今年(2024年)のノーベル賞はとりわけ日本の私たちにとって波乱であった。物理学賞がAIの基礎研究に授けられるにあたって、その先駆者である日本人科学者がわざと外されたという不満の声に続いて、平和賞が日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に授けられることへの驚きの声が続いた。
ノーベル賞と日本人… いい機会なので、アマチュア科学史家の端くれとして、このテーマで小論を寄稿させていただく。
ノーベル賞には毎回メッセージが託されている
ノーベル賞創設のいきさつについては検索すればわかるのでここでは省略する。「人類に最大の恩恵をもたらす人々」を毎年選び、メダルと賞金を授けるというものである。
実はもうひとつ、不文律の選考基準がある。「最先端研究の好ましくない動向に警鐘を鳴らす」ことだ。
分かりやすい実例を紹介しよう。2015年、日本の大村智が、W. キャンベルや屠呦呦とともに生理学・医学賞を授与されたケースだ。
医薬品の開発に同賞が与えられた例は、それまであまりなくて、1988年にJ. W. ブラック(H2ブロッカーの開発)、G. B. エリオンとG. H. ヒッチングス(抗ウイルス剤などの開発)に与えられて以来27年ぶりだった。その前となると、1957年のD. ボベット(抗ヒスタミン剤の開発)まで31年間のブランクだ。
つまり医薬品開発へのノーベル賞メダル授与は、およそ30年間に一度という狭き門だ。大村らの研究が、①どれも感染症への治療薬だった、②最新テクノロジーに頼らない自然物からの創薬だった、③アフリカなど貧困地帯で億単位の人命を救った。この三つを共通項としている、ということは…
「医療格差の是正」という、生理学・医学委員会からのメッセージが、この授与には強くうかがえる。
医薬品の開発には莫大な投資が欠かせず、しかも新薬としての成功率は約3万分の1だという。となると営利的判断から、利潤につながりにくい貧困地域の感染症研究は敬遠し、豊かな先進国に多い病、つまり癌や生活習慣病の治療薬開発に傾く。
この状態は果たして好ましいことなのだろうか。その気になれば治療法を見出せる病に、多くの貧しい人々が今も苦しんでいることにもっと目を向けてほしい… 大村らへのメダル授与には、そういうメッセージが託されていたように思われる。
ジャンプまんがを凌駕したAI
今年(2024年)のノーベル物理学賞がAIの基礎理論に贈られることが、どんなメッセージを伴ってのものなのか、想像してみよう。
日本発の人気まんが「ヒカルの碁」には囲碁の天才霊が出てくる。そして囲碁素人の男の子(小6)に取り付いて、この道に導いていく。
2016年末、この天才霊が実在するのでは…と噂が広まった。それも全世界に、だ。中国の大手囲碁サイトに、「Master」を名乗る謎の棋士が現れ、61戦60勝という強さを見せつけた。やがてその正体が明かされた。グーグルが開発した囲碁AI「AlphaGo」であると。
同社がAIに力を入れだしたのは、2012年。画像認識コンテスト「ImageNet」で、ある画期的なアルゴリズムが、初参加ながら優勝、それも二位を大きく引き離す好成績を収めたのが皮切りだった。
いわゆる深層学習。この開発チームのリーダーが、今回ノーベル物理学賞を授けられるジェフリー・ヒントンそのひとであった。
グーグル社はこの画期的研究を見逃さなかった。翌2013年には、ヒントン率いる研究企業「DNNresearch」(従業員3名)を買収して彼を迎え入れ、AI研究所「Google Brain」の非常勤研究員としてヒントンは、大学教授との二足の草鞋を履くことになった。
さらに翌2014年には、イギリスのAI研究所「DeepMind」がグーグル社に吸収された。謎の天才囲碁棋士「Master」ことAI「AlphaGo」を開発したのも、このチームだ。2016年には韓国の囲碁チャンピオンを4勝1敗で制したのは記憶に新しい。
同年にはAIによるグーグル翻訳機能が一新され、その滑らかな訳文に驚嘆の声があいついだ。私事で恐縮だがコロナ禍の頃、医学論文をいろいろ漁るにあたって、私は当時最新のAI翻訳をフルに使わせてもらった。「これはガンダムだ、これなら英語母語者でなくても英語帝国と戦えるじゃないか!」と身震いしながら…
そして2022年11月に始動した、対話型AI「ChatGPT」。誤った回答を自信ありげに答えたり、脱獄の技を答えたり、政治的に微妙な話題にばっさり回答を出したりと、いろいろ不安定さを抱えながらもバージョンアップとともに信頼性が向上していった。
今年(2024年)に入ってある物理数学者が「自分が教科書を書かせてもらえるのは、もはや今年いっぱいだ」とツイッターで自嘲していたのが印象的だった。教育はもともとどうしても教師>生徒の権力構造をはらむし、それがあってこそ回るシステムであった。しかし生成AIを使うと、まるでサポートセンターの係員のようにていねいに、腰を低くして、「ここがわからない」と問いを畳みかけても、疲れず腐らず答えてくれる。
