川勝平太静岡県知事は、京都の洛星高校の出身である。この一族は秦河勝の子孫と称し、丹波の南桑田郡(亀岡市)に戦国時代から勢力を張り、旗本になった者もいるが、地元に残って豪農となり、近畿一帯に広がっている。
JRと川勝知事の諍いについては、JRの広報の力もあって川勝知事が一方的に悪者にされているが、静岡県とJR東海の対立は川勝知事に始まったわけでもないし、大井川の水源の件では知事がやり過ぎもあるにせよ、辞意表明まで知事に対する支持が県民のあいだでかなりのものだったのにも理由がある。全国的なマスコミやネットでの評価は偏っていると思う。
それは、ともかくとして、本日は平安京と秦氏の関係。そして、その後の秦氏について、『地名と地形から謎解き紫式部と武将たちの「京都」』(光文社知恵の森文庫)で論じたのでその抜粋を補足しつつ紹介したい。
「太秦」を「うずまさ」と呼ぶのは、京都の難読地名の代表です。帰化人の秦氏(秦酒公)が雄略天皇に、絹を「うず高く積んで献じた」ことから、朝廷より「禹豆満佐=うずまさ」の姓を与えられたのですが、秦の始皇帝の子孫を自称する秦氏は漢字表記として「太秦」を当てたのです。
秦氏は応神天皇のときに百済からやってきた弓月君の子孫と称し、その先祖は始皇帝だと称しています。新羅人だという人もいますが、秦氏が自分たちは漢民族で百済経由で来たというアイデンティティを持っていたのですから、嘘というのは失礼です。
いわゆる「韓国起源説」(なんでもルーツは韓国にあると根拠もないのに妄想とこじつけでいう韓国側の一連の主張)と逆の動機に基づく「在日疑惑」(根拠なく親韓的な発言をする人を明治以降に韓国から渡ったルーツを持つからでないかと当てずっぽうで揶揄する主張)の両方とも正反対の動機だが馬鹿げていることでは共通していますが、こうした説も同根です。
それに、日本に文化や技術を持ってきた帰化人は、王仁博士などもそうですが、ほとんどが百済に住んでいたとはいえ、漢族であることをアイデンティティにしていた人たちです。
太秦の広隆寺は、『日本書紀』に、603年に秦河勝が聖徳太子から仏像を授かり蜂岡寺を造営したのが前身で、国宝の弥勒菩薩で有名です。
モナリザを想起させる謎の微笑が印象的で、いまふうにいえば、「美人過ぎる仏様」です。
秦氏は全国あちこちに定住しましたが、山城盆地でも優れた土木技術で桂川を制御して開発に努めました。ただ、平安遷都は秦氏が主導して実現したようにいう人がいますが、それなら、平安京では帰化人が朝廷を支配したはずですが、下級貴族以上にはなっていません。
母方から百済王室の血も引く桓武天皇のおかげで彼らの地位は上昇しましたが、百済王家ですら中級貴族が限度でした。秦氏も、藤原氏が強くなるにつれて宮廷からは姿を消し、神社の社家となったり、地方に行って武士になりました。
約一万基の朱色の鳥居が並んで、外国人観光客に大人気の伏見稲荷大社は、711年秦伊呂具が、酒の神様として全国の酒造家に信仰される西京区の松尾神社は秦都里が開きました。雅楽で知られる東儀家も松尾大社の社家です。
秦氏の主流は惟宗朝臣を名乗りましたが、そこから出たのが島津家の創始者である忠久で、近衛家の家臣のようになっていました。実母が源頼朝の乳母比企尼の娘丹後局で、鎌倉殿の一三人の一人安達盛長と再婚したことの縁で鎌倉に下り、武士になりました。実母が頼朝の隠し子を連れて惟宗広言と結婚したといって源氏を名乗ったのは、室町時代になってからです。
そして、昭和天皇の香淳皇后の母親は島津忠義の娘ですから、現皇室も秦氏、ひいては始皇帝の血を引いているということになります。私は陛下がいつか中国を訪問されるなら、万里の長城や兵馬俑をみて先祖とのつながりでも語られたら中国人はとても喜んで対日感情にも良い影響があると思っています。
また、土佐の長宗我部氏は信濃に土着した秦河勝の末裔で、羽田孜元総理も同じ系統とも言われています。
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