頭4枚目の安藝ノ海(第三十七代横綱)に敗れ記録が69連勝でストップした時、洋行中であった安岡先生に「われ未だ木鶏(もっけい)たりえず」と打電したと言われます。相撲道という道を極めようとし相撲の世界で達人になった双葉山は、やはりそれだけ人間としても心技体を徹底的に磨くべく、様々な書を読み色々な形で修養していたのでしょう。ですから、「未だ木鶏たりえず」などというような言葉が適宜適切に出てくるのだと思います。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年2月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。