最近、「欧米発」の「日本時代劇ブーム」みたいなのが地味に進行中なんですよね。
「日本が作った時代劇が欧米でブーム」じゃなくて「欧米のスタジオが日本の時代劇を作るブーム」です。
例えば真田広之氏の主演でハリウッドが作った時代劇ドラマ「SHOGUN」が、日本にいると全然気づかないですがかなりのヒットになっていて、公開初週はあらゆるストリーミング公開作品の中で一位になったそうです。Huluとディズニー+という、Netflix以外のマイナープラットフォームで一位になるのは異例とのこと。また、rotten tomatoesという海外のレビューサイトで、評論家の間で99%!、一般視聴者の間で90%の高評価になっている。
僕も見たんですがすごい良かった!と思っていて、今回記事ではこのSHOGUNの紹介もしたいんですが…
こういう「海外作の日本時代劇が日本の作品をマジで超えてるレベルですごい」っていう展開のハシリになったのは、2020年に発売されたゴーストオブツシマという元寇がテーマのゲームです(キアヌ・リーブス主演の”ジョン・ウィック”の監督で有名なチャド・スタエルスキによるハリウッド映画化も進行中らしい)。
アメリカのゲーム制作会社が作った、「元寇に立ち向かう対馬のサムライがテーマのアクションゲーム」って言うと「なんじゃそりゃ?」って感じですが、日本人が見ても全然違和感なさすぎるというか、むしろ日本人自身が最近はナイガシロにしがちだったクロサワ映画的時代劇をこれ以上なく再現していて文句のつけようがない感じで。
発売2年後の2022年7月で972万本(まだ数字は伸びているらしい)売れる大ヒットになっていて、つい最近になって出たPC版も記録的なヒットになっているらしい。
一方で!こんな「すごい作品」ばっかりが作られるわけではなく、玉石混交の「玉」も「石」も当然あるわけですが…
大して話題にもならずに終わった映像作品たちも当然あります。
例えばNetflixのBlue eye samuraiとか、Yasuke(これはアニメーションスタジオは日本のMAPPAですが海外監督&脚本ですごい荒唐無稽な戦国時代をやっててちょっと面白かったです)とかですが・・・
ただ、こういう「大して評判にならなかったね」という話を超えて、「悪評」レベルになってしまった騒動も最近あって、それが
「アサシンクリードシャドウズの主人公を黒人のサムライ”弥助”にした事による文化盗用批判」事件
…なんですが、これ、僕のSNSタイムラインではかなり大騒ぎになってたんですが興味ない人は「???」って感じだと思うので、そのざっくりした解説もしたうえで、私達日本人はこの「海外発の日本時代劇ブーム」をどう考えていけばいいのか?という話を掘り下げます。
1. 「日本版ゲーム・オブ・スローンズ」として大ヒットしている”SHOGUN”
ゲーム・オブ・スローンズっていう、2010年代の”世界的ナンバーワンヒット”と言っても過言ではないぐらいの欧米ドラマシリーズがあるんですが、SHOGUNはかなりこの「ゲースロ」を意識して作られてると思います。
ゲーム・オブ・スローンズの世界は、おそらくバイキングとか北部イングランドとかの民話をモチーフにした架空世界なんですが、物凄く古風な「家」「一族」を大事にして生きている人々の世界で、結構簡単にバンバン人が死ぬんですよね。
SHOGUNはそれを「日本と武士道」に置き換えている感じで、これまた現代欧米人から見れば(現代日本人から見ても)結構ちょっとした理由でバンバン人が死ぬ社会が描かれてるんですが・・・
ただ、そうやって「人の命が簡単に失われる時代」に、だからこそ「よく生きるとはどういうことか」みたいな発想について突き詰めていく、みたいなテーマ性がすごい似てると思います。
SHOGUNについてレビューしてる欧米人のかなりの部分が「ゲーム・オブ・スローンズ」の話をしてますし、制作者も色々と参考にして作ってると思う。
そもそもこの「オープニング動画」↓からして、
勇壮な音楽と細かく動くジオラマ的な俯瞰画像の組み合わせ・・・がそのままゲーム・オブ・スローンズ↓という感じで。
2. 命が軽すぎる社会描写は、本当に「日本」なのか?
