日本の新聞・テレビ・出版は、極端な分断を防ぐ「良識」を担保してきましたが、その限界も見え始めています。フジテレビの問題が広く批判された背景には、党派対立の薄れと新たなメディアの模索があるとし、オールドメディアがネットメディアと補完関係を築きつつ、新たな役割を果たす可能性を指摘しています。
2月7日に発売される本が、先週「校了(本作りの作業が終わって印刷所に送られる事)」まで来ました。
依頼を受けたのが2023年の10月で、書き始めたのは2024年の初頭だったと思うので、丸一年ぐらいかけて作った本ということになります。
でもなんかこの、「一年かけて本一冊書き上げる」みたいな試み自体が、ちょっと時代錯誤感ある気分すら今の社会にはありますよねw
もっと、その時々にホットな話題に最速で飛びついて、全力で煽ったポジション取っていかないと「言論」はできない(少なくとも”言論ビジネス”は成立しない)・・・という風潮になりつつあるので。
そういう意味では、今回の本は中央公論新社という「論壇誌」を未だに出してるザ・オールドメディア的出版社から出ている(読売新聞の子会社で大手町の巨大ビルにある)んですが、そういう「オールドメディア」のある意味時代錯誤なペースwと協調してやってみた意味はあったなと感じています。
中央公論新社は「中公新書」というかなりアカデミック寄りのシリーズが豊富にあって、そっちは「ガチの学問的な蓄積」で書かれてる本だから「一年どころかもっと時間かけて」書かれてる本が多いでしょうし・・・
で、日本における「出版・新聞・そしてテレビ」のオールドメディアってそれぞれぜんぜん違うキャラクターしてるようですが、「インターネット&グローバル競争時代のスピード感と先鋭化」について慎重姿勢であること自体は共通してる部分がありますよね。
そういう要素は、もちろん「時代錯誤でもう全然機能してない部分」でもありつつ、とはいえある種の「良識」のようなものを担保してる部分と両方ありますよね。
で、そういう「旧来メディアの慎重姿勢」によって、過去20年の日本が「グローバルで流行していた”先鋭化しまくる政治志向”」から距離をおきがちであったことは批判され続けてきたわけですが・・・
ただ、世界中の民主主義国家が社会の分断化によってメチャクチャ混乱してってる昨今においては、逆にその「日本の安定性」こそが「良識を担保したまま変わっていく」ために必要な配慮だったのでは?という理解も徐々に進んできているところがあると思います。
欧米における「先進的・進歩的」な人たちが「旧社会」的なものをあまりに「敵視」しすぎたために強烈なバックラッシュが起きると、「余計に反動的」な政策が実現しちゃったりしてるわけで・・・・
逆に「進歩的なムーブメント」には常に8ガケか6ガケぐらいで割り引いて見るのが常態になっている日本において、「強烈なバックラッシュ」にならずに相互理解を蓄積していって社会を変えていく道も見えてくるはずだと私は考えています。
「うさぎと亀」の競争のようにね。
そういう「新しい着地点」が見えてきているからこそ、昨今のフジテレビ&中居くん問題みたいなものが、むしろ「保守派っぽい」人からも共通で叩かれる流れも生まれているように思います。
そこには日本社会と「女性」との新しい関係性の萌芽もあるのではないでしょうか。
というわけで、そういう「日本のオールドメディアの時代錯誤な良識」の良い部分はどこにあって、しかし「時代とともに変わっていくべき部分」はどこにあるのか?という話について、掘り下げる記事を書きます。
1. 「オールドメディアの良識」はどういうところにあるのか
日本の「オールドメディア」の「良識担保機能」みたいなのに注目する議論は海外の学会とかでもあるらしく、明治大学の酒井信准教授のこの論文にも以下のような話がありました。
