幼帝や女帝はどういう場合に登場したのか

ダイヤモンド・オンラインの記事で、「【光る君へ】0歳で即位の天皇も?平安時代に幼帝が珍しくなかったワケ」という記事を書いた。

【光る君へ】0歳で即位の天皇も?平安時代に幼帝が珍しくなかったワケ
『光る君へ』では、一条天皇を演じた塩野瑛久さんの高貴で端正な顔と、視線や表情だけで感情の移ろいを繊細に表現する演技が、『源氏物語』の雅の世界をみごとに表現していた。それとともに、幼い親王たちのかわいらしさも話題になった。わずか9歳の後一条天皇が、生母・彰子皇太后に抱かれて高御座(たかみくら)に上って即位した。また、親裁...

ここでは、その一部を提供して皇位継承史の概略を説明したい。

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この時代、幼い天皇は珍しくなく、父である一条天皇も7歳で即位している。最年少は平安時代末期の六条天皇で、2歳(数え年なので満年齢では0歳)で即位して5歳で退位している。

大和南部の小国の王として出発して、大和を統一し、吉備や出雲まで支配下に置いた崇神天皇は、卑弥呼の跡を継いだ宗女・壱与と同時代人で、250年前後の即位とみられる。 それ以前は、日向からやってきて橿原の地に小さな王国を建てた神武天皇から、親子継承が9回行われたとされる。

フランス王家では初代ユーグ・カペーから11代も父子相続が連続していたから、ありえないわけではないが、記憶が十分伝承されていなかった可能性もある。

崇神天皇以降は、父子継承が原則だが、長男優先とは限らない。母親の出自も大事な要素だった。即位は30歳以上を条件とし(例外は近親がいなかった武烈天皇のみ)、生前退位はせず、子どもが若すぎたら、兄弟や女性がつないでいた。

継体天皇については新王朝ともいわれる。だが、仁徳天皇の男系子孫が絶えたので、その父である応神天皇の男系子孫のなかから母系でも前王朝に近かった有力者が即位しただけだ(雄略天皇の母は継体天皇の家から出ている)。継体天皇が仁徳朝を征服して天皇になったのなら華々しい武勇伝があるはずだが、それが皆無なのは決定的な傍証だ。

聖徳太子が即位しなかったとか、大化の改新のあと天智天皇がなかなか即位しなかったとかいうのも、前述の30歳の原則で説明できる。壬申の乱時の弘文天皇は即位していなかったと思う。この原則が崩れるのは16歳の文武天皇即位の時だ。

初の生前退位は、大化の改新時の皇極天皇だ。大化の改新で皇極天皇がいったん退位したことで実現したが、626年の唐代に起きた玄武門の変で、髙祖から太宗に生前退位したことが影響したのでないか。

推古天皇は最初の女帝であるが、『日本書紀』でも、神功皇太后(開化天皇の男系子孫)は事実上の女帝として扱われているし(「女帝ではない」としたのは大正時代)、武烈天皇の後に飯豊皇女、宣化天皇の後に山田皇女を即位させようという動きもあった。

もともと男性で年齢的にも妥当な皇位継承者がいないときに、皇后や皇女が政務を預かることもあったが、文字の普及が進んだ時代の推古天皇に至り、正式に君主(当時はスメラギなどといっていたはず)として公式に扱うことになったのでないか。

わかりやすい例えでいうならば、零細商店で未亡人が「おかみさん」として店を取り仕切っていたのが、株式会社になって「社長」と呼ばれるようになったようなものだと思う。

天武天皇のあとは、皇后の持統天皇との子である草壁皇子が継ぐ予定だったが、若すぎたので、持統天皇が政務を見た(称制)。だが、草壁皇子が28歳で死去したため、持統天皇が即位した。

その持統天皇は54歳で譲位し、強引に孫の16歳の文武天皇に引き継いだ。壬申の乱を天智の娘である持統天皇と天智の弟の天武天皇の夫婦で乗り切った以上、この二人の血筋が優先すべきだという気持ちが、年齢制限の壁を乗り越えさせた。

ところが、文武天皇は病弱で25歳で死んだので、聖武天皇の成長を待つために、文武天皇の母の元明天皇とその娘で独身の元正天皇が即位し、聖武天皇が25歳になったところで即位させた。

聖武天皇は、光明皇后との娘の孝謙天皇に譲位した。だが、孝謙天皇は塩焼王を太子にしながら廃嫡し、淳仁天皇に譲位したのち重祚し(称徳天皇)、怪僧道鏡への譲位を模索したが諦めた。孝謙天皇の死去後、めいである井上内親王の夫で天智天皇の孫の光仁天皇が即位した。

この孝謙・称徳天皇の前後の時代にあっては、さまざまな登場人物の思惑が錯綜し、また、時とともにそれぞれが意見を変遷させていったので、藤原氏の思惑で事態が動いていったという捉え方は間違っている。

皇嗣たる次期天皇をあらかじめ定めて皇太子とか東宮とか言うことは、聖徳太子のころからあったようだが、奈良時代に律令制のもとで発展し、平安時代以降には定着し、立太子礼が行われ、そこで壺切御剣が親授されることが多くなった(戦国時代などでは儲君の比定のみで儀式は省略)。

平安初期の恒貞親王(仁明天皇のとき)までは、皇嗣とされても廃太子されることが頻発した。だが、それ以降は、南北朝の混乱期を除けば、藤原道長の横車で辞退した敦明親王(小一条院)が唯一の例である(秋篠宮皇嗣殿下の立皇嗣と壺切御剣の親授は2022年に行われた)。