古代史サイエンス:7000年前の朝鮮半島古代人は縄文人なのか? --- 金澤 正由樹

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2年前の記事「現代日本人は縄文人の直系の子孫なのか?」では、約7000年前に縄文人が海を渡り、当時は無人だった朝鮮半島に上陸し、そのまま定住したという大胆な仮説を提示しました。

古代史サイエンス:現代日本人は縄文人の直系の子孫なのか? --- 金澤 正由樹
2022年のノーベル賞は古代人のゲノム解析に 2022年のノーベル生理学医学賞には、スウェーデンのスバンテ・ペーボ教授が決まりました。 受賞の大きな理由は、ネアンデルタール人のDNAが現代人に受け継がれていることを発見したことで...

この一見奇抜なストーリーは、2022年以降になると、韓国人研究者も含めた多くの研究によって実証されつつあります。

一例として、2023年に発表された韓国人による論文では、東日本の縄文人が西日本に移動し、さらにその後、朝鮮半島南岸や宮古諸島に移動したという可能性が示されているのです(図1)。

朝鮮半島は7000年前まで無人だった

本当に朝鮮半島は約7000年前まで無人だったのか。これについても、2022年に発表された韓国人の論文によれば、約2万年前に氷河期が終わり、それまでの朝鮮半島の住民は北に移動し、7000~8000年前ぐらいまで事実上無人となったとされます。

不思議なことに、なぜかこの後には人口が急増しているのです(図2)

※ この論文によれば、人口増が始まったのは約8200年前とされるが、これは人間と動物のデータを取り違えたことによるミス。私がデータを補正した結果では、この時期は約7000年前となる(詳細は拙著を参照)。

この人口増は朝鮮半島のどこで起きたのか。これについては、同じ論文に地図が示されており、場所はすべて日本寄りの海岸でした(図3)。

朝鮮半島古代人のDNAは縄文人と同じだった

こうなると、出現した朝鮮半島古代人はどのようなDNAを持っていたのかが知りたくなります。これに関しては、既にいくつかの研究が公開されており、それらをまとめた結果が、2021年のNatureに論文として掲載されています。

図4は、この論文に掲載された主成分分析によるゲノム解析の結果で、物理的な距離が近いほどDNAが似ていることを示しています。見たとおり、朝鮮半島南部古代人(十字の星形)は、すべて赤点線内にあり、現代韓国人(黄色)よりは、現代日本人・現代沖縄人(灰色)や縄文人・弥生人(五角形)に似ているケースが大半であることが分かります。

なお、分析の対象となった人骨が出土した場所は次のとおりです(図5)。

図5 朝鮮半島古代人人骨の出土場所(Fig.3に拡大図を追加)

以上のことを整理すると、

  1. 約2万年前に氷河期が終了し、それまでの朝鮮半島の住民は北に移動したため、約7000年前までほぼ無人となった
  2. その後の朝鮮半島では、約7000年前から人口が急増したが、場所はすべて日本寄りの海岸だった
  3. 出土した人骨を分析したところ、朝鮮半島古代人の多くは縄文人とほぼ同じDNAを持っていた

となります。

よって、素直に考えると、約7000年前に縄文人が海を渡り、当時無人だった朝鮮半島に上陸し、そのまま定住したという結論が得られます。とはいうものの、相当に意外と感じる人が大部分でしょう。

では、なぜ縄文人は約7000年前に海を渡ったのか。

実は、2年前の記事「現代日本人は縄文人の直系の子孫なのか?」でも紹介したとおり、約7300年前には、薩摩半島南方に位置する鬼界カルデラで、過去1万年では世界最大級となる破局的大噴火が発生しています。

大噴火による火砕流と大量に降り積もった火山灰により、南部九州の縄文人は壊滅。植生が回復するまでには数百年が必要でした。かろうじて大災害を生き残った北部九州の縄文人は、朝鮮半島南部にまで避難して移住したということが、最も可能性が高いシナリオとなります。

なお、この噴火による火山灰は赤っぽい色をしているため、「アカホヤ」と呼ばれています。

土器でも確認できる縄文人の朝鮮半島への移住

同じ結論は、九州と朝鮮半島から出土した土器からも確認することができます。

朝鮮半島独自かつ最古とされる土器は、「隆起文土器」と呼ばれます。同時期の九州の縄文土器は「轟B式土器」です。

従来の定説によれば、「これらの土器はそれぞれの地域の遺跡において、わずか数片しか出土しない場合が大半で、遺跡における在地の土器の出土量に比べると占める割合は極めて低い」とされてきました。だから、隆起文土器は朝鮮半島独自、轟B式土器は日本独自だというわけです。