で、SHOGUNに描かれる日本は、ちょっと「図式的に過剰」ではあるんですよね。
主人公の三浦按針(徳川家康に仕えたイギリス人で本作の主人公の一人)が、自分にあてがわれた「部下」の庭師の爺さんに、「自分が軒先に吊るした鳥を触ったら駄目だよ」って言っておいたまま腐らせてしまって気づかずにいたために、その庭師の爺さんはそれを片付けると同時に自殺しちゃうっていう話が出てくるんですが、
いやいや、そんなアホな
って日本人でも思うと思います。
このへん、一個後の記事で書いた「菊と刀」レベルにはなってないというか。
上記リンク先の記事で書いたようにルース・ベネディクトの「菊と刀」のすごいところは
A・文化相対主義で異文化を対等に描く
だけじゃなくて、
B・「図式」だけで見ないで解像度高く理解する
の両方があるところなわけですが、なんかこう、SHOGUNの方はどうしても「図式的」な部分が過剰になっちゃうというか、「菊と刀」に書いてあるのを字義通りに解釈してそのままそういう筋立てにしました的になっちゃってる部分はどうしてもある。
こういう部族社会の成り立ちは、特に日本の場合、欧米における「宗教的不寛容」みたいな厳密性では成り立ってないところが欧米人が単純化して誤解してしまいがちなところで、なんとなく現場レベルで融通し合って問題が起きないように適切に処理する手管が存在するのもまた「部族社会」のありかた、みたいなところがあるはずなので。
そもそも、日本人が自殺しやすい国民というイメージもすでに間違っていて、例えば自殺率を見ると今はアメリカとあまり変わらない(2014年は日本のほうが高かったが2019年にアメリカが逆転し、その後あまり変わらない程度で一進一退になっている。特にアメリカは若年層の自殺が飛び抜けていて深刻)ぐらいではあるんですね。
だから、「え?この庭師自殺するかぁ?」っていう感じでシラケる部分はゼロじゃないんですが、ただ、かといって「全くその描写が日本社会の本質に立脚していないか」というとそういうわけでもないんですよね。
日本人が普段の生活の中で、外国人から見たら「なんでそんな細かい部分にこだわってるの」ってなるような部分でも物凄く必死にこだわって生きているような、そういう部分の背後にあるメカニズムには、やはりこのSHOGUNに描かれているような、「宿命」の考え方とか、「恥」とか「侮辱をすすぐことを目的とする生き方」といったメカニズムは確かにあるよな、と感じさせる部分はある。
単に「欧米人が勝手にエキゾチックに思い入れたいだけで作られた荒唐無稽なストーリー」かというとそうではなくて、むしろそこに描かれた「所作の美しさ」「人生の生き方」には、明らかに自分が生きているあり方への地続きの価値観を感じられる出来になっていると思います。
特に「所作」に関しては、ガチの日本の時代劇スタッフが関わって徹底的にやってるんで、グッダグダにダラけた所作が染み付いてる現代日本人よりよほど
「日本人としての正しい所作」
が身についてるし、それ自体がなんかすごい映像的なパワーを持っていてすごいです。
特に男性の「面構え」的な部分とか、女性の色香・・・みたいなのもほんとすごいあって、「現代日本人が色んなことをナアナアにすることで失われてしまったものを思い出させてくれる」的な要素はめちゃくちゃあったと思います。
3. 「イデアとしての日本精神」を描いているのが成功例としての”SHOGUN”や”ゴーストオブツシマ”
要するに、SHOGUNとか、「ゴーストオブツシマ」で描かれている日本というのは、「日本そのもの」というよりは「イデアとしての日本」なんですよね。
現代日本人は「誉のために死ぬ」「恥を雪ぐために死ぬ」とか誰も言わないわけですが、ただ、「そういう要素」が日本人の生活の中に無いかっていうとそういうわけでもない。
特に欧米人の生活の中で出てくる価値観と比較した時に、現代日本人の中にも「そういう要素」は確かにあるよなあ、という感じではある。
では一方で、欧米人はこの「欧米的に捉えかえされた日本時代劇」に熱狂しながらどこに感動してるんでしょうかね?
