想定を超えるトランプの圧勝以来、例によってネットでは「予想を外した」マスコミへの冷笑が盛り上がっている。
嗤われても仕方ない面はあって、そもそも対立候補が弱々しいバイデンだった時期、日本のメディアは「ほぼトラ」「確トラ」などと言って遊んでいた。ところが7月に候補が替わるや「ハリス推し」が始まり、彼女が次第に勢いを失っても「ほぼトラ」表記は復活させず、せいぜいが接戦だとしてお茶を濁す報道に終始した。
とはいえ、結果が出てから「マスゴミガー!」と勝ち誇るだけでは、ただの後出しだ。なにも、改善する役には立たない。
ぼく自身、いわゆる「隠れ支持者」の議論に接して以来(たとえば以下の記事は8月)、トランプだろうと思ってはきたけど、それでもメディアの「開票が長期化」という予想は信じちゃったので、自慢できた口ではない。
世論調査で「トランプへの支持を隠す人」に振り回されるのは、米国のデータを参照する以上、どこの国でも避けられない。個人的には、むしろ日本に特有なのかなと思える「間違えちゃった要因」が別にあって、そちらの方が気にかかる。
9月10日にハリス vs トランプのTV討論があり、当時は前者の圧勝と報じられた時期のことだ。直後にテイラー・スウィフトがSNSでハリス支持を表明したことを採り上げて(ヘッダー写真はNHKより)、日本のTVの識者はこうコメントしていた。
玉川徹氏(元テレビ朝日社員)
”テイラー・スウィフトのハリス氏支持については、「今回(のテレビ討論会を)見て、ここだと思ってすぐ投稿したと思います」とコメントしていた。”石山アンジュ氏(起業家)
”テイラー・スウィフトが自身のインスタグラムを更新して「ハリス支持」を表明したことに関しては、「絶大な人気があるし、〔当落の予測が〕難しい状況なのに、支持を表明するのはすごいこと。日本にはなかなかないこと」と話していた。”
強調は引用者
スウィフトさんは歌手が職業の一有権者で、別に選挙の予想で食べている人じゃない。単にハリスの方がトランプより良いと思って、そう発言しただけのはずだが、日本では「ハリスが勝つから」表明した、いや「勝つかは確実じゃない」のに思い切った、という風に評価される。
個人の信条(主観)として「ハリスを支持する」ことと、客観的な情勢として「ハリスが勝ちそう」なことは別なのだが、両者がごっちゃになっている。言い換えると、この国の識者は「勝つのはトランプです。しかし、私はハリスを支持します」みたいに言うのが、よほど苦手らしい。
別の話題でもたとえば、「この戦争はロシアが勝ちます。私はウクライナを応援したいので、少しでも犠牲を抑えた条件での停戦を模索します」と発言する専門家は、長らく日本に出てこなかった。結果として、あれほど盛り上がった「ウクライナ論壇」がいかに悲惨な状況かは、本noteの読者はよくご存じだろう。
どうして、そんなことになるのか。よく言われる日本社会の「同質性の高さ」が、やっぱりここでも関わっていると思う。
むかし本で詳しく説明したけど、「予言の自己成就」という有名な概念がある。あの銀行は危ない、とする予言が広まると、預金を引き出す人が殺到して、本当に危なくなる、みたいなやつだ。
つまり「危ない」という主観的な価値判断が、実際の金融危機という客観的な現実に化けることは、よくある。その意味では、主観と客観をごちゃまぜにする人を一概にバカにできるかというと、そうとも限らない。
さて、トランプ当選に際しても社会の分断が云々されるけど、メディアで何か言っても「シラネ」「信じないし」とあしらう人の多い世の中では、主観は客観に化けにくい。逆に、おおむねどのメディアの論調も均一で、視聴者が一方向にガバッと動く社会では、予言が自己成就しやすい。
後者の典型が日本だが、そうした国ではメディアの中の人ほど、「別に、主観でも客観でもいいじゃないか。どうせ化けるんだから」という気持ちになりがちだ。でも、アメリカは前者の究極系だから、CNNではこう言ってますみたいな話をいくら重ねても、FOXを見る人には関係ない。
さて問題は、いま世界の全体を見渡したとき、日本型と米国型と、どちらの国が多いのかということである。これはずばり主観ですけど、やっぱりアメリカの方なんじゃないすかねぇ。
忘れた人もいるかもだけど、2020年からのコロナ禍では、米国の対応は州の知事が民主党系(行動制限)か共和党系(経済重視)かで割れた。あれだけの世界的なパニックの中でも、国全体が「一色」にならなかったわけだ。
欧州はスウェーデンを除き、行動制限一色になったけど、これは法律で強制したからであって、日本人のように「メディアの予言になびいた」わけじゃない。だから現に、ロックダウンが長期化すると、「ふざけるな」と抗議する動きがどの国でも生じて、やっぱり一色ではなくなっている。
メディアの流す情報を日本人がみなほいほい信じて、簡単に一色に染まるのは気持ち悪くもあるが(いわゆる同調圧力)、分断が少ない社会ゆえだとも言える。デモと警官の暴力的な衝突を見ずに、コロナもやり過ごせたある種の「平和さ」を、ぼく自身は支持しないけど、安易に否定もしない。
ただその平和がいつまで続くかは、わからない。
なにより、分断の少なさに甘えて「主観も客観もごっちゃ」な発信を続けながら、海外情報のコピペで「国際情勢に通じる」かのように装い、現実に裏切られるや沈黙か・手のひら返しか・キャラ変かで、生き残りを図るセンモンカは醜悪だ。
米国のカントリーリスクは、選挙で示されたとおりの分断だ。しかし日本には、均質性の高い社会が分裂する世界と接するがゆえの、別のリスクがある。メディアの予想がフェイクに終わった顛末から、私たちが得るべき教訓もまたそこにある。
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年11月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。