都知事の有力候補たちが共通して掲げるイシューの一つに教育問題があります。小池百合子氏は「子育て・教育にお金がかからない東京へ」、田母神俊雄氏「東京が日本の教育を担う先頭に」、石丸伸二氏「必ず100億円を確保し、学校現場に投資します」、蓮舫氏は具体的な教育内容というより子供が多い家庭への家賃補助とか学校給食の無料化拡大といった内容になっているようです。
各候補者、基本的にお金のことを中心に述べていて、唯一、田母神氏だけがより突っ込んだ教育への指針を訴えており、「日本人としての自信と誇りを持てる教育を実施する」「教育勅語を復活させ、道徳教育をもっとやっていく」(毎日新聞)といった発言をされています。
「教育はお金がかかる、だからお金を補助したりすることが重要である」という主張は間違いではないですが、必ずしもその方程式が成り立つわけでもないという点を私は指摘したいと思います。
私が育った昭和40年代、あるいは1970年代は子供も多く、その育て方もバラエティに富んだものだったと思います。スポーツにいそしみ、将来は、と聞かれれば親の家業を継ぐかなぁ、という人もいれば公務員や会社勤めをしたいという人まで様々。それこそ、もっと具体的な職業である美容師、看護師、パイロット、漫画家になりたいといろいろあったと思います。
バンクーバーでの介護職の採用面接をしていて「なぜ、日本で看護師になろうと思ったのですか?」という質問に対して7割以上の答えは小さい時に看護師と何らかの接点があり、その際の献身的な仕事ぶりに感動したから、と返ってきます。つまり小さいころから高校生ぐらいまでの間の経験値に基づく自我の芽生えがその人の一生を左右することも大いにあるといえそうです。
私の考える教育というのは2つあります。一つは知識と能力の教育、もう一つが自分自身の意識を植え付ける教育です。一種の哲学ですね。知識と能力の教育とは我々が一般に理解している学校での授業であり、その派生である試験です。知識や学識上の考え方を身につけ、理解、記憶し、それを試験という形で点数化し、本人の立ち位置を自覚させ、将来の夢や目指すポジションとの対比を行うものです。
多くの場合、親が「勉強しなさい」と押し込み、学校の先生が宿題を出し、クラスメートが今度の試験の話をささやきあう中で「勉強しないとヤバいぞ」という気にさせます。ただ、そこに本心から勉強をしたいという気持ちが必ずしもあるわけではなく、やらされ感満載という人が過半数ではないかと思います。
一方、勉強の意義を意識できるかどうかは子供一人ひとりがその目的意識を明白に理解しているかどうかであります。もちろん、子供にはそんな明白な意識はないので綿菓子のようにつかんだ実感がわかないことも多いと思いますが、上述の看護師のケースのようにその時は気がつかなかったけれど後で「あれは凄く良い仕事」と思うことはあるわけです。
その一番身近な影響力は親の仕事だと思います。小学校の子供たちに「皆さんのお父さん、お母さんがどんな仕事をしているか聞いてきてそれを原稿用紙2枚に書いてきてください」という宿題はきっとあるのでしょう。なぜなら子供たちは親が何をしているのか案外ほとんど知らないケースが大半だろうと察しているからです。
お父さんは朝7時に会社に行き、夜の7時に帰ってきます、ここは事実関係として知っているけれどその12時間に何があったのか、例えば会社はどこ、どんな部署、どんな人たちが働いていてお父さんはその中で何をしているのか、ということをしっかり理解しているケースは少ないと思います。
お母さんがスーパーでパートをしているとしてもどこのスーパーで何をしているのか、どんな客とどんなやり取りがあるのか、店の社員さんはどんな人で何が楽しいのか、あるいは大変なのか、という理解はほとんどないと思うのです。なぜ、お母さんはパートに出なくてはいけないのか、これすらわからないわけです。大人になった時自分の母親はパートに出ていたという事実だけが記憶に残りなぜそれが求められたかを理解することはないわけです。
10数年前にテレビ番組で「お父さんの会社に行ってみた」的な番組があったのですが、あれはきっと批判された気がします。なぜならクラス内での差別化が公然と行われるようなもので「〇〇君の家はいいよね、あんな立派な会社に勤めてさぁ。うちなんかさぁ…」という意識です。なのでクラスで発表しなくてもよいので原稿用紙に書く、先生と生徒だけのやり取りに留めるという工夫は必要でしょう。
教育とは学校の授業が半分、もう半分は経験値と実社会の理解の積み上げが半分だと考えています。その時に新しいことを見聞きし、「なぜ」を繰り返し感じることで自分が勉強することが必要なのか理解できるようになるのではないでしょうか?
都知事選の候補者たちが教育に投じるお金のことを一生懸命訴えていますが、それは二次的な話であり順番が逆なのです。クラスメートはさまざまな背景や個性を持つばらばらな集団であるという前提で皆が様々な意見を述べ、輪を作り、議論をして、双方の意見を尊重する意識を持つことが大事なのです。
学識部分はオンライン端末を駆使し、各生徒に見合ったレベルの教育を行い、できないところを繰り返しやるといったテクノロジーを駆使したものでよいのです。学校の先生が黒板に向かうスタイルは昭和初期のスタイルの継承であり、「上から目線」が強まる結果となります。「先生」は「先生」ではなくアドミニストレーター(管理官)でよいのです。
その代わり、これからの教育者、つまり「真の先生」はクラスをまとめ、各々の生徒が持つ個性を引き出し、それを育むためのインストラクターであるべきだと思います。申し訳ないですが、大学卒業し教育実習を終えたばかりの若い方々を「先生」とするのはまるで儒教の年長者を敬うような思想で私は今の時代には合わないと思います。
我々は「先生」という言葉を多用する傾向にありますが、政治家を「先生」というのもやめてもらいたいぐらいなのです。民主主義の根幹からすればこんなところで格差をつける必要はないでしょう。そして教育は金がかかる、という思い込みから脱却し、何をどうすべきか、教育委員会ではなく、第三者の専門家委員会でもっと討議すべきだと思います。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2024年6月30日の記事より転載させていただきました。