それはひとことで言うと結局、「都合の良い部族的論理」に耽溺したいと思ってる欧米人がすごい沢山いるってことじゃないかと思うんですね。
現代欧米のスタンダードとなっている「ある種の左翼的論理の絶対化」に過剰さや課題を感じている層が世界中にいて、それがその「代替物」としての「武士道時代日本の倫理」を再発見する構造になっているところがあるんじゃないかと。
4. 「アバター」シリーズが世界で最も売れてる映画である事情の背後にあるもの
この記事↓で昔書いたんですが、全世界の全時代の映画興行収入ランキングの一位がアバターで、3位がアバター2なんですよ。
人類さんアバター好きすぎ!って感じですが、アバターってそんなすごい映画か?って日本人は結構首をかしげちゃうとこありますよね。
アバターの世界観って、
「欧米的世界観に毒された私達にはわからない、高潔な精神と自然との調和に溢れた部族社会の論理に仲間入りして自分への疑念にまみれずに生きていきたい」
…みたいな欲求をそのままダダ漏れに表現した感じなんですよね。
当時の上記記事から引用するとこういう感じの問題があるわけですね。↓
全体的に言えば、
現代文明的な世界観の傲慢さvs.未開の部族社会が持つ叡智
…みたいなテーマではあるんですよね。でもこれなんか、物事の見方が図式的すぎて、もうなんだか「善」と「悪」のハンコみたいなのがあって、「はいこいつは善ね!」「はいこいつは悪ね!」みたいな感じでポンポン押して区分けしたような感じ(笑)
部族社会の人達が”神事”的な感覚で野生動物の狩りを行うのは英雄的・善的行為として100%称揚されるけど、一方で現代文明的世界観の中で捕鯨みたいな事をするのは「100%悪」みたいな。
もうパッキリとその間が全然ない形で無自覚に「善悪判断」がされてるのが、なんか凄い恥ずかしくなるというか。
あと、「部族社会の規範」みたいなものが凄い素晴らしいものとして描写されていて、
山にいられなくなった主人公たちが海の部族に「客人」として迎えられたなら、その「部族」の掟や積み重ねられた知識経験に敬意を払って、時々ちょっとイジメっぽいぶつかりあいも経験しながらお互いを理解していくのが美しい人間社会の営みなのだ
…みたいな展開も、「欧米文明の内側」だけで生きているひとが、外部の自分と全く関係ない世界としての「部族社会的なもの」に夢見すぎなんじゃないの?と思うところはある(笑)
ただ、
「社会にあとから入ってきた新人のあらゆる小さな不満」に対しても「社会全体で最優先に対処しなくてはならない」…みたいな昨今の先鋭化したポリコレ規範
…に人々が疲れてきていた情勢の中では、ここまで「部族社会的規範バンザイ」みたいな描かれかたをするのはそれはそれでレアなことで、歴代興行ランキングで全世界的なヒットに繋がっている源泉でもある
…かもしれません。
この「アバター」の場合は単に架空の異星人の世界を描いているので単純化すればするほどよいみたいな感じでしたが、SHOGUNやゴーストオブツシマの場合は、「日本という実在の歴史的集団」をベースにそれが作られているので、「一応その先」の展開もある感じなんですよね。
単に「部族社会礼賛」で終わるんじゃなくて「部族社会」と「現代的価値観」との間のコミュニケーションの中で、お互いに理解を深め合っていって…という展開を描くことができる。
「欧米人の目線」代表としての三浦按針の視点からいろいろな風習が描かれることで、「これはバカバカしい」と思う部分はそういうし、また「バカバカしいと思っていたけどその価値観に敬意を覚える気持ちになった」という展開もある。逆に欧米人の視点を日本人の集団側が取り入れるということもある。
いわゆる
・「社会問題を個人の側からだけ見る」
・「ちょっとしたミスマッチ」は全部「社会が悪い」ってことにする
…という世界観が行くところまで行った先で、「そういう話ばっかしてても社会良くならんよね」という感じになってきて、そういう価値観が見失っていた