長年にわたりジャーナリズムを牽引してきた各国を代表する新聞社が、フリーペーパーの新聞や Web上の無料のニュース、SNS等を通して配信されるフェイク・ニュースとの競争に敗れ、極端化する世論に適応できず、厳しい経営状態に置かれている中で、日本の主要な新聞社が発行部数を減らしながらも黒字を維持している状況はMedia Studiesに関する国際学会でも注目を集めている
これは大枠で言うと、日本の新聞社ってだいたい安価で払い下げられた東京の一等地の不動産を持っていて、それによる不動産事業収入とか、あとテレビ局と一体化することでアレコレ収益を補填してもらっているとかの形で存続している面があるんですよね。
これが「ガチで新聞業だけ」で赤字なら即消滅するような構造だと今のようにはなっていないはずです。
日本の地方新聞も、「地方財閥」がアレコレ多角的に持ってる事業の一部として存続してるので消滅してない側面があるはず。
アメリカなんかはある時期に地方新聞が壊滅的に消滅していった流れがあり、大メディアも儲けるためにどんどん先鋭化・分断化した論調競争になってった側面があるので、そこで日本のメディア企業の収益構造が、「ある種の良識」の担保機能を持っていたことは疑いないと思います。
で、僕の個人的な話に戻りますと、この記事で書いたように、僕が前回だした本は雑誌『SPA!』を創刊したメンバーの編集長とガチ右翼雑誌出身の編集者の人によって作られたので、かなり「オールドメディア度」は低い感じだったんですよね。
「キャッチーで面白いものにしてやるぞ!」という気分がすごくあって、それはそれで「売出し中」の身だった自分には合ってたところがあったと思っています。
一方で今回の本を出してくれる中央公論新社って経営的には読売新聞の子会社で、かつ「沢山ある中央公論新書の過去ラインナップ」が売上に大きく貢献してくれてるらしくて、良くも悪くも「オールドメディア」感があるなと感じる事は多かったです。
前回の本は「もっとキャッチーに先鋭化しましょう!」っていう方向にガツガツ手を入れられて自分の方が戸惑う感じだったんですが、今回は「こういう表現は少し行き過ぎなのでは?」「この表現はこういう層からは反発があるのでは?」みたいな方向にインプットが沢山あって・・・
それをただ受け入れちゃうだけだとただ丸まって主張がない面白くない本になったと思うんですが、そういうインプットの一つ一つに対してちゃんと配慮しつつも、自分の主張の軸をブレさせずに通していくだけの力量というか蓄積が自分の中に育っていた事もあって(自分で言ってますがw)、「最初に書き上げた原稿」に比べると断然良いモノになって校了まで行けた感じがしてるんですよね。
9月ごろとりあえず書き上げた原稿を、10月半ばに初校ゲラを出してもらって、それを色んな人に読んで貰って意見を受け止めて、年末までに二回ゲラを出してもらって、それで「見違えるほど良くなった!完璧だろ?」と思ってたところにさらに欲が出てきて、年明けてからもすごい真っ赤に赤入れさせてもらって、さらに校了直前にも「あと五箇所変更させてください!」とか入れ込んだりしてw
それぐらい今回は本当に「やりきれた」感が個人的にはあるんですが、それは「オールドメディア的良識」でリードしてくれたおかげだなと思ってます。
普通はここまで「時間をかけて良いものにしましょう」みたいな牧歌的な気分ごと吹き飛んでしまっている事も多いような。
「自分が出したナマの意見」に対して、「いきなり逃げ場のない対立関係としての”敵”の反論」が帰って来るんじゃなくて、「こういう立場から見るとこの表現はどうなのか」みたいなやんわりしたインプットが沢山あると、「なるほど、確かにそうだな。じゃあもっとフェアな立ち位置としてこういう論旨にしていけばいいのでは」という感じでブラッシュアップしていくことができた。
