私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生は「人間の三原則」ということで、「第一は自己保存ということ。身体の全機能・全器官が自己保存のために出来ておる。第二は種族の維持・発展ということ。腎臓にしても大脳にしても、あらゆる解剖学的全機能がそういう風に出来ている。第三には無限の精神的・心理的向上。人間は他の動物と違って、精神的に心霊的に無限に向上する、所謂(いわゆる)上達するように出来ている」と述べておられます。
上記一番目の「自己保存ということ」及び二番目の「種族の維持・発展ということ」は当たり前のこととして直ぐに納得するものの、率直に申し上げて三番目の「無限の精神的・心理的向上」については少し違っているのではないかと思います。また之が、天が創りたもうた人間という存在の原則の一つであるかどうかも、私には分かりません。何故ならば精神文明というのは、機械文明のように進歩的様相を呈しておらず、往々にして退歩があり得るからです。私は嘗て此の「北尾吉孝日記」で、『人間の精神性』という中で次のように述べておきました――機械文明が人類社会の誕生以来今日まで退歩せず途切れなく進んできたのに対し、如何に崇高な精神性を帯びた人も何れは死を迎えねばならず、また偉大な子孫を残した人も皆地上から消え去らねばならないわけで、精神文明についてはその全てが確実に受け継がれ日々発展させて行けるかと言うと、死を境に一度途切れてしまうものなのです。戦争などは機械文明とは対照的に、人間の精神性が如何に進歩して行かないかを表す一つの典型例と言えましょう。
安岡正篤先生が他界され本年41年の日月を経過することになりますが、現代その精神はある意味生きていると言えば生きているものの中々残って行かない部分はあって、必ずしも先生が生き抜いた時代に比して「精神的に心霊的に無限に向上」しているとは言い難いのではないかと思います。国家というものが誕生して以来、人類は国家我(言わば国のエゴ)の類をずっと持ち続けてきました。「戦争ほど悲惨なものはない、こんな馬鹿なことは二度とすべきでない」ということを悟る人は結構います。しかし人類は、幾度の大戦を経て多数の犠牲者を生み不戦の誓いを掲げながら、戦争を完全否定することなきままに今日まできているのです。先日も田中角栄元総理の言をリツイートしたように、「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢となったときは、とても危ない」。
先月9日の「被爆79周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」は「式典に、イスラエルが招待されていない。そのことに抗議して、アメリカのエマニュエル大使は式典に参加しなかった。日本を除くG7やEUの駐日大使も連名で同じ趣旨の懸念を長崎市に伝えた。これらの国の大使は式典に出席しなかった。ところが、パレスチナのほうは式典に招待されている」(舛添要一)ものでした。此の件を巡っては様々な観点から色々な指摘が行われ大変な議論を巻き起こしたわけですが、私自身は何を差し置いてでも、人類史上最初で最悪の無差別大量殺戮に繋がった民間人に対する2発もの国際法違反の原爆投下を日本に行った米国、当国の大使が長崎という原爆投下地でも強く平和を希求して深く祈り多数の原爆犠牲者に追悼の誠を捧げねばならなかったと思っています。
米国という国の首脳陣が漸く広島・長崎を訪れるようなったのは、ここ15年程度の話です。2009年8月に着任されたジョン・V・ルース元駐日米国大使が「米国の大使として初めて、2010年に広島を、また2012年に長崎を訪問して以来、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念する式典に原則毎年参加し」(美根慶樹)始めたものです。本来であれば、米国は自らの残酷非道な行為自体をもっと真摯に反省すべきであり、上記式典の欠席など以ての外で、私に言わせれば全く反省が出来ていないのではとすら思っています。少なくとも米国は原爆投下の当事国なのですから、凄惨な歴史的事実を直視し続け、その責務をきちっと果たして行くべく、大いに猛省せねばならぬと思うのです。我々自身は第二次世界大戦後の米国による歴史的事象の数々を冷静に見、誰が幸せになったのか・何が良くなったのかにつき思いを致すべきでしょう。人間の精神性は常に進歩と退歩を繰り返します。だからこそ初代ドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクが言うように、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」のです。今尚世界中で続く戦争は深刻な惨状を齎しています。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年9月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。