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999を「スリーナイン」と読めない方もきっといらっしゃるだろう。本当は Nine-nine-nine と発音しないといけないところを、同曲の作曲者にして歌い手・タケカワユキヒデは、映画のタイトルに準じて歌い上げている。
12月13日より、公開45周年として映画「銀河鉄道999」が公開中だ。X検索をしてみて、10代の頃に初遭遇したと思しい方々のつぶやきをいろいろ興味深く拝見した。
多少脚本書きの心得がある者として、最初にいわせてもらうと、この映画は、冒険伝奇譚の古典「西遊記」以上にめちゃくちゃである。
原作まんがをわたされた映画脚本家は「なんだこれは、同じところをぐるぐる回り続ける話じゃないか」と呆れたという。原作者から裏設定を聞かされたときは腹が立ったそうだ。
主人公の少年を導く謎の美女メーテルの正体は人さらいで、アンドロメダ星雲にある機械帝国の中枢を支えるためには、根性のある少年を生きたネジに改造して取り込まないといけないので、見込みのある男の子を銀河鉄道に導いて、途中の星々で冒険を積ませ、終着駅たる機械帝国でネジにする…
ネジ一本調達するのに、帝国の女王は、愛娘に美貌を与え、人さらいめいた銀河鉄道の旅を果てしなく繰り返させる… なんと非効率な!
こんなわけのわからないお話を、二時間の長編感動青春映画にしろと言われたら、たいていの脚本家は席を立ってしまうだろう。
岸恵子の主演映画にも参加
しかし石森史郎氏はそうしなかった。宇宙海賊ハーロックだの永遠の命だの、こんなものの物語的整合性を保つのはぶん投げて、主人公の男の子の、銀河超特急999の旅の目的をはっきりさせることに専心した。
原作まんがでは「終着駅にいけば機械の体を無償提供してくれると母さんが遺言を残したから」と主人公・鉄郎は言う。それに石森氏はおそらく噛みついていった。貴様は母親を機械化人に殺されていたのではないのか?いくら復讐は果たしたといっても、その後自分の機械化を夢見るのはおかしくないか?
この執拗な尋問の末に、原作の鉄郎と同じ魂を持ちながら、もっと一貫性のある、それと共に思春期化もされた主人公が立ち現れた。彼が999に乗りたいと願うまでの道筋が、彼の回想(十歳のときの母親との死別が、夢を視覚化する装置ごしに再生される)や、美女メーテルとの会話を通して明確に説明されていく。
鉄郎の再創造
⓵機械化人(物語世界においては支配階級と同義)が憎い、②機械化人の統べるこの地球から脱出したい、③母を殺した機械化人伯爵をこの手で成敗したい、④宇宙を舞台に自由に生きたい、宇宙海賊たちのように、⑤そのうえで機械化人になって永遠の命を得られれば、言うことなし、と。
そんな彼に、メーテルは超特急999の乗車券をくれる。どうしてくれるかというと、それは人さらいだからだが、映画序盤でそれを明かしては物語が台無しなので、違う理由が彼(そして観客)には提示される。「ボディガードが欲しいから」と。
「一人旅では心細いからあなたに連れていってほしい」。少年の自尊心を損なわないよう、彼女は笑顔でこう切り出す。鉄郎は基本的に単細胞頭だからさっさとこれにのってしまう。単細胞ゆえに観客もこの子に感情移入しやすくなる。999出発! ②機械化人の統べるこの地球から脱出したい、という夢がこれで果たされる。
③母を殺した機械化人伯爵をこの手で成敗したい、この夢を果たそうと鉄郎は、母殺しの罪人・機械伯爵の行方を捜す。彼の旅は、この行方探しが軸になる。
物語もスター・ウォーズ風に再創造
土星の衛星タイタンで下車すると、冒険の末に山賊アンタレスが味方になってくれる。伯爵の行方を知っているのは山賊の自分ではなく女海賊のあいつだと彼は鉄郎に告げる。999が太陽系を離れ、宇宙の外洋に出ると、女海賊の船が999とニアミスする。その船に鉄郎はわざと発砲する。怒った彼女は999に乗り込んでくる。それをチャンスに、彼女に事情を話す。その度胸を気に入ったのか、機械伯爵のいる星を彼女は鉄郎に教える。
その星に999が着くと、今度は酒場のマスター(ゴシップの生き字引と劇中で自己紹介する)から「あいつなら知っている」と教わって、鉄郎はその人物に会いに荒野をバイクで暴走。
伯爵の居場所を教えるのと入れ替わりにこの人物は死去。その魂が、とある宇宙海賊の船の電子頭脳に飛びこむ。この二人は無二の親友で、この縁から海賊ハーロックが鉄郎の味方になってくれる。