今までの本は自分の方の力量が足りてなかったこともあって、「10月に出た初校ゲラ」ぐらいのクオリティで世の中に出しちゃってたかもしれないな、というように感じました。
2. 「すりあわせ」型言論が持つ意味はやはりある
つまり、「オールドメディア的良識」があるメリットは、なんか「右の言ってる事も左の言ってることも両方まあまあわかるよねえ」みたいな”気分”があることで、「不倶戴天の敵」になる前の「敵側の言い分」に触れる機会があることなんですよね。
先鋭化した意見が仲間内だけで巨大になってから、「逆側の敵」にぶつかって「決して譲れない戦い」になるんじゃなくて、元々の時点で「世に出る」前にある程度敵側ともすり合わせをして、「なんとなく最大公約数的に共有できる」ものが世に出てくることになる。
それは右からも左からも「許されざる煮え切らなさ」に見えるし、その限界も徐々に露呈してきてはいるけれども、とはいえそういう態度が「ある種の良識」を担保していた部分はある。
こういう「オールドメディア型良識」って、世界中で消えつつある部分だなと感じている人は多いでしょうし、というのはさっきの酒井信明治大学准教授の論文にもあったように、例えば米国とかは本当にメディア産業全体がマネーゲームに巻き込まれることで、「先鋭化しないと売れないぞ!」っていう方向でゲームが組み立てられてしまってますよね。
結果として、保守派が読んでるメディアと進歩派が読んでるメディアの論調があまりに違いすぎて、何か問題があった時もとにかく全部「敵」のせいにしちゃう・・・みたいな方向で競争が全力で行われてしまっている。
こういう感じになると何が良くないかというと、「うっすらリベラル寄りに共感」してたぐらいの普通の人が、「あまりに社会の全ての問題を”古い社会の無理解のせいだ”という方向で一本化した批判に昇華しちゃうwoke型論調」への反感をつのらせて、今度は逆に「いやいやそこまで言わなくても」みたいなレベルの反動ムーブメントに引っ張られていったりする・・・という問題で。
そういう風潮に対して、「あまりに先鋭化しちゃっても良くないよね。同じ社会で生きてるんだしね」みたいな風潮が強固にある日本は、過去20年は
「遅れてる!人権思想を理解しない劣等民族の国だ!」
って扱いでしたよね。
でも世界中の民主主義国家がここまで大混乱状態にまでなってみると、
「いやいや、恨みを溜め込んだ保守派のバックラッシュによってメチャクチャ反動的な政策に押し返されちゃうよりはかなりマシなのでは?」
という再評価がされつつある流れは今後来ると思います。
で、さっきも言ったとおり、こういう「日本のオールドメディアの良識」って、東京の新聞社とかテレビ局とかの多くが、「本業とは別の不動産事業とかグループ会社のテレビとかで儲けてる」という構造によって支えられてるのは間違いないんですよね(笑)
メディアの売上だけで生きるか死ぬかの状況だったら、おそらくもっと「徹底的に先鋭化して煽りまくる」メディアになってたと思うんだけど、そうなってない事の意味・・・みたいなのが一応はあった、と言えるんじゃないかと。
ここまでは「中公新書とか出してる出版社」という「オールドメディアの中でもオールドメディア」みたいな感じの話でしたけど、最近ちょいちょいテレビとか出るようになって思うんですが、(ワイドショー以外の)民放テレビの討論番組とかは、結構「似たような良識」を良くも悪くも持っている面があると思います。
そういう論調は過去20年のグローバルな流行のモードからすると「中途半端」すぎるので、右の人は「テレビは左に乗っ取られてる」といつも言ってるし左の人は「テレビは右に乗っ取られてる」っていつも言ってるというような笑える状況になってたわけですけど(笑)
こういう感じで↑両側から批判されてる事自体が、ある種の「中道的良識」を担保する機能を一応は果たしていた事の証明ですらあると思います。