しかし、2017年に発表された熊本大学考古学研究室の対馬・越高遺跡の発掘調査では、大量の隆起文土器が出土し、この定説が覆ったのです。次は同じ年の長崎新聞の記事からです。

対馬市上県町越高にある縄文時代の「越高遺跡」で[2017年9月]18日、市教委と熊本大は2015年から続ける発掘調査の現地説明会を開いた。発掘した土器片のほとんどが朝鮮半島系の「隆起文土器」で、朝鮮半島から渡ってきた人が暮らすため対馬で作ったものとみられる。
(中略)
隆起文土器は、作る際に粘土の帯を貼り付け、指や爪などを押しつけ装飾する。朝鮮半島南部で紀元前5400年~同4400年にかけて多く製作された。3年間の調査で出土した土器片約470点のうち、ほとんどが隆起文土器で対馬産粘土で作られていた。

では、本当に朝鮮半島からこの土器を携えて人々が渡って来たのでしょうか。

その後、2019年に熊本大学が公表した報告書によると、越高遺跡の開始年代は約7200年前となります。これは、放射性炭素年代測定法と、土器が出土した地層でほぼ確定しています。このことは、越高遺跡の年代は、約7300年前の鬼界カルデラ大噴火とほぼ同時期かその後ということを意味します。

朝鮮半島ではどうか。2023年の長崎県の報告書には、対馬から最も近い釜山の東三洞・凡方遺跡の発掘調査の結果が公開され、東三洞遺跡は次のように説明されています。

  • 8層(黒色腐食土層)と9層(明褐色混貝土層[7300年前=紀元前5300年のアカホヤと思われる])では、隆起文土器(紀元前5600~4700年と推定)が安定的に出土。
  • 黒曜石はすべての層で出土。うち帰属時期が明確なのは8・9層、7層、2層。
  • 8・9層では轟B式土器が出土し、九州地域前期に並行する時期であることが分かる。

図7は同じ報告書の凡方遺跡の調査結果です。最も古い土器は、約7300年前のアカホヤと思われる赤褐色の地層(Ⅷ層)の上から出土しています。日本産の黒曜石や轟B式土器も同じ地層から出土。

「渡来人」は存在しなかった可能性が高い

日本人の成立については、従来の定説「二重構造説」によれば、朝鮮半島の渡来人が水田稲作などの先進技術を携えて日本列島に到来し、縄文人と混血して弥生人になり、現代日本人に続いているとされます。

この説が正しいとすると、これまで説明した事実との整合性から……

  1. 約7300年前の鬼界カルデラ大噴火の直後、無人だった朝鮮半島の日本寄りの沿岸(だけ)に、「突如」として「縄文人」のDNAを持った人間が出現した
  2. この出現の直後、ほぼ同時に出現した対馬の縄文人と交流し、現地で「隆起文土器」を製作した(あるいは作り方を教えた)
  3. それだけではなく、日本産の黒曜石を入手して朝鮮半島に持ち帰った

という極めて不自然な仮定をしなければなりません。

そもそも、「突如」として出現した朝鮮半島古代人が、日本列島の地理や特産品に詳しいはずがありません。前述のように、対馬では約7200年前の越高遺跡が最古とされているため、1と2はほぼ同時期の出来事ということになります。もちろん、こんなことが絶対にないとは言い切れませんが、極めて非現実的というしかないでしょう。

それなら……

  1. 鬼界カルデラの大噴火直後、北部九州の縄文人が難を逃れて、当時は無人だった対馬、そして朝鮮半島に渡って定住した
  2. 朝鮮半島には、対馬の隆起文土器と日本産の黒曜石を持って行った

と考えた方がはるかに自然です。

つまり、朝鮮半島古代人は縄文人であり、仮に「渡来人」が日本に来ていたとしても、それは縄文人の末裔ということになります。

あまりにも奇抜な仮説なので、簡単には信じられないかもしれません。しかし、今まで述べたことは、現時点で判明している多くの事実を矛盾なく説明できる、最も可能性の高いシナリオの1つではないでしょうか。

金澤 正由樹(かなざわ まさゆき)
1960年代関東地方生まれ。山本七平氏の熱心な読者。社会人になってから、井沢元彦氏と池田信夫氏の著作に出会い、歴史に興味を持つ。以後、独自に日本と海外の文献を研究。コンピューターサイエンス専攻。数学教員免許、英検1級、TOEIC900点のホルダー。

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