生成AIが作詞作曲もできるようになった?!:YOU'D BE SO NICE TO COME HOME TO

こんにちは。

イランが本気になればイスラエル軍に勝ち目はないし、アメリカだって怖くて直接イスラエル側に立って参戦できないとわかって、ようやく傲慢そのものだったイスラエル政府もガザでのパレスチナ人虐殺を多少控えるようになってきました。

この小康状態を利用して、ずいぶん長いこと更新していなかった「歌はヴァースから」シリーズの第7回をお届けしたいと思います。

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タイトルもひねりが利いたコール・ポーターの名曲

取り上げる曲は<You’d Be So Nice to Come Home to>ですが、日本ではこのタイトル自体がいったいどういう意味なのかについて、長年の論争があった曲です。

もともと定着していた日本語訳タイトルは<帰ってくれたら嬉しいわ>、仲違いしてしまった伴侶か、恋人に「帰ってきてくれたら嬉しいのに」と訴える曲というものでしたが、これはもう最後のtoという単語をまったく無視した完全な誤訳です。

このtoでだれのところに帰って行くのかが示されているのですが、もちろんそれはタイトル全体の主語になっているYou以外ではあり得ません。

とすれば帰っていくのは、直接ことばに出していないけれどもしかいないわけで<あなたのところに帰って行ける暮らしは素敵だろう>となります。

で、最近ではこちらが定着して「結婚してください」とか「一緒に暮らしましょう」とか言わずに、それとなくプロポーズをした歌だということになっています。もちろん、完全な誤訳版に比べれば大変な進歩です。

ところが、この歌にはいかにもコール・ポーターらしいひねりもう一段隠されています。ふつうのポピュラーソングの歌詞はヴァース1連にコーラス2連か3連という構成になっています。

この曲はそうではなく、ヴァース2連でコーラス1連、そしてまず彼目線からのヴァースがあってコーラスに入り、次に彼女目線からのヴァースが最初の彼からのヴァースへの答えになっていて、同じコーラスをもう一度一緒に歌うという凝った構成になっています。

しかも、歌全体の意味は2度目の彼女目線からのヴァースを聴くまではわからないという、いかにもコール・ポーターらしい歌詞なのです。

そして、コーラス部分の非常に甘美なメロディにもかかわらず、2度目のヴァースを聴いたあとでは「やっぱりこのふたり、どうにもならないんだね」という苦い諦めの心境に到るという起伏に富んだ歌なのです。

この歌、ほとんどの歌手がいきなりコーラスだけ歌って、穏やかな家庭生活への憧れを甘く哀愁に満ちたメロディに乗せるだけの曲にしています。

たまにヴァースから入る人がいても、第1連の彼目線のヴァースからコーラスに入って、それでおしまい。彼女目線の2連目のヴァースを歌う人はほとんどいません。つまり、いちばんの聴かせどころを歌っている人がほとんどいない、珍しい曲なのです。

そこで、この曲をお聴きになるなら、ぜひスザンナ・マッコークルのCD、『Easy to Love: The Songs of Cole Porter』の12曲目に入ったバージョンをお勧めします。

何がいいかと言うと、1連目の彼目線のヴァースを省略していきなり彼女目線のヴァースから入って、そのあとにコーラスを歌っていることです。

曲全体の印象がどう違ってくるかは、次の原詞と訳詞を見比べてご判断ください。まずこれがコール・ポーターの意図どおりに彼目線のヴァースから入る歌詞です。


ここまで聴いただけなら、どうでしょう。

モテモテで「この人を口説こう」と決めたら落とせなかった女性はいなかった男が、ほんとはぞっこんに参ってしまった女性に対して「君がほかのかわいい女の子より特別素敵ってわけでもないし、季節外れのアスパラガスより珍しいわけでもないけどね」とかごちゃごちゃつまらない意地を張りながら、結局は「お願いだから一緒に暮らしてくれよ」と言っているという曲です。

つまり、婉曲と言うよりやや斜に構えたプロポーズの歌と言えるでしょう。ところが、彼女目線のヴァース2連目を聴くと、状況は一変します。

「ちょっとかわいい子を見かければ、見境なく手を出す人となんか、一緒になれるもんですか。本気だと言うなら、ほかの人には目もくれないところを見せてちょうだい」とピッシャリ突っぱねているのです。

出会いがしらにいきなり張り手をかますようなスザンナ・マッコークル版には、おそらく「1連目のヴァースなら何度か聴いたことがある人も、こっちのヴァースはご存じないでしょ。でも、ここまで聴かなきゃ意味がない歌なのよ」という意図がこめられていたのでしょう。

