親切というもの

『出光佐三の日本人にかえれ』(拙著)第三章の『育成の基礎はすべて「愛情」』で私は出光さんの次の言、「上下または同僚間に、気兼ねや遠慮があるようでは、親切は決して徹底しない。肉親が子どもに愛の鞭を打つ以上の打ち解けた親切でなければならない。誤解を恐れたり、自分の立場を考えるようでは、人に親切はできないのだ。生半可な親切ならばしないほうがいい。かえって威厳を損じ、秩序を乱して、相手に不親切な結果を与えることになる。むしろ不徹底な親切はやめて、高圧的に接したほうがまだ結果がよいと思う」を御紹介しました。

そして出光さんは続けられて、次のように述べておられます――徹底的な親切は、往々にして相手に誤解されることが多いが、そんなことを恐れる必要は少しもない。度胸を決めて大いにやるのがよい。誤解されてもたび重なれば相手もついにはわかる。相手が自己の小さい醜い心を顧みて、恥じることで初めて親切が徹底して、徳をもって率いることとなるのである。

『論語』の「顔淵第十二の十六」に、「君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人は是(こ)れに反す」という孔子の言があります。人の美点・長所を見つけて、益々それが良きものになるよう手伝ってあげようと思えるのが、君子の生き方です。之は誰にとっても決してマイナスではないでしょう。

ところが、本人は親切のつもりでも相手からすると、「余計な事をするな」という現実が常にあります。「巧言、令色、足恭(すうきょう)なるは、左丘明(さきゅうめい)これを恥ず、丘も亦(また)これを恥ず・・・人に対して御世辞を並べ、上辺の愛嬌を振り撒き、過ぎた恭(うやうや)しさを示すのは恥ずべきことである」(公冶長第五の二十五)――親切も「足…度が過ぎること」では良くありません。

バランスを取ることが非常に大事である、とは『論語』に一貫して流れる孔子の教えです。「中庸の徳たるや、其れ至れるかな・・・中庸は道徳の規範として、最高至上である」(雍也第六の二十九)と言うように、中庸の徳から外れたらば、何事も最終様々な問題が生じてくることになるのです。

親切とは国語辞書を見ますと、「相手の身になって、その人のために何かをすること。思いやりをもって人のためにつくすこと。また、そのさま」等と書かれています。私は、中庸のバランスが取れた親切を徹底し適当に「人の美を成す」ということが必要だと思いってます。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年2月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。