・社会の側から個人を見て、それに対して”宿命”を感じるという価値観
・「社会が悪い」で終わらせずに、「自分自身の心身の選択」を見せつけることで社会を変えようとしていく相互コミュニケーションのあり方
…という、「部族社会側の持っていた規範」を再構築しようとする流れがあるんだと思うんですね。
そしてその時に「良いネタ」として成立するのが日本の時代劇なのだ、という感じですね。
これは日本人から見ても、「いやいや現代日本人はこんな感じじゃないから」とか思いつつ(笑)、でも「確かに自分の価値観はそうなってる部分もあるよな」と思える体験になってると思います。
僕はSHOGUNを見てから延々と「宿命」という考え方についてすごい自分の場合を考えちゃったりしました(笑)
5. 「リアル日本在住外人感」のある描写(笑)
SHOGUNはだいたい日本人はみんな日本語を話していて、三浦按針といくつかのキリシタン日本人だけが「ポルトガル語ができる」という設定で映画の中では英語を話してるんですが・・・
なんか、「実際の在日外国人マジでこんな感じだよな」っていうシーンが沢山あって結構くすっとするとこ多いです。
納豆食べれるかどうか、みたいな話とか、あと「いいえ!but…I」みたいなカタコト日本語のチャンポンで話す感じとか、めっちゃ「日本にいる外国人あるある」というネタを意識的に取り入れてると思う。
こうやって「欧米文明の外側にある異質代表」としての日本・・・という筋立てでいろいろなストーリーが語られること自体は、まさに「人類社会が真っ二つに分断されていく」時代における日本人のこれからの特別な使命を示唆していると思います。
さっきのアバター2に関する記事でも書いたように、日本は「個人主義」度で言ったら欧米と変わらないぐらい「集団嫌い」みたいな心理テストが出るぐらいには欧米化していると同時に、欧米から見た「異質な外部性」の代表的存在でもあるわけですよね。
それを生身のレベルで両取りに構築していって、いかに「欧米的理想」と「ローカル社会」をつなぐ視座を提供できる存在になっていけるかどうか。
これは一個後の「戦後日本統治がうまく行ったのは原爆でなく文化人類学」っていう記事そのものに続いていくわけですが・・・
そういう意味で、「今の欧米人が何を思ってこういう彼らなりの”日本時代劇”を作ってるのか」について、私達は真剣に考えていくべきタイミングになっていると言えるでしょう。
6. アサクリシャドウズの文化盗用問題のざっくり解説
そういう「幻想の中のイデアとしての日本」を描いているSHOGUNとかゴーストオブツシマと違って、もうちょっと違う視点を出そうとしてトラブルになってるのが「アサシンクリードシャドウズ」の黒人サムライ問題なのだと思います。
これ、日本人の性質から言って、単に「次の荒唐無稽異世界サムライバトルもの」では主人公が黒人ですってだけなら「はいはいそういうのもいいかもね」ってなってたと思うんですね。
日本における反応も最初はそんな感じだったんですが、その後二重三重にややこしいことになって大炎上案件になってしまった感じなんですよ。
これ、興味ない人は全然知らないと思うのでざっくり説明しますが、まず「アサシンクリード」シリーズというゲームがあるんですね。フランスのUBIソフトという会社が出しています。
これが、「色んな歴史の影にある2つの闇の勢力同士の争いがあったのだ」的なストーリーが展開しているシリーズで…
少なくとも過去のシリーズについては、歴史の教材としても使えるほどのクオリティで当時のその地域の街が再現されているという評判だったんですよ。
ギリシャ版のゲーム内さんぽ
9世紀のイラクバグダードの場合
イングランドを征服するバイキングの世界