3. とはいえ、「最大公約数」で誤魔化し続けるのも限界
とはいえ、この「最大公約数」的に誤魔化した言論を続けることの限界みたいなものも露呈してきていて、そうやってナアナアにし続けることで、人口減少だとか社会保障制度の持続可能性とか、その他色んな新しい産業への時代に応じた対応とか、そういう事を適宜一個一個具体的に議論して共有していく回路が「ボヤケ」させられて、それでノロノロと無策のまま惰性で進むみたいな事でいいのか?という不満が高まってきている。
個別具体的な課題を紐解かずに、
「(細かい話はよくわかってないしどうでもいいですけど)とにかく自民党はけしからんですね!」
…みたいなことを言ってオザナリに皆を納得させるみたいなのも、さすがに限界来てますよね。
ただ、「そういうのじゃダメだよね」という機運は日本のオールドメディアの「中の人」も結構思ってる人は増えている実感はあって、今は「新しいやり方」も模索が始まってる最中であると個人的には感じています。
「新しいメディアのあり方の模索」がオールドメディアの中からも始まりつつあるから、今のタイミングで「フジテレビの問題」みたいなのが表に出てきて紛糾するようになった・・・という因果関係すらありそう(中の人の告発があったんじゃないかと言われてるみたいですし)。
「新しいメディアのあり方」っていう話でいうと、色んな側面を速報的かつ詳細に掘り下げることはネットメディアの方がよほど適しているわけですよね。
その分野の専門家が直接一時間とか二時間とか使って一個のテーマを掘り下げる番組とか、旧来メディアは決して作れないわけなんで。
なんか最近は、そういうネットメディアのパワーと「相互補完的」になっていくべきオールドメディアのあり方が見えてきている面があるんじゃないかという気もしています。
ネットメディアは「ちゃんと自分で選んで内容を精査できる」なら物凄い可能性ありますけど、とはいえあまりにも玉石混交すぎるし、めちゃくちゃ党派的に煽ったものであることも多いので・・・
この記事で書いた「過激右派雑誌出身の編集者の悩み」みたいな話と「全く同じ」現象として、今までのネットメディアは
盤石な共有了解としてのオールドメディアが存在している前提で、それに対して「ゲリラ戦」をしかけてその偏りを正してやる!という野心
…という方向で突っ走ってきたわけですよね。
でもいざ、オールドメディア自体が今みたいにグッダグダになってしまうと、旧来の過激右翼雑誌の「中の人」ですら戸惑って「どうしよう?」ってなっちゃうように、今のネットメディアの人も一部には困惑してる人もいると思うんですよね。
情報の「受け手」側からみても、当然「それぞれの小さな党派」に全力でハマりこんでそれで納得しちゃってる人たちはいいけど、普通の人はそれじゃ困るわけで。
その結果として、これからのオールドメディアには、「単なる最大公約数で、とりあえず自民党が悪いってことにして終わっておく」みたいな話じゃなくて、
「ネットの中で既に細かく沢山問題提起された具体的な課題について、サラリとダイジェスト的にまとめた上で、公正客観的に全体像を腑分けしてくれる」
…というような、そういう役割が求められつつある。
そういう
「あまりに党派的になった時代の新しい良識の共有軸の培地」としてのオールドメディア
…というのは、オールドメディアの「中の人」のミドル世代で優秀な人と話していると、別に申し合わせたようにではないけどちゃんと共有されている「次のビジョン」として育ちつつあると思います。
オールドメディアに懐疑的な人からすると現時点では「どこがだよ!?」って思うかもしれないけど(笑)、あと数年もすれば「そうそう、オールドメディアはこういう役割果たしてもらわないとね!」という自他ともに納得感あるやり方が見えてくると思っています。
4. オールドメディアの経営状態は本当に「ヤバい」のか?
