守るものがある人、失うものがない人

嘗て「Yahoo!ニュース エキスパート」に「守るものがある人と失うものがない人、どちらが強いか?」(22年12月18日)と題された記事がありました。「心理臨床家」の筆者曰く、その「正解」は「長期戦では守るものがある人のほうが強く、短期戦では失うものがない人のほうが強い」とのことです。

またある「専門家」等は「失うものがない人のほうが強い」と結論付けてもいるようですが、此の問題は率直に申し上げて、それは人によるとしか言いようがない、と思います。その上で私自身は基本的に、時間軸関係なしに「守るものがある人のほうが強い」と考えています。

失うものがない人すなわち守るものがない人というのは、ある面で何も頑張らなくて良くて幸せなのかもしれません。しかし悲しいかな人間である以上、無いものは手に入れようという欲が必ず起こってくるでしょう。欲が発生し邪念が働く中で、失うものがない人は自己を律しきれず、その自分に負けた弱い人間に成り下がるのです。

他方で守るものがある人というのは例えば、目に入れても痛くないような子供のため何としても頑張らねばといった部分はあるでしょう。自分自身に対する欲というよりも、何とかして子供に色々してあげたいといった親として当然の責務だとか情だとかは、結構強いものだと思います。

嘗て当ブログ「北尾吉孝日記」で、「発心」「決心」「相続心」ということを御紹介しましたが、自分の血を分けた子供の成長を見るに連れ、人はある種の強さを得て行く部分があり、その変化に対する決意は相続心にまでなって続いて行くというケースが私の経験上では多いように思います。

『西郷南洲遺訓』(岩波書店)に、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして國家の大業は成し得られぬなり。去れ共、个樣(かやう)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞ」(三〇)と記されています。

守るものがあるという場合、その対象が自分自身のものか否かを区別しなければなりません。己の地位や名誉、金といったものを守るのでは、之もまた之で人間として真に強いとは言えません。私は、そうした類を超越し他人や自分の子供等のために在る、という時に初めて真に強い守りになるのだろうと考えています。

「守るものがある人のほうが強い」か「失うものがない人のほうが強い」か、本ブログを読まれた皆様は如何に思われたでしょうか。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年11月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。