一大選挙イヤーだった昨年が閉じられ、『潮』誌2月号の特集も民主主義。佐々木俊尚さん・東畑開人さん・開沼博さんとの読書座談会(岩間陽子さんは今回欠席)の形で、私も登壇しております。
同誌で活字になった回では、オルテガ『大衆の反逆』(23年11月号)、アインシュタインとフロイト『ひとはなぜ戦争をするのか』(24年7月号)がありますが、今回採り上げるのは森本あんり『反知性主義』。いずれも「知識人と大衆の向きあい方」がテーマの作品ですね。
同書の射程の広さもあり、多彩な内容を議論しておりますが、個人的に注目してほしい論点は、実はこちらでして――
與那覇:映画からアメリカの感性を読み解くのも、本書の魅力でした。興味深いのは、詐欺師の道中記を肯定的に描く、「コンマン」ものというジャンルがあると。
(中 略)
日本の車寅次郎も旅するテキ屋ですが、彼は共同体に交じれないマイノリティ。コンマンの活躍に「我々の先祖が来た道」を見出す米国とは、だいぶ違う。
63頁(強調は引用者)
寅さんの露店の口上は怪しいけど、詐欺師っていうほどじゃないでしょう。だけど彼は、実家に帰っても居場所がない。毎回マドンナといい感じの空気になっても、結局カップルにはなれない。
つまり日本社会における「アウトサイダー」が寅さんで、自分はこんな風には生きられないなぁと思うからこそ惹かれるわけですが、アメリカ人は寅さんより遥かにヤバいシノギで世渡りする人たちを「これぞ、俺たちの人生のモデル」って思ってる。そこに両国の差が出る。
で、いよいよ今月から、テキ屋以上に怪しげな ”Deal” を連呼するトランプがまた大統領になっちゃういま、これ結構大事だと思うんすよね。
『Voice』誌2月号の特集は「トランプ2.0」ですが、柳澤田実氏が「「生贄」で成り立つアメリカ政治」という、ショッキングなタイトルの論考で興味深いことを書いています。
副大統領になるJ.D.ヴァンスと、イーロン・マスクの共通の元上司がピーター・ティールですが、リバタリアンの最右派とも呼ばれるティールの思想のコアが、ルネ・ジラールの供犠論にあるという指摘です。
なぜ世界に争いが絶えないかといえば、人間は互いを模倣しあって「似たりよったりの欲望」を持つため、必然として過当競争に陥るから。そこから脱する手法がイノベーションだけど、簡単にはできないので、人は「こいつを叩くという点ではみんなで協力しよう」といった存在をデッチ上げて排除し、それによって社会を維持する…。
実は私、大学の勉強って面白いなと思うきっかけが、ジラールを援用した『男はつらいよ』の分析でした(テキストの著者はたしか、今村仁司か赤坂憲雄のいずれか)。葛飾柴又の「日本的」な共同体は、寅さんなる非・日本人的な生き方を「ああなったら真人間じゃないぜ」と晒し者にすることで、秩序を保ってきたというわけ。
言い換えると、日本人はジラールの供犠論を「あぁ、そうやって少数派を排除してる自分って、ちょっと後ろめたいなぁ」という風に読む。だから、犠牲にされちゃった寅さんへの、贖罪めいた憧れも生まれる。
しかしティールとかマスクとかヴァンスとかの、トランプを支持する系のアメリカ人は、絶対そうじゃないわけですね(苦笑)。
彼らはおそらくジラールをもっとニヒルに、「世界が生贄を欲するのは必然だ、諦めろ」的に読んでいる。その上で、むしろ大事なのは誰が生贄になるかが固定されないことだから、社会の変化を高速化して色んな奴らを「平等に蹴落としまくる」ことに、一種の公正さを見出している、たぶん。
IT業界の成功者が唱えるテクノ・リバタリアニズムは怪しいけど、それがウケる背景にもまた、「ぶっちゃけ、究極的に言えば俺らみんな詐欺師やん?」なアメリカの風土があるのでしょう。
イーロン・マスクの政権入りによって、そうした「詐欺師でナンボ主義」は、いよいよアメリカという国家の哲学になろうとしています。
第2次トランプ政権の下で、日本人は自らの感性とは正反対の、ニヒリストで攻撃的に ”Deal” を叫ぶ寅さんがマジョリティな同盟国とつきあうことになる。必要なのは「誰が最初にトランプに会うか」みたいな話じゃなくて、そうした省察であり、心の準備だと思います。
参考記事: いずれも『反知性主義』を引用
(ヘッダーは珍しく日米比較がモチーフだった、1979年の『男はつらいよ 寅次郎春の夢』より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年1月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。