クルド人問題:空虚な「多文化共生」論

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クルド人差別が問題だと言うならば、在日クルド人による各種迷惑行為・犯罪に至らない人権侵害、解体業に関係するクルド人による暴走行為(参照:川口市議会意見書)などの解消を真剣に考えるべきだ。当事者である川口市議会は警察官増員を始めたとした解消策を提案している。

ところがクルド人による地域住民への迷惑行為・犯罪に至らない人権侵害にはほとんど触れず、SNSでのクルド人批判の表現ばかりに関心を寄せ「ヘイトスピーチ」批判する声が少なくない。

批判の主語が「クルド人」であるか「不良クルド人」であるか、前者の場合、特定民族全体を攻撃するヘイトスピーチといった主張は些末な話であり、「マナー講師」の振る舞いに過ぎず「被害者の声」を封じる危険性すらある。

それでもヘイトスピーチは駄目だという者もいるだろうが、それならばなおのこと、クルド人による各種迷惑行為・犯罪に至らない人権侵害を一日でも早く解消し、その後「日本人とクルド人の友好・友情物語」でもつくって、クルド人による負の歴史を「上書き」「塗りつぶし」することに尽力すべきである。

ヘイト対策とは事前規制だけではないはずである。ヘイト被害の事後回復も含まれ、言論・表現の自由との関係、被害者の声を封じないためにもヘイト対策は事前規制ではなく被害の事後回復を主とすべきだ。

他にも殊更「現地」「現場」を根拠に「部外者」が川口市のクルド人問題について語ることに慎重な声がある。

「現地」「現場」の者しか物事を語れないとしたら、私達は世の中のことは自らの生活圏のことしか語れなくなる。

一般人が国際情勢を語ることは事実上、不可能だろう。ほとんどの日本人は、イスラエル軍のガザ地区攻撃を語れなくなる。「現地」「現場」に行くことが出来ない歴史の議論も不可能だろう。事実上「討論会」も成立しなくなる。少し考えれば「部外者なき議論」はあり得ないことが理解できるはずだ。

だから「現地」「現場」を根拠とし議論の参加資格を問うことは誤りだし、イスラエル軍批判の例をみてもわかるように「現地」「現場」の強調は実は加害者に有利な主張なのである。

このように、クルド人問題では理解に苦しむ主張をする者が少なくない。

彼らは「差別に抵抗するリベラルな市民」でもなんでもない。単に不良クルド人の脅威を直視できないだけである。控えめに言って、かなりみっともない振舞いである。

不良外国人(クルド人)は怖い。それは皆同じである。だから恥ずかしいことではない。恐怖への対処で求められることは「正しく恐れる」ことである。

ところが川口市のクルド人問題は「正しく恐れる」ことができず、自分を一段高見に置いて「多文化共生」「多様性」「差別」などの語を並べ、他人を諭す者があまりにも多い。

誰よりも「多文化共生」「多様性」「差別」への知識が豊富なはずの研究者・記者などからクルド人問題の解決に向けた説得的な提案を聞くことはまずない。

揚げ足どり報道して何か言った気になっているだけである。

煽るつもりはないが、人生のかなりの時間をかけて「多文化共生」「多様性」「差別」について学んだが、不良外国人を「正しく恐れる」術を知らず、その存在を見て見ぬふりする大人になったなど恥ずかしい話だ。