はじめに
何者かによって語られる出来事への視点や解釈(ナラティブ)は、社会や世界そのものを表さない。あくまでも複数あるうちのひとつの出来事で、しかも客観的ではなく、語る人の数だけ体験と感情があるのを示しているにすぎない。もしかすると言葉足らずかもしれないし、話を盛っているかもしれない。
だが誰か一人の、あるいは特定の集団の語りから生まれたナラティブが、政治や社会を動かしている。
それは証言から始まった
誰かが声を挙げる。電車の中で赤の他人に体を触られた。原発事故の影響で鼻血が出た。親が宗教の信者なので割を食った。こうしたナラティブから幾多の社会を動かし変えようとする運動が始まった。
きっかけとは、こういうものだ。しかし、語り手以外に目撃者がいない場合が多く、語り手も運動の担い手も感情に支配されやすいうえに、当事者を問い詰めてしまうのではないかと検証がためらわれる。
痴漢被害を訴える人に「その出来事は本当ですか。ほんとうに彼が犯人ですか」と問いかけづらい。原発事故の影響で鼻血が出た、体調が悪いと語る人に「それは被曝症状ではない」と声を掛けたとき、当人だけでなく周囲から「疑うのか」と責められた。
信者家庭の子弟問題いわゆる「2世問題」もそうだ。被害を訴える人の主張に疑問を呈しにくかっただけでなく、検証しようとする人々に世間からの風当たりが強かった。
ここで、実態が知られていないうえに、とても象徴的な、いわゆる宗教2世とナラティブの関係について紹介しようと思う。
怒涛のように現れた宗教2世
旧統一教会の2世を取材する際に、教団に相談すれば該当者を紹介してもらえただろう。だが偏りのない取材を行いたかったので、独力で信者家庭の子弟を探した。あたりまえだが、2世探しは難航した。
ところが、旧統一教会2世が怒涛のようにテレビ番組や新聞記事に登場して証言をしていた。その後の取材で、2世を束ねてコーディネートする放送関係者の存在を知った。選ばれた人たちがマスコミでナラティブを語っていたのだ。
私は独自に信者家庭の子弟を探した甲斐があり、信仰を継承している人、継承していない人、さらに考え方の違う人々から聞き取りができた。するとマスコミで語られたナラティブが、嘘か誠かといった単純な話では済まないのがわかった。
2世問題は、宗教が関係していたとしても家庭の問題として扱うべきものや、子供または親そのものに原因があるケースも少なくなかった。ナラティブを語る者も、その内容も、意図も、多種多様だったのだ。
旧統一教会信者家庭に生まれ信仰を継承していない男性は、「親への不満、自分が社会にうまく溶け込めない理由、挫折などを、2世たちは宗教のせいではないかと考えがちだ。
こうした不満を、マスコミが刺激して虐待されたと語る証言が増えたのではないかと感じる」と自らの体験を振り返った。また、資産を目当てにして親や他の兄弟と仲違いをしている例があり、2世が親を禁治産者扱いしている家庭についての証言もあった。
消費者庁に寄せられた相談は高齢信者に対してのものが多く、しかも献金額をまったく把握していないケースが大多数だったことからも、相続がらみの事情が背景にあるのは間違いないだろう。暗殺犯山上も5千万円返金されていたにもかかわらず、X以前のTwitterで母親の資産にこだわって繰り返し発言していた。
もちろんナラティブには事実もある。だがそれを確かめるため、宗教からの被害を訴える子弟らに「それは宗教の問題ですか。それとも家庭の問題ですか」と問おうとすれば、「壺」「ズブズブ」と声高に批判されたのは記憶に新しい。
そして前記した多様な子弟からの、多様な語りは無視されるか排除され、後に語り出す者が現れると攻撃され、ナラティブを世に問うことさえ難しかったのである。
ナラティブと公益性と刑事告訴
個人のつぶやきなら別だが、社会を変革する願望を抱え、このために運動を起こすなら言動に公益性が問われる。公益性とは「広く世人を益すること」なので、さまざまな人から、さまざまに質問され、さまざまな検証が行われ、さまざまな意見が寄せられて当然だ。これを加害と切り捨て、賛同者だけの意見を正義と位置付ければ、摩擦が発生するどころか社会が分断されないほうがおかしい。
