文春オンラインに、『「人間の価値」は何で決まる? オードリー・タンが見つけた人生で「稼ぐこと」よりも大切なこと』(22年7月19日)と題された記事があり、ある部族に関するタンさんの次の言が載っています――印象的だったのは、部族の間では資産の多さではなく、世話をした人や動物の数でその人の地位が決まることです。つまり、人の経歴や社会的地位は、どれだけの財産を持っているかではなく、何を与え、何を分かち合い、地域のために何を創造し、どれだけ多くの人を世話する能力があり、どれだけ多くの命を養うことができるかで決まるのです。資源を持っている人は、それを自分のために溜め込むのではなく、共有することで、部族内での評価を高めていきます。その時から、人の価値は蓄財の多さではなく、その財産をどれだけ人に分け与えたかにあると思うようになりました。
上記は正に指摘される通りだと思います。私はこれまで当ブログ「北尾吉孝日記」で人間の価値につき、偉人達の色々な表現を御紹介してきました。上記類では例えば、「人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」(アルベルト・アインシュタイン)や、『人間の真の値打ちは、その人がどこまで「人のお世話」が出来るかどうか、という一事に帰するともいえよう』(森信三)が挙げられます。また、「一人物の死後に残り、思い出となるのは地位でも財産でも名誉でもない。こんな人だった。こういう嬉しい所のあった人だというその人自身、言い換えればその人の心・精神・言動である。このことが、人間とは何かという問の真実の答になる」(安岡正篤)もその一つです。
私自身の言葉では、次のように述べておきました――私が思うに人間の価値とは、とどのつまり品性であり、そこに尽きるでしょう。隠そうにも隠せるものでなく、必ずあらわれてくるのがその人の品性であり、その人の真価というものであります。(中略)様々な事柄の結晶がそこに凝縮され結果として、品性ということで全人格的に集約されるのだと思います。私はまた同時に人間として、自分の為だけでなくどれだけ人の為に自分のエネルギーや知恵を費やしたかも大事だと思っています。(中略)第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの言にあるように、「人間の真の価値は、何を目指すかによって判断される」のです。人間の真価というのは所詮、人の為「何を目指すか」で、はかられるべきだと思います。
少なくとも、財産の多寡や学歴の高低といった世俗的成功者をして、価値ある人間あるいは価値ある人生を送った人だとは、大多数は評価しないのです。如何なる人を評価するかと言うと例えば、アフリカの地で沢山の人命を助くべく尽力し最後は己の命まで捧げて逝去した、ノーベル平和賞受賞者(1952年)アルベルト・シュバイツァーが挙げられましょう。また同様に、黄熱病と闘い自分を捧げた野口英世も未だ以て評価され続けています。あるいは功成り名遂げた人が、その成功を社会還元するという模範には、昔で言えば鉄鋼王アンドリュー・カーネギー、近年ではビル・ゲイツやウォーレン・バフェットが挙げられましょう。カーネギーに例すれば、カーネギー財団やカーネギー研究所、カーネギーメロン大学やカーネギーホール等をつくり、人類に対する貢献活動を積極的に行った結果において、後世に多大な影響を及ぼし続けています。
こうした在り方にこそ、人間の価値があるのです。世の為人の為どれだけ汗をかいて犠牲を払い如何なるプラスを齎したか、が大事だということです。最後に、松下幸之助さんの御著書『続・道をひらく』の中の一篇、「自分のもの」より次の言葉を御紹介し、本ブログの締めと致します――自分の身体は、自分のものであって、自分のものではない。血のめぐり、内臓の働き、どれ一つをとってみても、自分の意志によって動いているものはない。つまり、大きな自然の恵みで生かされているいわば天からの授かりもの。天から預っているものである。自分の金、自分の仕事、自分の財産。自分のものと言えば自分のものだけれど、これもやっぱり世の中から授かったもの。世の中からの預かりものである。どんなものでも本当は、自分のものというのは一つもないのである。(中略)身体も金もそして仕事も、いたずらに粗末に扱ってはいけないし、おろそかに考えてはいけない。大事に慎重にそして有意義に、その働きを生かしたいのである。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年8月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。