こんな感じで、例えば「9世紀のイラクのバグダードでは、この歴史上の人物の背後に2つの教団同士の闇の戦いがあって」みたいなストーリーを、「現実の歴史」を縦糸に、「闇の教団同士の争い」を横糸に・・・という感じで描いているシリーズなんですね。
で、僕はこの中のひとつ、「イングランドを征服するバイキングのゲーム」=「アサシンクリードヴァルハラ」を一応プレイした事があるんですが、少なくとも僕みたいに北欧やイングランドの歴史をめっちゃ知ってるわけでもない人間からすると文句なく「歴史の一場面を目撃してる感」があるすごいゲームとしてありました。(ただ実際の本当の専門家からするとちょっと微妙な部分もあったらしいです)
「アサクリヴァルハラ」は、最初ノルウェーの雪に閉ざされた寒村からスタートするんですが、色々あって「兄貴分」の存在と一緒に「イングランドに攻め込むぞ!」ってなって、イングランドにわたってから拠点を広げてって、だんだんイングランド人とも馴染んでいったり、バイキング内での主導権争いでその「兄貴」と対立したり・・・とかしながら「その時代を体験する」ことができるすごいゲームでした。
「これの日本版」が出るってなったら日本人としては期待しちゃうわけですが、それの主人公が、伊賀のクノイチ女性と、弥助っていう黒人サムライという設定になっていて。
「弥助」というのは、織田信長が南蛮人の連れていた黒人奴隷が気に入って近習の者に取り入れたという史実があるんですが、それがなんか最近海外で「黒人のサムライがいた」というふうに拡大解釈した”ちょっとトンデモ歴史本”が妙に売れたりして余計に問題を難しくしているらしいです。
この「日本に黒人のサムライがいた!」っていうトンデモ本についてちょっとだけ抜書きしてくれてるツイートがあったんですが↓、確かにめっちゃトンデモ本感あります(笑)
パリに行ったミツヤタマキというサムライの写真が黒人に似てて、「ミツヤのヤ」と「弥助」の「ヤ」は同じ漢字だから弥助の子孫かも?なーんちゃってみたいな事が書いてある(笑)
このトンデモ本が結構アメリカで売れたらしくて、それをベースにして弥助の英語版ウィキペディアが編集合戦になったりしているそうで、ちょっと二重三重に頭が痛い感じになってますね。
また、UBIソフトのアサクリシャドウズ制作者インタビューで、「日本人ではない弥助の視点を入れることで、日本人以外にこの世界を理解しやすくできる」という意図が説明されていたのが、「日本人には感情移入できないってのかよ?」的な反発を生んでその部分はサイレント修正されていました。(このツイートがまとめてくれてます)↓
この記述↑が、以下↓のようにサイレント修正されてしまった
■
とここまで駆け足で事情を説明してきましたが(ご存知の方は迂遠ですいません)、そういった疑義が着くと、↓こういう「アサクリシャドウズ」の広告動画も、「あら捜し」をする眼で見ると色々と問題があるわけですよね。
安土城の畳が正方形だし、畳の縁を踏んで正座で座ってるのが作法と違う
とか、
”すすき”が見えてる秋のはずの風景に桜が咲いている
とか、アレコレ言われてて「確かにw」という感じになっています。
でもこれ、UBIソフトが、バイキングやギリシャやバグダードを描く時にはちゃんとしてたけど、日本の時はテキトーになった・・・かというとそれはちょっとよくわからないんですよね。
北欧のことそこまで知らない自分にとって「アサクリヴァルハラ」は完璧な「北欧世界」って感じだったけど、実際に北欧の専門家からすると「正方形の畳」「すすきの季節に桜が咲いてる」とかいうレベルのことはアチコチにあったのかもしれないし。
なにより、アサシンクリードは実はかなりSF的に「現代まで続く闇の教団同士の争い」を描く作品なので、バイキング時代のイングランドの山奥に「天空の城ラピュタ」みたいな超高度技術っぽい古代遺跡があって、その奥地で「エクスカリバー」っていう剣を入手できるみたいなテキトーな世界観でもあるんですよね。
7. アサクリシャドウズが炎上した理由の本質は?