前述の痴漢被害、被曝と体調不良、信者子弟問題のすべてで摩擦が発生している。直近では、被害を訴える2世女性の証言を、旧統一教会信者ではない人物が事実と異なるのではないかと発言し、刑事告訴される出来事があった。
この人物は、旧統一教会報道から関係者の談話まで網羅的に検証して、マスコミの姿勢が一方的な点や、意見を述べ合う機会が平等に用意されないのを問題視するに至った。この過程で、2世女性の証言が公益性を問われるべきものと判断したのだ。
疑いをかけた内容だけでなく、投稿時の言葉遣いなどもからむ問題であるし、私は余人より事情を知っているとはいえ事実がどこにあるか断定するだけの知見がないので、刑事告訴そのものについて触れようとは思わない。だが前述したように一部の信者子弟のナラティブだけが絶対視され、批判どころか検証を許されないなかでの、異議申し立てだったのは指摘しておきたい。
この分野は福田ますみ氏の取材がもっとも詳しく信頼できる。前述した2世女性が語る内容について検証し、証言通りでないものがあると指摘したのが福田氏だった。この女性は家族だけでなく、他の人々も強い言葉遣いで批判している。
こうした発言はつぶやきや愚痴といった類のものではなく、世の中への問いかけであり、社会変革のためにメディアや自著のなかで行われたので、公益性が問われ福田氏によって検証されたのだ。なお私が知る限り、女性は検証に対して反論していない。
第四の権力マスコミと語り手の責任
旧統一教会をめぐっては「議論自体が悪である」とノーディベートの姿勢が貫かれた。一方的なナラティブと一方的な報道が善と悪を決めたのだ。裁判に例えるなら、公判が開かれる前にいきなり極刑が言い渡されたようなものである。前述の人物は、こうした状態を憂慮していたのだ。
ノーディベートの姿勢を貫き、検証も議論も封じ、マスコミを独占的に使い主張を拡散できる者が、絶対的な正義に位置付けられてしまうのは旧統一教会問題に限った話ではない。
マスコミは第四の権力と呼ばれ、立法、行政、 司法と同等の力がある。
スクープだけでなく、世論調査の結果を報道するだけで、権力者に直接影響を与えられる。ナラティブもまたマスコミによって個人の語りを超えて、政治を動かしてきたのは前述した。報道が市民に世論喚起を行い、政治家が世論に沿うように政策を修正するのだ。
政治家が政策を修正するのは、法や道徳に反しているとマスコミが声高に叫んで彼らの正当性を問うからだ。この10余年の間に原発ムラ、被曝と鼻血、アベ政治、モリカケ桜、接点、ズブズブ、裏金などといった誰かが使い始めたキーワードがマスコミによって発信され、印象だけが一人歩きして政治を左右した。そしてマスコミは、これらの真偽を議論することまで悪であるかのように振る舞った。
もちろん被害者が語るナラティブもだ。古くから記者やディレクターが語り手を捏造する手法が使われたり、読者投稿欄でナラティブを語らせたり操作してきたのがマスコミだ。
ナラティブが政治と社会を変えるきっかけになる以上、取り上げるマスコミだけでなく語り手も相応の責任負う。弱者や被害者が声を届けられるようにするため、彼らは守られなければならないが、ナラティブの内容は検証や批評の俎上にあげる必要がある。課題は、プライバシーと密接に結びついたナラティブを検証し批判する仕組みや、検証が攻撃や嫌がらせではなく正常な手続きであるとする合意が我々の社会にはない点だ。
だからマスコミは特権的な語り手を作り出して、ナラティブを重用する。社会的に失うものが何も無い人を「無敵の人」と呼ぶが、マスコミと結びついた語り手も権力そのものとなって無敵の人になる。
問答無用なノーディベートを当然とし、特権的な語り手をつくる人々と、特権的な語り手であろうとする人々が無敵さにこだわっているのだ。
編集部より:この記事は加藤文宏氏のnote 2024年10月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は加藤文宏氏のnoteをご覧ください。