教育再構築、私案:基礎学力ほぼ世界1位が活かせない日本社会

日経に「大学再編、焦眉の急 総裁は国力の源を興す改革を」とあります。大学や大学の学部は増える一方、片や、学生は減る一方、少子化の真っ只中で学生を増やす方法は大学入学率を現在の50%程度から7割とか8割まで引き上げるか、外国人学生を受け入れるしかありません。極めて簡単な図式ですがやみくもに増やせばよいというものでもないでしょう。

サービスレベルが高まる大学教育 早稲田大学HPより

少子化が叫ばれ始めたのは昨日今日ではないのにいまだに大学はより多くの学生を募ろうと必死にもがくのは大学が教育の機関というよりビジネスの様相が高いからではないかと思うのです。

一般的なビジネスでは売り上げを上げるための方策の一環として店舗を美しくし、商品をきれいに並べ、サービス向上を図る、があると思います。これを大学経営に当てはめると新しい校舎を作り、大学アメニティ(学食や図書館、我が出身校では学生向けの立派なフィットネスクラブまで備えています。)、更には留学や就職などの学生サービス課が充実していることが必須条件。そのうち、学生は「エスカレーターがない大学なんて…」という時代が来るのでしょう。商業施設と勘違いするほどの立派な建物ならば確かに学生は集まりやすそうです。

ではそのような高いレベルのサービスを受けた学生が社会に出た時、十分な活躍ができるのか、ここが議論のしどころだと思うのです。この点については私も全然頭の中でまとまらないので、皆さんの意見もぜひ伺いたいところです。

少し偏った投げかけをします。

かつては女子が大学に行く必要はないと言われてきました。今の70代半ばから上の方で大学卒の女性の方は家がしっかりしていた(=金銭面だけではなくしつけや親の理解度という点)と思います。かつて「女子にも高等教育を」という時代が訪れ、短大が生まれます。ところが短大は長年、花嫁修業学校とも揶揄され、将来、良妻賢母になるための学問であってあくまでも家庭に入り、家庭をしっかり守るという発想が原点だったと理解しています。

時代は変わります。私は経済学部ですが、当時は教室にいる女子学生はまばらでした。今、我が母校ではかつて有名校だった「あの短大」が無くなったのに女子学生がやけに目立ちます。そう、女子の4大進学が急速に普及したとも言えます。女子が4大卒業するモチベーションは何か、といえば企業にあった総合職、一般職という色分けが薄くなり、女子が総合職でバリバリと男性と差別なく働ける環境が整備されてきたという点です。

そこでもう少し踏み込んでみましょう。海外にワーキングホリディに来る学生は圧倒的に女子が多いのです。カナダはワーホリのメッカですが、ざっくり9割は女子だと思います。面接で必ず聞く「なぜ、カナダに?」に対しての答えはおおむね「自分探し」「海外に興味があった」「日本に外国人が溢れているのに刺激を受けた」「英語がしゃべりたい」…と実に積極的な目的が多いのです。

彼女たちはワーホリを楽しんだ後、再び日本で海外経験を生かしてステップアップしているでしょう。こうやって非常に長い目で見ると男子主体だったわが国では女子の萌芽を感じないわけにはいかないのです。そしていったん成長路線に乗るととことんまで伸びるのが普通です。となれば私が投資家的視線で見れば「男子より女子に投資だよな」と思わざるを得ないのです。

では男子はこのまま埋もれていくのか、ここがひろ的教育再編の議論どころであります。

男子と女子の社会的平等は確立されつつありますが、生物学的特性はそれぞれあり、こればかりは変えられないものです。私はこの特性に目をつけてみたいのです。カナダで女性は顧客とのやり取りをするフロント業務を、男性が裏方の専門職をこなすという役割分担をする傾向があり、これに対して社会が「男女差別だ」というボイスを発することはありません。ならば日本もそこに目をつけられないかと思ったのです。

近年の男女平等、女子の地位向上、女子の社会進出…と女子厚遇が圧倒しています。これでは男子が腐る、そういう意見はなぜか一つもないのです。これがおかしいのです。男子にも期待されるビジョンを提示すべきなのです。

大胆な発想かもしれませんが、女子教育の更なる高等化、そして男子学生の専門性の追求、これがこれからの時代を生き抜く一つのアイディアになるとしたらどうでしょうか?女子がMBAをとるのが当たり前になる時代がやってきたら面白いですね。一方で男子は女子に言いくるめられないように専門分野を徹底的に磨きあげる、この両輪を廻すことを前提とした教育プログラムを小中高の時代から推し進めたら面白いと思うのです。もちろん、男子と女子の教育プログラムが別々というのは今の時代では許されないのですが、そのようなヒントを子供たちが将来を描く材料にしてほしいと考えています。

今、教育は小中高それぞれに同じような科目を同じような教育スタイルで繰り返しています。例えば歴史で習う大化の改新は645年ですが、それが歴史的にどういう意味だったかを答えられる生徒は少ないでしょう。それはナラティブな印象付け教育が行われず、パーシャルな記憶貼り付け型教育になっているからです。

以前、このブログでも申し上げたと思いますが、私は大学を卒業した時点での日本史に対する認知度は極めて低かったと思います。理由は小さい時に親も私もテレビをあまり見ず、勉強をさせられていたからです。ところがクラスメートは大河ドラマや朝ドラ、水戸黄門、時代劇など様々なドラマを見ています。(私は今だ「おしん」を知りません。)テレビドラマはナラティブ(物語)として記憶に植え付けます。これが私には完全に欠如していたのです。だからいい歳になって初めて歴史ものの小説を手にして「へぇ!」の連続だったのです。

今の若い方々に「織田、豊臣、徳川」の話をしたらよいでしょう。好きな人を理由と共に挙げてください、と聞けば多くは「織田」というかもしれません。理由は「格好いいから」です。日本史を理解するうえで答えがどうであれ、理由が「格好いい」というのは幼稚園の園児並みの答えですが、今のままではその程度の教育レベルになりかねないのです。

では日本人の教育は低下しているのか、といえば真逆です。2022年度PISA(学習到達度調査)では日本は数学的リテラシー、科学的リテラシー、読解力ともほぼ世界1位となっており、日本の学習レベルは非常に高い水準を維持していることが判明しました。ただ、日本はこれに踊っていはいけないのです。せっかく、良い学習スコアをとってもそのあと就労すると突然やりがいをなくす社会人が続出しているのも事実です。このギャップ感は教育から社会人への移行がシームレスではなくなっているということでしょう。ならばこれを教育の方からも改革する必要があると考えています。

特にAIが普及するにつれ、人は日常生活において調べたり、考えたり、議論する必要が減ってきます。それではブレークスルーができないことにも気がついてほしいのです。AIはビッグデータをもとに過去の流れから推測するものであり、レッドオーシャンの中における最適解なのです。しかし、AIに頼っていてはブルーオーシャンにたどり着きにくい、ここに気がつくことこそ、今の教育で認識し、個々の能力を引き出すことを目指さねばならないのだと感じています。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2024年9月26日の記事より転載させていただきました。

会社経営者
ブルーツリーマネージメント社 社長 
カナダで不動産ビジネスをして25年、不動産や起業実務を踏まえた上で世界の中の日本を考え、書き綴っています。ブログは365日切れ目なく経済、マネー、社会、政治など様々なトピックをズバッと斬っています。分かりやすいブログを目指しています。