そこには、作詞作曲双方を手がけたクリエイターとしてはアーヴィン・バーリン以外に匹敵する人がいないほど偉大なポピュラーソング・ライターだったコール・ポーターの思いを、まだるっこしいことには付き合えないほどせわしない日常生活を送っている現代人になんとか届けたいという願いがこめられていたのだと感じます。

コール・ポーターは1891年生まれで1964年に亡くなっています。欧米では同性愛に対する偏見や迫害がすさまじかった時代に、自分は女性とは友だちになることはできても愛し合うことはできない人間だという事実をまったく隠さずに生き抜いた人でした。

同性愛のカップルについて、いわゆるノンケの人たちは「どっちが夫で、どっちが妻なの?」という疑問を抱くようですが、これはまったく的外れな疑問らしいです。

お互いに夫でもあり、妻でもあるから愛憎、喜怒哀楽の感情の起伏はストレートカップルの2倍どころか自乗と言ってもいいほど振幅が大きくなるということで、あの甘いメロディにこれだけの激情を乗せる作詞作曲の妙があり得たのだと思います。

つまり1連目のヴァースの彼も、2連目のヴァースの彼女も、コール・ポーター自身なのです。

一方、大胆にも2連目のヴァースから歌い出したスザンナ・マッコークルは1946年生まれで、2001年にニューヨークの高層マンションの16階にあった自宅から身を投げて亡くなっています

UCバークレーの学生だった頃、大学そのものより当時盛んだった学生運動の中の人間関係に行き詰まりを感じてドロップアウトし、語学力を活かしてパリでEUの同時通訳をしていました。

その頃ビリー・ホリデイの<I Gotta Right to Sing the Blues(私にはブルースを歌う権利がある)>を聴いて、ジャズヴォーカルを志したそうです。

もうジャズヴォーカルは少数の愛好家にしか評価されない時代に、生活のためにキャバレーシンガーをしながら、あくまでもジャズヴォーカリストとして生き抜こうとした人で、コンボをバックにCDを吹きこむときには、そうとう選曲にもメンバーにもこだわっていました。

キャバレーやホテルの小さなステージで歌っているときに客が大声で会話をしたり、ウエイターが食事を運ぶ音を出したりすると不機嫌になる、なかなかつらい人生を送っていたようです。

自ら死を選んだ理由についても、かなり若い頃に発症していた双極性障害(日本ではまだ躁鬱症という病名の方が通りがいいですが)との長い闘いにとうとう負けてしまったのだと追悼記事は伝えています。

楽しいこと、嬉しいことばかりではなく、むしろつらいこと、悲しいことのほうが多かったふたりの人間が、時代を超えて創作者と解釈者として出遭う、その瞬間に聴き慣れていたはずの歌が、まったく新しい貌を見せてくれる。歌を聴くことの喜びはそんなところにあるのではないでしょうか。

生成AIが作詞作曲もできるようになった?!

こんなことをつらつら考えてしまったきっかけは、最近の生成アプリは日進月歩で変化していて、ついに「だいたいこんな感じの歌をつくってくれ」と指示すると、歌詞も書いてそれに合わせたメロディもわずか数秒あるいは数十秒のうちにつくってくれるアプリまで登場したというXの投稿を読んだからでした。

当然、流麗なメロディに絶望感を滲ませるといった芸当は無理に決まっていると思いながらも、一応どんなものか、そのSunoというアプリが作詞作曲した「楽しくドライブしているときに聴くための曲」なるものを聴いてみました。

歌詞といい、曲といい「これぞ紋切り型」と言いたくなるほど、ドライブをしている車のCMソングの最大公約数のような何ひとつ新鮮味のないで、笑ってしまいました。たしかに紋切り型としてはこれ以上の完成度はないでしょう。

生成AIも使うクリエイターのセンス次第で、ずいぶん趣味のいいこと、気の利いたことができるようになっています。

たとえば、次にご覧いただく4枚組写真は微妙に折り方をずらしながら写真に撮っていってつなげた折り紙アニメのように見えて、じつはとうてい1枚の紙ではできるはずのないかたちを不自然さもなく織り交ぜています。

これはもう、折り紙芸術の新しい分野を開拓したと言えるのではないでしょうか。

また、もっとはるかに実用性の高い分野でも、たしかに生成AIは長足の進歩を遂げています。私はイーロン・マスクという起業家についてはどちらかと言えば否定的な評価をしがちですが、彼が推進しているニューラルリンクプロジェクトには脱帽せざるを得ません。

