パレスチナ自治区ガザを実質支配しているイスラム過激派テロ組織「ハマス」がイスラエル領に武装侵入し約1200人のユダヤ人を殺害し、250人以上を拉致した奇襲テロ事件が起きて7日で1年目を迎え、欧州で各地でも親イスラエルと親パレスチナの様々なイベントやデモが行われている。
ドイツ公共放送のニュース専門局は前日(6日)、ハマスの奇襲テロ1年目をテーマに討論会を放映していた。参加者のゲストの一人が「ガザを訪問し、パレスチナ自治区の一人の若い青年と話し合った時、『われわれはピース(平和)より正義(ジャスティス)を求める』と叫んだのに少々驚かされた」という証をしていた。世界最大の収容所と呼ばれているガザにパレスチナ人を閉じこめ、外部世界との自由な交流を拒んできたイスラエルへの怒りの声だ。パレスチナ人は「我々はイスラエルが建国されて以来、民族としての自治権を奪われてきた」と説明する。
一方、イスラエル側は「ハマスの奇襲テロがなければガザ戦争はなく、パレスチナ人もわれわれも平和に過ごしてきた」と説明、ガザ紛争の責任はハマスにあると強調する。
多くのパレスチナ人にとって先の青年の主張は正しいだろう。多くのイスラエル人はイスラエル側の見解に同意するだろう。すなわち、双方にそれなりのジャスティス(正義)があるわけだ。一方が100%正しく、他は間違っている、ということはないはずだ。
オーストリア国営放送は6日、同じように特集番組を放映していた。ハマスの奇襲テロで拉致された息子を持つ母親は返ってこない息子のために毎日涙を流し、息子が戻るまで人質釈放の抗議集会に息子の写真を張ったプラカードをもってネタニヤ政府とハマスに向かって人質釈放を訴えている。ハマスは当初251人を拉致し、昨年11月117人がパレスチナの囚人と交換で釈放された。現在も100人余りの人質がいるが、多くは既に亡くなっていると見られている。
ガザでは若い母親が一人の幼児を抱えながら、「夫も息子も亡くなり、家もなくなった。全てがなくなった」と涙しながら、配給される食事を得るために重い足を引きずりながら列に加わる。パレスチナス保健局の発表では、ガザ戦闘で4万1000人以上が犠牲になったという。ハマスのメンバーもいるが、多くは民間人、女性や子供たちという。
ハマスの奇襲テロで息子を拉致された母親も、ガザ戦闘で夫と息子を失った若い母親も同じように泣いていた。途方に暮れ、絶望に落ち崩れた姿にはパレスチナ人とかユダヤ人といった違いはない。ただ、愛する者を失ったために泣いているのだ。
ネタニヤフ首相はハマスを壊滅するまで戦いを続けるというが、イスラエル軍に殺害された多くのパレスチナ人家族の中から新たなハマスが生まれ、近い将来、イスラエルに戦いを挑むだろう。各民族には固有の歴史があるように、ジャスティスも民族、国によって異なってくる。だから、ジャスティスの旗を掲げて、他のジャスティスの旗をもつ民族、国家と衝突する結果となる。
一方、ピースはジャスティスとは違い、武器を捨て、戦場での戦いを止めれば実現できる。その場合、どちらが勝利したとか、敗北したということは、民族・国家の指導者にとって重要だが、大多数の国民は平和が戻ってきたことを歓迎するだろう。もう戦う必要がなくなったからだ。戦場で息子や夫を失う心配もない。勝った、負けたという戦の話は彼らにとって一義的ではないのだ。
ジャスティスや大義を掲げる政治家や指導者にとって、戦いは勝利しなければならないと確信している。しかし、ジャスティスを主張し続ける限り、多くの場合、ジャスティスの本来の目標である平和が遠ざかっていくのだ。
多くの義人、聖人はジャスティスのために命を落としてきた。キリスト教の歴史は殉教の歴史でもあった。戦争でも多くの英雄が生まれたことは事実だが、戦争を回避できるのならば、当方はジャスティスを一時的に放棄したとしてもピースを取るべきだと考えるようになってきた(もちろん、ジャスティスが平和をもたらすケースもあり得る)。
イスラエルの著名な歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は昨年10月27日の英国の著名なジャーナリスト、ピアス・モルゲン氏のショー(Uncensored)の中で、「歴史問題で最悪の対応は過去の出来事を修正したり、救済しようとすることだ。歴史的出来事は過去に起きたことで、それを修正したり、その時代の人々を救済することはできない。私たちは未来に目を向ける必要がある」と強調。「歴史で傷ついた者がそれゆえに他者を傷つけることは正当化できない。『平和』(peace)と『公平』(justice)のどちらかを選ばなければならないとすれば、『平和』を選ぶべきだ。世界の歴史で『平和協定』といわれるものは紛争当事者の妥協を土台として成立されたものが多い。『平和』ではなく、『公平』を選び、完全な公平を主張し出したならば、戦いは続く」と説明していた(「イスラエルよ、公平より平和を選べ」2023年12月1日参考)。
上記のハラリ氏の発言は当コラム欄でも何度も紹介してきた。世界の歴史に精通した歴史学者の主張は、中東情勢をフォローしていく中で、益々、「その通りだ」と思わざるを得なくなった。
中東は「アブラハムを信仰の祖」とするユダヤ教・キリスト教、イスラム教の発祥の地だ。彼らは神のジャスティスを最重要視する。それこそ信仰だ。ただ、個々の民族のジャスティスに拘るのではなく、それを止揚して神のそれに立ち返るべき時だ。同じ神を信仰しながら、双方が殺し合うことほど、親である神にとって悲しいことはないだろう。息子を拉致されて泣くイスラエルの母親、夫と息子を失って途方に暮れるパレスチナ人の若い女性、彼らの姿に神も泣いているはずだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年10月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。