結局、以下のゴーストオブツシマの時の記事でも書いたように、「文化盗用」かどうかは「力関係」によるんですね。
キム・カーダシアンというセレブが自分の補正下着ブランドを「KIMONO」って名前で売り出した時は大問題になったけど、ボストン美術館が着物展をやる時に来場者に着付けをやったのは「文化盗用では?」と批判になったけど日本人は「どうぞどうぞ」と思ってたとか。上記記事では色んな例を出して解説してます。
で、上記記事で書いた「文化盗用」のジャッジはこうあるべきという部分を引用すると、以下の三箇条ということになるのかなと。
1・「文化盗用批判」的な緊張感があることは良いこと(他文化のテキトーな参照に慎重になるため)
2・しかし「本当に凄いもの」を作れば、文化盗用批判のような人工的な理屈は吹き飛んでいく
3・だからこそ、「形式的な理屈での批判」が暴走して表現の自由が失われないようにしなくてはいけない・・・要するに、
「どちらかだけ」が「絶対的な権力」を持てないような拮抗関係をいかに維持できるかどうかが大事
なわけですね。
この原則どおりいうなら、アサクリシャドウズもとりあえず作ってみりゃいいんじゃないの?という感じではあります。
作ってみたら、「ゴーストオブツシマ」みたいに「日本人からしても文句のつけようがない!」ってなるのか、「おいおい、畳の形が違うじゃねえかよお」とか延々言われちゃう作品になるのか。
作るのも自由だし、批判するのも自由というのが大事ですね。
今年の11月発売らしいし、自分はやはりこういうのは「実際やってみる」までは適当な断罪はしないでおこうと思うタイプとしてありますね。
さっきの「サイレント修正」されちゃった制作者の発言も、そこまで悪い意味ではなさそうというか、SHOGUNが「三浦按針の眼」で語られることで、日本社会の色んな風習を外部の人間が理解することができる「語り手」になれるっていう意味と同じことを言いたかったんではあったと思うんですよね。
そもそも現代日本人が「SHOGUN」や「ゴーストオブツシマ」の世界を見ていても、実際の自分の生活体験として「誉のために死ぬ」とかいう世界観が直接わかるようでわからん、みたいな感じではあると思うので、「外部人の眼で見直していく」というプロセスは日本人にとっても意味が皆無ではないはずですよね。
ただこの問題がセンシティブなのは、「日本人女性の忍者キャラ」はいるけど、「日本人男性のサムライキャラを排除」してしまった構造自体が、なんというのかすごい「文化盗用問題において最も重要な力関係の要素」をピンポイントで踏み抜いて問題化している面はあると思います。
要するに「アジア人女性」がハリウッド映画で「良い役」を得ることってすごい沢山あるけど、「アジア人男性」がちゃんと「かっこいい役」を得られることってすごい少ないという「まさに”文化盗用問題の根幹”」の部分がここにはあるわけですよね。
で、それを「黒人にしちゃう」っていうのは、なんか白人がネイティブアメリカンの衣装を利用してカッコつけるシーンと何が違うんだ?っていう話ではあるはず。
だから、単純に「おいこらふざけんな」っていう感情をぶつけていくことも大事なことだと思います。それは別に黒人に対する人種差別とかそういう話しじゃないはずなので。
玉石混交に、「玉」も「石」も作られながら、あるものは褒められ、あるものは徹底的に批判されながら、徐々に理解が深まっていくものだと思いますしね。
個人的には「アサクリヴァルハラ」が本当にすごく良いゲームだったと自分は感じているので、「アサクリシャドウズ」も一応は期待して11月には買ってみると思います。
■
長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございます。
今日アップする3つの記事はかなり相互に連動していて、「海外における日本時代劇のにわかなブーム」と、「イスラエル情勢において日本がしょっちゅう言及されることに関する日本人の使命」とは、表裏一体に作用しながらこれからの日本人のやるべきことを表していると思います。
ここまで「日本という国にまつわる特異な経緯」が重要な意味を持つ局面ってそうそうないと思うので、その「役割」をちゃんと果たせるような世界観を共有し、覚悟を決めていく道が見えてくるといいですね。
それが我々の「宿命」として見えてくるように・・・
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ここ以後は、「SHOGUN」に出てくる日本人女性の「すごい色香」みたいな魅力と、最近の日本における「萌え絵論争」みたいな話について考察したいと思っています。
SHOGUNに出てくる日本人女性って、英語話してるアンナサワイさん以外もものすごい魅力的だと思うんですが、そこにある「覚悟」のあり方みたいな世界観と、その「女性側の意思」と現代社会の構造とのミスマッチをどう考えるべきなのか、みたいな部分から考えることで、日本における「萌え絵問題」みたいな話の新しい着地点も見えてくるんじゃないかと私は考えています。
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つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2024年5月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。