もはや誰もが情報を、そして何より学習機会を、等しく与えられる世界となったのだ。「エントロピーは全体で必ず増大する」という物理学の法則がある。AIの進化は、この法則に拠る。
比喩的にも数学的にも、だ。
電子頭脳の雄・フォン=ノイマンも驚嘆
「エントロピー」については、ほとんどの方は「名前くらいは聞いたことがある」か「水に粉薬を落とすと、四方に散っていくっていうあれでしょ?」くらいの理解であろう。
別にそれでいい。なにしろ習うのは大学の理系、それも工学や物理学のコースだ。エントロピーは、物理学と情報理論をつなぐ、虹の橋である。
この「エントロピー」というメーターを、「エネルギー」のメーターとペアで使うと、物理現実と仮想現実の両方を、自由に行き来できる。
ヒントンが「AIのゴッドファーザー」として前より称えられてきたのも、1980年代よりこの二つのメーターをひとつの仮想マシン(いわゆる「ボルツマンマシン」)に落とし込むことで、人工神経ネットワークの研究を粘り強く推し進め、現代AIへの道を切り開いてみせたからであった。
その一方で、昨年(2023年)3月には米CBSニュース記者によるインタビューのなかで、この道の商業性拡大と発展に伴う危険性について、いろいろ懸念を語っている。
同年5月1日、彼の研究の根城でもあったグーグル社を離れたことをツイッターで公表した。
「グーグルを批判するためと報じられているようだが、そうではない。AIの危険性について公正に語るためだ。AIについて同社はむしろ責任を全うしてきたと考える」
日本のNHKによる単独インタビューをはじめ、その後彼はいろいろなマスメディアで発言を行っている。私なりに要約すると「グーグルやアップルなどの市場競争が、AIの明日、それも危険性についてむしろ目を逸らさせてしまってはいないか」というところだろうか。
事実、今年(2024年)10月、ノーベル賞の授与が公表された直後の記者会見で「私が誇りに思っているのは、教え子のひとりがサム・アルトマンを解雇したことです」と大胆発言がとびだした。
サミュエル・アルトマン。OpenAI社の若きドンだ。同社所属のひとりがAIの危険性を指摘したある論文に、彼が不快の念を表したとして、それが社内の研究者たちから「うちの親分はわかっていない」と受け取られて、取締役会によって同社から一度は追放された。わずか5日でこのクーデターはとん挫。11月22日、彼がCEOに復帰することが公表された。
エネルギーとエントロピーの饗宴は、次に何をもたらすのか
今年(2024年)のノーベル物理学賞が、現代のAIの基礎理論に送られる理由が、なんとなく見えてこないだろうか。
思い出してほしい。アルベルト・アインシュタイン(1921年度ノーベル物理学賞受賞)が、ちょうどアメリカのプリンストン高等研究所に在籍していた湯川秀樹(1949年度ノーベル物理学賞受賞)のもとを訪れ、大粒の涙とともにこう述べたという(真偽は不明だが)話がある。「あんなことになるのならE=mc2を私は世に出さないほうがよかった」
ヒントンの、とりわけ昨年の言動を振り返ると、彼がAIの爆発的といっていい進歩ぶりについて、アインシュタインと同じ懸念を抱いているのがうかがえる。
そこにノーベル物理学委員会が、メダル授与でヒントンに加勢した…というところではないかと私は想像する。現代のエクスカリバー(聖剣)ことノーベル賞メダル、これをそなたに授ける。商業主義に走る愚か者たちを、これを以て静粛せよ新たなる老賢者ジェフリー、と。
難点が三つあった。①ヒントンの研究は物理学というよりはコンピュータ科学、②彼の「ボルツマンマシン」を支える数式は(E=mc2のケースとは違って)彼の発明ではなかったこと、③その世界初のニューロン定式化を行ったのが物理学者でもAI研究者でもないこと。
今回の受賞で、日本の数理脳科学者・甘利俊一(③の人物!)の名がなかったのは私も真に残念だったが、委員会が望んだのは、AIの進歩に伴う、見えない明日への警鐘を鳴らすシンボル的人物として「AIのゴッドファーザー」ことジェフリー・ヒントンを選びだし、その発言を老賢者の予示として増幅させることであった…
そして物理学賞の正統さを保つために、物性物理学者ジョン・ホップフィールドが「ボルツマンマシン」のモデル先駆者として追加された…(実際プレスリリースに目を通すと、物理学の一貫として今回の受賞理由が長々と述べられている)
以上はあくまで私見である。
ただこの三日後、ノーベル平和賞が日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に授与されることが報じられた。賞委員会は部門別であるので、物理学賞とはむろん独立しての選考だとはいえ、科学史に多少でも見識がある者であれば、きっとこんな想像を広げただろう。
AIも核兵器も、エネルギーとエントロピーを両輪に置いている点では同じマシンである、と。