「善玉と悪玉」がころころ入れ替わるような世相が、続いている。
最近影が薄いけれども、昨年の11/17には兵庫県知事選挙の番狂わせが大騒ぎになった。選挙の前後も含めて、メディアの論調の変化をざっくりまとめると、こんな感じになる。
①パワハラ疑惑で失職した斎藤元彦に、勝ち目なんか絶対にない
→ ②大逆転で勝ってしまったのは、草の根の支持を得ていたからですごい
→ ③しかしすごいのは広報戦略を立てた折田楓で、斎藤本人じゃない
→ ④その折田の行為は公選法違反の疑いで、実は大迷惑だった
→ ⑤本当にすごいのは告発者の不倫疑惑を暴いて、流れを変えた立花孝志
→ ⑥ところがその立花の暴露自体が、根拠なく盛った話だった
→ ⑦立花が攻撃を煽った結果、百条委員会の元県議が自殺に追い込まれた
→ ⑧立花いわく、元県議は逮捕しての捜査が迫っており悪いやつだった
→ ⑨県警が事実無根だと否定し、立花自身も虚偽だと認め謝罪した
敬称は一律に省略
もはや無茶苦茶で、「どんでん返し」が売りのミステリーでもここまで続く逆転劇は見ないが、しかしそれが私たちの日常になっている。
さて、私は選挙の3日後に当たる11/20に、以下の記事を載せている。当初は賞賛を集め、後に公選法違反の疑惑に転じた折田楓氏のnoteとは3時間しか差がなく、ほぼ同時。つまり③とぴったり同じ段階での公開だ。
読んでもらえばわかるが、その後④~⑨へと予測不能な手のひら返しのドミノが起きたにもかかわらず、訂正が必要な箇所はまったくない。
昨年12月からメディアの話題を独占している、「中居くん問題」でも同じだ。今年の1/27にフジテレビが会見を開いた際には怒号が飛び、追及は10時間に及んだ。ところが直後に『週刊文春』が記事の訂正を打ち出すや、「疑惑は誤報だった!」と言われて、文春の方が悪者になる。
で、会見翌日の1/28の朝イチに、私は以下のnoteを公開している。文春が訂正を広く告知し、「なぜ会見より前にしなかったか」との批判が高まるのは同日の昼以降だから、これまた逆転より前だ。
そしてやっぱり、読んでもらうとわかるけど、直す箇所はない。
……「俺ってスゴくね?」みたいな自慢には意味がなくて、大切なのは、なにが続くかわからない先行き不透明な時代に、後になって「あっちゃー!」と恥ずかしくなる発信をしないためには、どんな風に書くかだろう。noteのような個人の媒体じゃなく、いわゆる大手のメディアでも、X等での短いコメントでも同じだ。
ぶっちゃけ、シンプルである。「個人を標的にしない」。これだけだ。
兵庫県知事選や、中居正広氏のスキャンダルのような衆目を集める話題に接すると、人はつい言及したくなる。社会的な使命感もあろうし、みんなが注目しているから「バズるチャンスだ」といった私欲もあろう。
だけどそこで「斎藤元彦」は悪人だ、「折田楓」の戦術はすごい、「立花孝志」こそ民主主義だ、みたいに書いたら、彼らの評価が転じた途端に巻き添えになる。被害者を誘ったのが「フジのプロデューサー」か「中居くん本人」か、伝聞情報のみで判定してあれこれ書けば、文春のようなベテランの大手でも、訂正を要求されるリスクがある。
逆に、いったん個人の名前は忘れて、起きた出来事の背景にある「構造に焦点を合わせて」記事を書くなら、リスクは大幅に減る。人の評価は容易に覆るけど、「日本はどんな社会か」「いまはどういう時代か」といった大きな文脈は、そう簡単に変わらないからだ。
構造とか言われると、高尚なゲンダイシソー(現代思想)のようで二の足を踏むかもだけど、昔はみんな、そうしたセンスを持っていた。なぜなら、歴史というものを生きていたからだ。
1941年の12月に天皇が「裕仁」で、首相が「東條」だったから、アメリカとの戦争になった、という言い方は、別の人ならそうならなかったんですか? という問いを自然と惹起する。もちろん彼らの責任を問うことは大事でも、誰であれ同じ結果を招いてしまっただろう、もっと大きな歴史の文脈を捉えることの方がより大切だという感覚は、別に難しいものじゃない。
……が、まぁ最近は歴史学者のレベルも著しく落ちたので、ひょっとすると彼らには、「難しい」のかもしれないけど(苦笑)。
個人の評価は、すぐ変わる。時代や社会の評価は(もちろん議論や研究を重ねれば変わるけど)、そうそう動かない。
まじめに歴史に取り組めば、自ずと身につくそうしたセンスも、歴史なんか無視しても暮らせる時代には、つかまえにくい。だったらたとえば、歴史とは別の、こうした切り口はどうだろう。
ある種のパーソナリティの偏りを持つと、対人評価が極端から極端へと変動することが知られている。相手を好きな間は神様扱いして褒めちぎるのに、「裏切られた」と感じて嫌いになるや、人間の屑のように罵り始めるといった事例に、遭遇して戸惑ったことのある人は多いだろう。
・境界性パーソナリティ障害(borderline personality disorder)
対人関係、自己像、感情などの不安定および著しい衝動性を特徴とします。見捨てられることに対して敏感で、そうなるのをなりふりかまわず避けようとします。他者を過剰に理想化したかと思うと同じ人物をこき下ろすという具合に、その対人関係は極端で不安定です。
強調は引用者
平成から令和にかけて、やはり個人でなく社会の「構造」の全体が、このBPDに似てきつつある。
対人関係を可視化するSNSの普及によって、「フォロワーが減った」「いいねが少ない」ことに敏感になる人が増えた。だから世間の話題にはいっちょ噛みでも食いつき、かつ「主流」の論調に乗らないと安心できない。
なにより検索技術がヤバい。中居くんの印象がよかった間は、「中居くん いい人」でサーチすれば人の好い彼のイメージが(いまも)浮かび上がる。だけど不祥事が報じられた後で、ネガティブな用語と一緒に検索するなら、彼をどんどん嫌いになるような情報ばかり集まってくる。
「境界性ソーシャビリティ障害」みたいな、いまの社会のおかしさに特効薬はない。睡眠薬を飲むと誰でも眠くなるようには、飲んだ瞬間にみるみる治る精神病薬が存在しないのと同じだ。
大切なのは問題の所在に気づき、少なくとも症状を「悪化」させないよう気を配ることだ。前にも書いたけど、「病んでいるという自己認識を持つときに、あらゆる病は治癒への一歩を踏み出す」。まさにいまが、その第一歩が必要なときである。
(ヘッダー写真は、1/29の日本テレビより)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年2月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。