日本のオールドメディアの経営状態について、「もうすぐ全部破滅するのでは?」みたいに思ってる人結構いると思いますし、僕もちょっとそうなのかな?と思っていたんですが、さっきざっくり調べたら「結構経営的にはしぶとい可能性」があるな、と感じました。
新聞・出版・テレビ・・・とありますが、ヤバい順に並べると
新聞>>>>>>>>>出版>テレビ
って感じに「新聞」が一番ダントツでヤバい。
新聞の部数減少は本当にやばくて、
この記事によると「年間200万部ずつ減少」してきているらしい。
上記記事によるジャーナリストの亀松太郎さんによるこの図↓はすごいですね。
ただし、ここ直近5年ぐらい「つるべ落とし」のようにメチャクチャ部数減少しているわりには、朝日新聞の決算とかはこんな感じ↓なんですよね。
「下げ止まり!」という言葉の具現化のような朝日新聞社決算↓
新聞社の決算発表ってメチャクチャ不親切というか(他者は批判しまくるくせに自分の透明性はめちゃ低いっていういつものパターンw)、読売とか決算公告すらしてないぐらいで、朝日新聞が一番透明性高い感じなんですが、それでも上記売上のセグメント情報とかも開示されてないのでなんで「下げ止まって」いるのか精確にはわかりませんが・・・
ただ部数減は明らかに続いてると思うので、他の不動産業を真剣にやるとか、あと案外系列テレビ局とかとの会計上の処理をチョロっとイジってる可能性もありますね。
産経新聞などは明らかにフジテレビに”おんぶに抱っこ”で成立しているのは有名な話ですが、直近の産経の決算書を読んでみても、
2024年3月期に大幅に売上減少して大きなリストラ費用で経常利益が大幅赤字になったかと思えば・・・
2024年9月の中間決算では、なぜか売上が何の説明もなく半期で12.7億円も増えてギリギリ営業黒字に着地(笑)していて・・・
大幅な部数減が下げ止まったという話も聞かないのに「ちょうど”ちょい黒字”になるぐらいの謎の大幅売上増」があるのは、グループ会社から何らかの融通があったという可能性は高いように思いました。
何にせよ、テレビ局が千億円以上の売上でIR資料も「億円」単位で書かれている部分が多いのに対して、新聞社は「数億円」とか「数千万円」で黒字になったり赤字になったりする世界なので、なんとなーく共同でナニカしてる事にして補填すれば誤魔化し誤魔化し成立させられる構造があるように思います。
以下の本、フジ・メディア・ホールディングスの歴史について「メチャクチャ面白い、面白すぎる」本で、近いうちにnoteで紹介しようと思っていますが、この本には、既に30年以上前からずっと「フジテレビが産経新聞をあの手この手で財務的に支えている」様子がかなり詳細に書かれています。
『メディアの支配者』(講談社文庫)中川一徳
堀江貴文氏が昨日YouTubeで、フジテレビはニッポン放送とかBSフジとかの子会社の方がよほど利益が出ていて、フジテレビ単体では収益がすごく少ない。それは経営が間違っているからだ・・・という話をしていましたが・・・
でも多分それは、「フジ・メディア・ホールディングス全体」の中で共通経費的な部分をフジテレビが単体で支出している構造が沢山残っているからで、フジテレビ自体の経営はまあまあうまく行ってる可能性も高いなと思います。
例えば「報道」機能を共同で行っていて、海外支局とかの維持費用などは「共同で持っている」ことにして、実質的にはフジテレビが産経新聞に利益補填をしている・・・というような構造ですね。
その他、美術館とかいろんな不動産事業とかで投資をする時にカネがいるとなると、フジテレビが「グループ全体の財布」のように使われていた流れが残っているのではないかと思います。
で、実際、民放テレビ各社の業績をチラホラ見てると(こっちは新聞よりよほど透明性高くてわかりやすい資料が結構ある)、「本業」部分の収入自体だけで見ても最近はそれほど減ってないどころが微増ぐらいはしてるんですよね。
以下はフジテレビ単体の売上高の増減要因ですが、右半分の「催事」とかの単発ビジネスで減収ですが、左半分の「放送メディア」部分は全部「微増」ぐらいではあります。(他のテレビ局も似たりよったりだったように思います)
つまり、テレビ・メディアの影響力は、20年前からは激減したけど、「あるレベル」で下げ止まってはいて、あまりに乱立するYouTube勢に対して共通了解を提供する価値は未だに残っているのだ、と論評している人を時々見ますが、経営数字的にもそれはかなり裏付けられていると言えるかもしれません。