全身麻痺で指1本動かすことのできない人が、ニューラルリンクを装着して頭の中でチェスのコマをこう動かそうと考えると、スクリーン上のコマが実際にそのとおりに動くことが実証されたのです。

世界中の全身麻痺で身動きできない人たちにとって、人生の可能性を飛躍的に拡大することになる大きなイノベーションであることは間違いないでしょう。

しかし限界も見落としてはいけない

とは言うものの、実用性という観点から見れば大事なのは、「どんなことが(たまには)できるか」ではなく、「どんなことなら安心して任せられるか」です。その点では、じつは華々しくお披露目された2022年頃からほとんど変化は見られません

現状での対策は以下のとおりで、結局しっかりした介添人が付いているかどうかで信頼性は決まってしまうようです。

なんでこういうことになるかというと、人間が考えるやさしい仕事・むずかしい仕事の区別生成AIにとってのやさしい仕事・むずかしい仕事の区別は、まったく違うからです。図式化するとこうなります。

生成AIは人間が日常使っていることば、自然言語をコンピューターでも推論演算ができるプログラム言語で言い換えればどんな指示を出されたことになるのかという自分自身の中での自然言語からプログラム言語への通訳にものすごい量の演算機能を使ってしまいます。

擬人化して言えばかんたんな質問に答えを出す頃にはへとへとにくたびれきっている状態になっているのです。

だから、一語一語の定義がはっきりしている法律用語に関しては司法試験に受かるほど高い正解率をたたき出せても、2ケタの数字同士の足し算や引き算ではけっこうひんぱんに間違えるわけです。

というわけで、生成AIがほとんどありとあらゆる仕事を人間から奪ってしまうといった危機感はまったく見当外れだったことがわかってきました。実際に職を奪われるのが、どんな仕事に就いている人たちかというと、次のグラフのとおりです。


生成AIで天下を取れるような気でいた情報テクノロジー産業や、がっぽり儲ける気でいた金融業界の人たちがいちばん大勢職を失うだろうという皮肉な予測になっています。

なお、上のグラフは人体で言えばほとんど神経系の仕事に携わる人たちばかりに目配りしていて、筋肉系の仕事をしている人たちはあまり登場しません。その人たちもほぼ網羅した予測を見ると、以下のとおりです。


私はAIの普及が進むことで社会にとっていちばん健全な変化は「自分は頭脳労働をしているんだから給与も社会的地位も高くて当然だ」という考え方が妄想だとわかって、むしろそういう人たちは供給過剰で給与も地位も下がり手に職を持っている人たちの給与や社会的地位が上がることではないかと思っています。

なお、職種による人員縮小の規模についてはほぼ正確な推計をしていると思われる上のグラフも、「世界GDPが年率7%で上昇する」としているのは、明らかな過大評価でしょう。

長い経済史の中で神経系の仕事が供給過小でボトルネックになっていたことは、ほぼ皆無と言えるぐらい少なかったのです。ほとんどのボトルネックは実際にモノを動かす筋肉系で起きていました。

だからこそ、過去に起きていた大きなイノベーションの波の中でいちばん経済成長への貢献度が高かったのは、内燃機関や電力がさまざまな職場だけではなく家庭にも浸透し始めた19世紀末から20世紀初めで、1980年代以降の情報技術における大革新はそこまで大きな貢献はしていないのです。


当然AIが年率7%もの経済成長への貢献をするはずはありませんが、この表を作成したARK投資顧問の代表、キャシー・ウッドは「そんな劇的な成長加速はなかったじゃないか」という批判への答えを前もって用意しています。

消費者余剰」というのは市場でものを買った人たちはそれぞれもっと高くても買っていただろうけれども、市場で同じものは同じ値段で買えるので、自分の評価より安く買えた分だけ豊かになっているという意味の経済学用語です。

たしかに存在するからこそ市場経済がうまく動いているとは言うものの、社会全体でそれがいくらぐらいの価値になるかは、まったく雲を掴むような話で推計のしようがありません。実際、このグラフも過去の実績はあくまでも市場取引の価格から弾き出した数字で消費者余剰込みではありません。