④宇宙を舞台に自由になりたい、宇宙海賊たちのように という鉄郎のヒーローそのひとだ。彼が問いかける。「ゆくのか、どうしても」 母の敵討ちのことだ。
後半は東映任侠映画
③母を殺した機械化人伯爵をこの手で成敗したい… この目的をその後鉄郎が果たすと、再び海賊ハーロックが問い掛ける。「これでお前の目的は果たしたことになるな」 すると鉄郎は言い返す。もっと上の目的が今の自分にはある、と。終着駅まで行って、こんな悲劇の源となっている帝国の中枢を、できれば自分の手で破壊してしまいたいと。
④機械化人になって永遠の命を得たい! という出発前の最終的な夢がこのとき放棄される。入れ替わりに ①機械化人(物語世界においては支配階級と同義)が憎い、が再浮上する。これを果たすために、銀河鉄道の旅を自分は続けるぞと宣言するのだ。
これに海賊ハーロックは男気をかき立てられる。親友の最期を看取り、墓まで作ってくれたこの少年が、それほどの覚悟で赴くのなら、加勢するのが真の海賊ではないか、と。
先ほどの女海賊もそれに同調する。鉄郎が看取った人物は、ハーロックの親友というだけでなく、この女海賊の彼氏。亡き彼のためにも、鉄郎は意地でも守ってやらねばなるまいと。
こうやって二人の海賊の男気が、段取りを踏んで鉄郎の旅の行く末に巧く収斂していく。
主人公の目的がだんだんひとつに絞られていくと共に、ほかの者たちも加勢していく、まさに東映任侠映画のフォーマットに沿って、脚本が練られているのだ。
スペースオペラなんてそんなもの
「どうしてそう都合よく女海賊が999にニアミスするんだ?」とか「加勢する皆がもともと互いに面識ありだなんてありえない」等の不整合の諸々については、「宇宙ものだから」でぶん投げて、鉄郎が旅を続ける動機と目的については、一本筋を通す…
こうやって映画「銀河鉄道999」は、原作まんがの様々な穴や欠陥を埋める…とはいかないけれど背骨はしっかりしたものにブラシュアップされたのだった。
映画版「999」にも影響濃厚な、当時の宇宙冒険ものの一大画期作「スター・ウォーズ」(1977年)からして、主人公ルークが宇宙英雄の道を歩みだすきっかけも設定も、非常に緩いものだった。
もし、あのロボットR2-D2が砂漠の小人族に捕らえられることなく、予定通り老賢者オビ=ワンのもとにたどり着いていたら、ルーク抜きであの冒険物語が繰り広げられていたことになる。
彼が銀河ヒーローの道を歩むよう、あらかじめ作者によっておぜん立てされているのだ。こういうのを「神の手」という。
この手をいかに巧く、見えないようにするかが冒険活劇の基本だと喝破したのは宮崎駿だった。「カリオストロの城」(奇しくも『999』と同年、五か月遅れで公開)は「スター・ウォーズ」のこうした欠陥への、彼からの創造的批評でもあった。
その分析は別の機会に譲るとして、この「999」はというと、神の手をどう巧く見えなくするかよりも、主人公の旅の動機と目的にフォーカスして整合性を保ち、ほかの諸々についてはヒロインの悲劇性とその別れに昇華させる、そういう割り切りのいい脚本だったといえるだろう。
同じ脚本家による映画「約束」(1972年)
最後に音楽的な話をさせていただきたい。青木望による叙情的なオーケストラ曲に見送られながら空に消えていく999を、見つめる鉄郎。そこに当時の人気絶頂バンド・ゴダイゴの熱唱が被さる。
この「銀河鉄道999」という歌、分析してみるとビートルズの代表曲「イエスタディ」と同じ作りである。
♪さあゆくんだ、そのかおをあげて♪
♪イェスタディ、オールマイトラボーシーソファーラウェィ
口ずさんでほしい。長調で始まって、途中で短三度下の旋律的短音階に切り替わって、旋律が駆けあがっていく。
ただ「イエスタディ」が、タイトルが示すように後ろ向きの歌なのに対し「999」はどこまでも前向きだ。日本語詞も、英語原詞も、挫折からの再起を歌い上げる。
昭和54年は遥か過去、20世紀は過ぎ去り、2010年代すらレトロの対象となりつつある令和の今も「銀河鉄道999」は弾かれ、歌われている。青春の夢破れし者が、それでも立ち上がって、次に向かっていく… それはこの宇宙冒険鉄道メロドラマ青春映画の魂そのものである。
石森史郎さん、この荒唐無稽な物語に、あなたは不滅の命を授けてくださいました。現在93歳というそのご長寿を、この場を借りて祝福申し上げます。