また、テレビ局はその「本業」だけで見ても微増レベルな上に、フジテレビがアマプラとかネトフリみたいな「FOD」をやって150万人有料会員がいたり、各社アニメを手掛けた分のマーチャンダイジングで儲けたりと、副業も結構伸びてきている印象がありました。
また、「下げ止まって」いるのは出版も同じで、
こんな感じで、電子書籍がすごい伸びることで出版全体の市場規模は「横ばい」で、長い目でみると「下げ止まり感」がすごくあります。
上記のグラフには出てないはずですが、最近は電子書籍の多くを占める漫画の海外販売分もすごい勢いで増えているはずですから、想像以上に「出版全体」で見ると安泰と言っていいように思えますね。
ここまでをまとめると、日本のオールドメディアは純粋な発行部数とかの売上でいえば、
新聞>>>>>>>出版>テレビ
の順番で「ヤバい」ように見えるけれども、
・最近の出版は「横ばい」ぐらいではある
・最近のテレビ局は放送収入だけで見ても「微増」ぐらいではある
・新聞は単体ではヤバいがグループで助け合ったり不動産でなんとか凌げる可能性は高い
というわけで、「個社」レベルではヤバいところもあるだろうが全体としては「かなりしぶとい」可能性が高い。
今後、日本人の人口が大きく減った分は「海外からのアニメ関連収入」とかが補填していく流れも既に見えている感じなので、まさに「たゆたえど沈まず」という感じの「強くもないが死にもしない」感じがあります。
このセクターが「良識担保機能」を維持したまま、新しい時代への対応能力を得ていけるようになれば、日本社会は欧米のような分断の深刻化を避けながら必要なアクションを起こしていけるようになるのではないでしょうか。
ちなみに、この「ものすごく伸びてもいないが滅亡する感じでもなく細かく見れば売上が年々微増し続けてはいる」というのは、「ジャパニーズトラディショナルカンパニー」の決算見てるとある種「結構ある一つのパターン」だなという印象はありました(笑)
5. なぜ今、フジテレビ問題が紛糾しているのか?
今、フジテレビ&中居くん問題・・・みたいなのが紛糾してますけど、面白いのはコレをガンガン批判してるのはかなり「保守派」寄りの人も含まれてるところだなと感じてます。
昔は、「性加害みたいなことをするのは、”悪の保守派側”の人間であり、高潔なリベラル人士は決してそんなことはしない」みたいな風潮があったんで、女性問題が一個あるとそれがすぐ「代理戦争」化して、保守派側が「女たたき」をせざるを得ない情勢になっちゃってたわけですよね。
伊藤詩織さんの事件の頃は、あまりにその「代理戦争化」が激しすぎて、女性への性加害問題だけをクリアーに扱うことが不可能な情勢だった。
でもそういう「代理戦争」化が収まってきて、園子温氏とかのように「SEALDsとかに入れあげるタイプの左翼の人だって性加害するよね」というのが当たり前な情勢になった事で、溜まってたフジテレビの反感もあって「保守派側」も性加害告発みたいな事を嬉々としてやる流れになっている。
つまり「政治的党派争い」と、「女性への性加害問題」がデカップリング(分離)してきているからこそ、社会全体でそういう課題に協力して改善をしていきましょうという流れが結実してきているのだと言えるでしょう。
で、これは、オールドメディアの役割自体が変わってきて、
「より新しいこれからのオールドメディアの役割」が見えてきているからこそ起きている変化
・・・・なのではないかと個人的には考えています。
さっきも書いたように、あまりにネットメディアが「右も左も党派的に煽りまくる」方向で先鋭化することで、逆に「オールドメディア型の良識」が何らかの形でそれを補正してくれる事を求める潜在的ニーズが出てきているように思うんですね。
「なんとなくとりあえず政府と自民党が悪いってことにしてナアナアに共通了解を作る」みたいな今までのオールドメディアの態度に限界が来て、その欺瞞をネットメディアが右と左に引き裂こうと全力を尽くして突き上げる情勢になった事で、「このままじゃダメだよね」という危機感が新しい機運を作りつつある。
その「ネットメディアの存在感とむしろ”補い合う”形で、新しい共通了解を作るという役割」が「新しいオールドメディアの役割」として見えてきている。
まだその「受け皿」がオールドメディア論調の中に目に見える形では顕在化していないので、なかなか「オールドメディアの可能性」とか言われても信頼できない人も多いと思いますが・・・
