アスリート遺伝子の研究停止:リテラシーなき21世紀の日本

Natali_Mis/iStock

9月16日付の「アスリート遺伝子の研究停止 国立スポーツ科学センター、差別懸念で」というタイトルの毎日新聞の記事を読んだ。記事によると「アスリートの選別や差別につながることを懸念する声が内部で上がり」研究を打ち切ったとのことだ。

2003年に私が東京大学医科学研究所でバイオバンク計画を立ち上げた時、「ゲノム研究は差別につながる」と大きな反対の声があがった。

ゲノム研究が進み、身体的特徴や性格、病気になりやすいかどうか、薬の効果や副作用に関連する遺伝子の違いを見つけて、オーダーメイド医療・予防につなげることがその目的であったが、日本では、科学の大きな可能性よりも、何かを懸念する人の声が大きく取り上げられることが多い。ゲノム研究に日本が取り組まなくとも、他国が取り組み、海外に置いて行かれることが明白であってもだ。

予測されたことだが、過去20年を振り返ると、ゲノム研究の進歩によって世界の医学研究は大きな進歩を遂げた。特定の遺伝子異常を基に抗がん剤を選ぶことは当たり前のことになった。血液でがんを診断したり、薬剤の効果を判定することもできるようになった。羊水を採取するリスクを冒さなくても、母体血で胎児の染色体異常や遺伝子異常を調べることも可能だ。

残念ながら、この国は世界のゲノム医療の動きから大きく遅れてしまった。科学分野で先行することなくして、世界に先駆けたイノベーションなど起こるはずがない。ベンチャー支援の問題ではなく、科学を育て、革新的なものにつなげるシステムがないのだ。種のないままに、水や肥料をやっても、日の光を浴びても果実は結ばない。

話をゲノムと差別の問題に戻すと、日本では根源的なことに深く切り込むことなく、今日まで時が流れてきた。批判が噴出すると問題から目をそらし、言うべきことも言わずに面倒を回避する。これでは科学は進まない。と言って、心卑しき人たちが、ゲノム情報を差別に利用しようとする動きが全くないわけではない。

しかし、ゲノム研究から差別が生まれたのではなく、もともと差別の材料とされてきたことに遺伝子情報が付け加えられただけである。米国の遺伝子差別禁止法は、これを懸念して作成されたものであり、遺伝子の違いを理由にする病気や身体的特徴のような差別に限らず、保険・就職・結婚などを含めてあらゆる差別をなくしていく不断の努力が必要である。

これには、教育が不可欠だ。単に差別がいけないという道徳教育だけでなく、その背景となる科学の教育も不可欠だ。ゲノム解析は、われわれの遺伝子の多様性を科学的に実証してくれた。みんな持って生まれた種が違うのだ。しかし、それを認めて尊重し、リスペクトするところから、新しい世界が生まれるのだ。

もちろん、遺伝子がすべてを決定づけるのではなく、生まれた後の様々な要因(食環境・生活環境・努力)も大きな影響を与える。アスリート遺伝子の研究を日本で停止したところで、世界は間違いなく、それらの研究を続けて、いろいろな運動能力に関連する遺伝子を見つけていくだろう。

科学的には明らかに個人間の差(区別)は存在している。陸上の100メートル走を見ればアフリカ系が有利なのは、誰が見ても明らかだ。その差を遺伝的な多様性が影響しているとして科学的に理解したうえで、科学的にその差を乗り越えていくのかを考えていくことが重要なのだ。

当然ながら、どんなに努力してもできないことがある。これを知ることも必要だ。たとえば、私の音痴などは、その典型例だ。絶対音階を持つ人と絶対音痴の私の遺伝子はどんな違いがあるのか、わかっても私は悲嘆しない。それが個性の一つなのだから。

大谷翔平選手と全く同じ努力をしたとしても、みんなが大谷翔平選手レベルに投げて、打って、走れるようになれるはずもない。アスリートの選別につながる恐れがあるというが、本当に科学的に根拠のある差があるなら、それを理解したうえで人生を選んでいくことも必要だと思う。私が自分の音痴遺伝子を知らずに歌手や演奏家の夢を目指していくとしたら、100%可能性のない夢を追い続けることが尊いのかどうか疑問だ。

もちろん人生で何に価値を求めるのかも、自分の判断である。科学的な判断材料を提供することは、選別でなく、客観的な人生の選択肢情報の提供につながる。これだけ多様性重視と言いながら、持って生まれた遺伝的な指標を否定する科学的なリテラシーの欠如はどうなのかと思ってしまう。


編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2024年9月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。