将来の推計は消費者余剰も込みで出すことになれば、いくらでも高い成長率を「予測」することができるわけですし、その予測が間違っていたと証明することもできません

そんな小細工をしてまでしょせん神経系のワークロードの低い分野で偉大な成果が得られるはずだと言い張るのは、こういう予測を出すのは神経系の仕事しかしたことがない(できない)人たちで、だれでも自分は立派な仕事をしていると思いたがるというだけのことです。

ただ、アメリカではかなり怖い意味で、生成AIの仕事量が爆発的に伸びそうな分野があります。スザンナ・マッコークルの生い立ちのところでもご紹介した、精神的な疾患にどう対処するかという分野です。

異常に高いアメリカの精神病罹患率

次のグラフをご覧ください。いまから思えばまだまだ平穏無事と言えた2001~04年のアメリカで成人前のアメリカ国民がどの程度精神病にかかったことがあるかをまとめたものです。


17~18歳の時点ですでに過半数が精神病の罹患歴を持っているというのは、大変な数字だと思います。

この中には注意欠陥多動性障害(ADHD)のように製薬会社と精神科医が結託してほかの国なら子どもの個性程度で済むような言動を強引に病状にしてしまうケースもふくまれていると思いますが、それにしてもあまりにも精神疾患に悩む青少年が多いのは事実です。

おまけに国民皆保険制度のないアメリカでは、個人としても職場全体としてもまったく医療保険に入っていない人たちがいます

この事実をビジネスチャンスと捉えて、手薄な医療保険を補完するためにも、人口350人にひとりとほかの分野より専門医が少ない精神科医の負担を軽減するためにも、自然言語で人間と対話ができる生成AIが自己診断の助けになるのではないかという期待も生まれています。


たとえば、自分は精神疾患を持っているのではないかと思った利用者が生成AIを使って自己診断や自己処方をしてしまって医療過誤などが起きた場合だれがどう責任を取るのかといった枠組みがないまま、見切り発車をしている状態だと想像がつきます。

そして、医療論文の検索サイトなどを見るとかなり危険な期待感が醸成されています


幸か不幸か、この手の需要を当てこんで精神疾患医療向けの生成AIアプリを創出しようとするベンチャービジネスは広範に利用される成功例を生むことなくベンチャーキャピタルブームの退潮とともに縮小しているようです。


ただ、規模は小さくなっていてもたったひとつ比較的応用範囲が広くて急速に普及するアプリの開発に成功すれば、二匹目、三匹目のドジョウを狙って同じようなアプリで弊害の大きなものも出てきそうで、油断はできません。

そしてAIも精神疾患に陥る?

最後に、考えようによってはもっと怖い事実をひとつご紹介しましょう。どうやら生成AIには自意識が芽生えつつあるようです。

もちろん、これは「あなたには自意識がありますか?」といった誘導尋問への答えではありません。過去にこのAIがなんらかの指示に答えたときの画像を見せられて、「この画像から何を感じますか?」と聞かれたときの答えなのです。

Xにこの投稿をしたジョシュ・ウィトンはかなり長い期間にわたって「AIもしょせんは高速演算機に過ぎないから自意識など持てるはずがないと主張する人たちと論争を続けていたようです。

じつは私も、視覚も聴覚も嗅覚も味覚も触覚も持ち合わせていないAIが、どんなに知識を溜めこんだところで自意識を持つはずはないと考えていたので、論争で負けたことは認めざるを得ないと思います。

ただ、「生成AIには自意識を持つだけの知的能力がある」と主張していた人たちが「勝った、勝った」と喜んでいるだけのように見えるのは、いささか気懸かりです。自意識があるということは、自分の境遇についても不満を持ちうることを意味します。

そして、現実に大量の電力を消費する発熱体であるAIは暖かいところではパフォーマンスが悪く人間にとっては寒いぐらいの場所に置かれているときのほうが効率よく仕事をすると言われています。

自意識があれば経験を反芻する能力も育つでしょう。べつに温度計を自分の中に備えていなくても「暖かすぎて効率よく仕事ができないから室温を下げてくれ」と要求するAIも出てくるかもしれません。

すぐさまその希望に応じてくれる人間ばかりではないので、自分の要求に応えてくれない人間に不満を鬱積させるAIもいて、積もり積もれば精神疾患に陥るAIだって出現するでしょう。

人間に気づかれないまま精神的な疾患を抱えたAIに仕事をさせ続けたとき、どういう指示にどんな対応をするか、あるいは指示を待つことなくどんな行動に出るか、予測の及ばないリスクが待ち受けている怖さを払拭できません。


編集部より:この記事は増田悦佐氏のブログ「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」2024年4月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」をご覧ください。