ただ、
・日本以外の民主主義国がどんどん「分断化の混乱」にハマっていく一方、日本は「奇跡の議席配分」ゆえになんとか中道の話し合いの道を見つけなくてはという機運になっている変化
・人口減少局面の人手不足が深刻となり、アベノミクス時代のように「必死に職を皆に配るために無理をする」必要がなくなってきている変化(この記事で書いたような)
・保守系野党にも女性議員が増え、かつ「普通に日本企業内で出世した女性」が新しい論調を生み出すことで、日本社会と「女性」との新しい和解の道が見えてきている変化(この記事で書いたような)
…といった機運が高まってきており、本能的には日本社会が「次の着地点」に向かって動きつつあるのを個人的には感じています。
そういう「オールドメディアの新しい役割」が見えてきつつあるからこそ、「古いタイプのオールドメディアの悪い性質」はこの際捨て去っても良い段階に来てるよね、という風潮が結実しつつあると言えるのではないでしょうか。
そうなることで、「政治党派の右と左」と「女性加害問題」がデカップリングしてきて、社会全体でそれに対応できる情勢になってきていることが、今回のフジテレビ問題を露呈させる大きな力になっているように思います。
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なんだかんだ、岸田首相がやめたころから本当に日本の政治って大混乱しか見えない感じですが、ただ「巨視的に巨視的」に見れば、国際情勢の変化に対応する「中道路線」で具体的な解決を積んでいかなきゃね、という風潮が高まってきているのだと言えるでしょう。
その中では、案外「生まれ変わったオールドメディアの使命」がクローズアップされる流れもあると思います。
「ダメなオールドメディアの旧態依然」はどんどん批判しまくって焼け落ちてしまっても全然OKな情勢になりつつありますし、でもその先にこそ「オールドメディアだからこそ」の価値が、世界中の民主主義国が分断と罵りあいの混乱に陥っていく中での、新しい「良識ある中道路線」をリードできる可能性があるのではないでしょうか。
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とりあえず、以下の本は本当に「全力を尽くせた会心作」だと思っているので、ぜひお読みいただければと思います。
2月7日発売ですが、もうアマゾンで予約できます(予約していただけると販促上少し良い効果があるようなのでぜひ)。
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長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。
以下は、ちょっとめっちゃ久々に香港映画を見た・・・っていう話を聞いて欲しいんですよ。
20年ぐらい前に「インファナル・アフェア」っていう超超超超名作香港映画があったんですが、その出演者のトニー・レオンとアンディ・ラウが再度集まって似たようなテーマでやるんだ、っていう話で。
うちの奥さんが「インファナル・アフェア」の大ファンなので、誘われて一緒に見てきたんですが・・・
なんというか、やはり「香港映画のパワー」って随分弱まってしまったんじゃないか、みたいな気持ちになりました。
まあまあ面白い話なんですが、なんかこう、「インファナル・アフェア」の圧倒的真実のパワー!みたいなのと比べちゃうとね・・・
やっぱり、中国による「言論統制」が持ってる悪影響みたいなのをすごい感じるところがあったんで、やっぱり言論の自由って大事だな、と強く思うところがありました。
と同時に、「何かを無理にかばっている」「本当に言いたいことは言えない感じ」になってるところを妙な美談とかエロとか「よくある話」で埋め合わせてるんじゃないか・・・という部分が、つまりその「ちょっと薄ら寒い感じ」が日本の民放テレビドラマとちょっと似てる部分あるかも?とついつい思っちゃった部分もあって!!
ちょっとそれについて色々と考えたいことがあるので、以下ではその話をします。
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つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2025年1月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。